特捜官、再びあずさ銀行へ行く
そして坂上の判決の翌週の火曜日に、C4に出勤したあたしはあんまり聞きたくもない銀行名を再び聞くことになった。あたしは足を組み替えながら、腕を組んで不愉快なそぶりを隠さなかった。
「あずさ銀行? あんまり聞きたくない名前なんだけど、とりあえず話だけは聞くよ」
だいたいあたしに面倒ごとを持ってくるのは真治と相場が決まっている。
「まだ確定している訳じゃない」と真治は説明を始めた。
「あずさ銀行は去年から取引全てに対して外部の不正警報システムを入れている。その中に、今回は説明のつかない取引があった。もちろん、銀行内で調査もしている。しかし原因がわからないんだ」
あたしは、真治の説明を聞いて、当然の疑問を抱いた。
「あのさぁ、それって、事件性がある訳なの?」
「警視庁C4の役割に、援助っていうのがあるのは知っているか?」
あたしは首を横に振った。
「なによ、それ?」
真治はにやにやしながら、言葉を継いだ。
「事件が発生してから対処するより、その発生前に対応した方が、捜査にかかる費用が少なくて済む。これは自明だ。犯罪捜査といえども、捜査費用とその犯罪の影響、抑止効果などを含めた複合的なコスト意識を持たなければならない。たとえば、
援助?単なる窃盗犯の逮捕に多額のコストをかけて捜査することなんて、許されることじゃないからな」
真治の説明に頷く以外なかった。
たしかに、捜査費用だって無限にあるわけじゃないし、犯罪抑止の方が犯罪捜査よりもコストはかからないだろう。
真治が説明を続ける。
「だから、犯罪の懸念がある場合、民間企業が事件発生前であっても、警視庁に援助を要請することができる。警視庁がそれに応じて対応することすることができるんだ。今回はそれに該当する話になる」
そんな言葉は初耳だ。というより、いやな予感があたしの全身を貫いていた。
真治が真面目な顔をした時にろくな話がない。それはよく知っている。
真治は、あたしのじとっとした目つきにお構いなく、話を続けた。
「説明のつかない取引というのは、振込元の特定できない資金移動というやつだ。因みに振込先は、海外の、まあいってみればきわめて追跡の難しい銀行口座だ。だから、振込元も、振込先も追えない。ただ、資金だけが動いている」
あたしは真治の説明がまったく理解できなかった。
「ちょっと待ってよ」
あたしは真治の話を遮って言葉を継いだ。
「振込先が海外だから追えないって言うのはまだ分かるよ。だけどさぁ、振込元が追えないって何? そんなことあり得るの?」
「あり得るかどうかと言えば、現に存在しているからあり得るんだろうさ」
真治はこともなげにあたしに言ってみせた。
あたしはそんな言葉で納得出来るはずがなかった。
「どう言う理屈でそんな取引が存在するのよ? だって銀行でしょ? 銀行の取引で誰だか分からない人が振り込みをすることなんて出来ないと思うんだけど」
あたしの疑問に、真治が口を開いた。
「銀行取引に関して言えば、取引は全てトランザクションという明細単位に分割されてから処理される。これは想像の域を出ないが、トランザクション一件まで分割されてしまえば、それから大本の金融取引がどれだったか連携させるのは難しいケースもあるんだろう。ただ、それはイレギュラーなことは間違いない」
銀行の仕組みってそんなにいい加減なんだろうか。
真治の言葉に反駁は出来ないけど、頭の奥底で違和感が拭えない。
あたしが考えていると、真治が聞いてきた。
「沙織は銀行勘定系システムに関して何か知っているか?」
残念ながら銀行のシステムなんてあたしの専門外だ。
そもそも勘定系って一体何? どんなシステムかも分からない。
だから真治の質問に、あたしは首を横に振って「ほとんど何も」と言った。
真治は肩をすくめた後、簡単な説明を始めた。
「銀行システムは複雑怪奇で、銀行員ですらほとんど全体像をつかんでいる人なんていないんじゃないかな。振込に関して言えば、その現金は銀行のものじゃないから、特別な勘定科目が使われるんだが、いわゆる会計処理の一部として動くことに間違いはない。だから、極端なことを言えば、銀行資産を振込元としてトランザクションを作成することも不可能じゃない」
「はあ? それって、銀行の持っているお金を振込元にしているって言ってるの?」
「可能性の問題だ。そんなことも理論的には可能だって言っているんだ」
あたしは、真治の話を聞いてもさっぱり現実感がなかった。つまり、この件に関して、あたしは役に立てないと言うことだ。あたしはちょっとだけ微笑んで、真治に言いかけた。
「あたし、この件に関してお役には……」
あたしがそれを言い切る前に、真治が遮った。
「この件で役に立てそうな人間といえば、お前位しかいないんで、協力してもらうことにした」
真治は満面の笑みであたしに断言してきた。
――これだ。こう言うことがなければ、もっと好きになれるのに。
あたしはぶすっとした顔で言った。
「悪いけどあたし、たぶん役に立てないよ」
そんなわけで、あたしは真治と太田と一緒に、再びあのあずさ銀行に行くことになったんだ。
あずさ銀行の正面玄関からあたしが入ると、やっぱりあの受付がいた。
あたしと真治が入るとあわてて頭を下げた。それどころかその後敬礼までしてたのは明らかにやりすぎっぽい。あたしは苦笑しながら、案内役の銀行員の後に付いていった。
そしたら、前と同じ一二階の会議室に通された。
そこには前と同じ銀行員メンバー七人と、あとなんだか元気のなさそうなちょっと若めの人が一人いて、併せて八人がいた。
「九条特捜官、一色特捜官、よくいらっしゃいました」
いきなりの宿木専務の先制攻撃だ。太田が無視されてる。
「面倒なお願いをしてすみませんが、C4としても、特捜官二人と、太田巡査長の計三人で対応させて頂きます」
真治は握手した後、さりげなく太田を追加してた。おとな的な対応という奴か。
だけど、真治の言葉にあたしはちょっぴり違和感を覚えた。
――お願い? なんで? あっちが援助を求めたんじゃないの?
「こちらに来る日程はこちらで指定させて頂きます。それから恐縮ですが、今後一ヶ月間我々専用の区画を用意して頂きたい」
宿木専務は、真治の言葉に簡単に頷いて言った。
「九条特捜官と一色特捜官用にそれぞれ区画を用意しましょう」
やっぱり太田は含まれてない。まああたしの区画で仕事をすることになるだろう。
たしかシステム部長だった大石さんが口を開いた。
「必要な作業などがありましたら、いつでもご指示ください。すぐに対応させて頂きます」
真治は頷いた後、大石さんに早口で依頼した。
「まず、電話で指示した資料と、今回判明した取引に関してそちらで調査した内容の一切を、準備してください」
大石さんは傍らにいるやや痩せた人に向かって指示した。
「新見課長、すぐに準備してくれ。全部二部複写して、お二方の専用区画に準備してくれ」
新見課長と呼ばれた人は、頷いた。
「すでに準備してあります。区画に関して今総務部と調整していますので、あと一時間もせずに運び入れ、備品の搬入などを含めて完了します」
新見課長は優秀そうな雰囲気を隠しもせずに言い放った。
そして、あたしと真治、太田にカードを渡した。準備万端だ。ある意味、銀行員らしい。
「入館カードです。一色特捜官に関しては、役員室やサーバ室を含め、当社本社に関する全ての部署に入退室可能な設定になっています。九条特捜官と太田巡査長に関しましては、遺憾ながら一部限定させて頂いております」
――え? なんであたしだけどこでも行けて、真治がダメなの?
あたしは疑問に思ったけど、真治は顔を上げて、新見課長に聞いた。
それは確認と言った感じだった。
「女子更衣室?」
新見課長は軽く頷いた。
「はい。女子更衣室、授乳室等、女性のみが利用できる部屋に関しては、一色特捜官だけの権限とさせていただきます」
なるほど。そりゃそうだ。セキュリティの基本を忘れてた。地位が上の方が権限が大きい訳じゃない。必要な所に権限を与えるのが当然だ。
真治は苦笑してから言った。
「それで結構。それから、突然私たちが入室してもトラブルのないように通達しておいてください。そうですね、わたしたちの身分は明かせませんから、監査の一環として下さい」
「九条主任って、すごいっすよね?」
太田が勢い込んであたしに話しかけてきた。
「必要な手当とか、速攻で提示して渡り合ってましたよ」
あたしは真治の経歴を思い出して、太田に説明してみた。
「前に聞いたんだけど、真治ってコンサルタントとかやってきた経験があるんだって。コンサルって詐欺師みたいなものだって真治が言ってたことがあるし、口がうまいんじゃないの?」
あたしは、銀行が提供したあたし専用の部屋で足を組んで言った。そこは、二〇階にあって、役員とかが使う部屋らしい。あたしの隣が真治の部屋だった。太田は、真治の指示であたしの部屋の隅に机を用意された。不満もあったけど、真治の方が階級が上だし仕方がない。
あたしは、資料の中から一番取っつきやすいネットワーク構成図を手に取ると、ぱらぱらと見てみた。特に問題のある部分は見つからなかった。あと外部と内部の間の通信制限をしている防火壁(ファイヤーウォール)の設定を見て問題がなければ、あたしの出番はなさそう。
――システムの内容を記述する要件定義書とか見てみたけど、全然何をしているのかわかんなかったし。
そんなことを考えているとき、ドアがノックされた。そして、あたしが返事をする前に真治が入ってきた。
「ノックの返事を聞く前にレディーの部屋に入らないでよ」
真治はあたしの文句なんて無視して言い放ってきた。
「俺は全部の部屋に自由に入る権限があるんだ」
「女子更衣室は?」
あたしの突っ込みに、真治はちょっとだけばつが悪そうにしていた。
「まあ、ちょっとだけ作戦会議だ。いいだろ?」
あたしが真治に抱いている心証はちょっと複雑だ。真治は言うまでもなく優秀だ。
だけど、あたしはまだまだ特捜官としては未熟な存在。
自分でも真治に認められたいって言う本心も分かっている。
だけど、真治はあたしを軽く見ていて、いつもからかってくるんだ。
あたしはそれが嫌だから、玉に突っかかってしまう。
でも、仕事の話は別だ。
あたしが頷くと、真治は部屋の奥まで入ってきて、太田の横に座った。
「俺たちは、遅くとも一ヶ月後までに、何らかの報告書を所長に提出しなければならない。その報告書も、特捜官が二人も行って何もわかりませんでしたというわけにはいかない」
あたしは再び頷いた。
すると、真治はあたしを正面から見つめて瞳を覗き込んで、こう言ってきた。
「いいか、沙織。お前は特捜官だ。だから、お前は実績を残さなきゃいけない。それがどんな案件だろうとだ。たとえどんな事件でも、周りにさすがと思われる実績を残さなきゃ、特捜官なんて意味がない」
それは予想外の言葉だった。
真治の真面目な台詞にあたしはあっけにとられた。
「お前は、ハッカーとしては一流だ。だが、特捜官としてそれだけじゃ足りないんだ。どんな事件でも、それなりの実績を残すことが沙織に求められていると思え。そうじゃなきゃ、宿木専務だって、まだ若いお前にこんな役員室を提供してこないだろう?」
言われてみれば確かにそうかも知れない。
太田が区画をもらっていないのは、ある意味あたりまえのことなんだ。
真治を見つめ返すと、小さく頷いてから真治が続けた。
「今回の件は沙織が単なるハッカーじゃないことを示すために重要な案件なんだ。いいか、気を引き締めてかかるぞ?」
真治はあたしのキャリアと信頼をちゃんと考えている。それがよく分かった。
ただ、それはまだ未熟だって真治から真正面から言われているようで、ちょっとだけ胸が痛かった。
「うん。わかったよ」
真治は軽く微笑んだ後、あたしに一つだけ聞いた。
「銀行の調査結果報告を見たか?」
あたしが首を横に振ると、真治は説明を始めた。
「いいか、こういう場合はすでに行われた調査を最初に見るんだ。それ以外の資料なんて必要になるまで見なくていい。そして全体像をつかむのが先だ」
言われてみればあたりまえだ。それが一番効率的だろう。
なんでそれに気付かなかったのか、あたしはちょっとだけ落ち込んだ。
経験の差を真治から示された気がする。
だけど真治はそれに全然気付かずに、説明を続けてくる。
「で、今回の件について言えば、銀行は不正なトランザクションをほとんど特定できていない。おかしな送金は確認しているんだが、それが何に由来するものかわかっていないんだ」
そんなことあり得るんだろうか。
その真治の説明に、違和感バリバリのあたしは疑問を投げつける。
「送金されているのにその原因がないなんてあり得るの?」
あたしはその質問をしながら、そんなことは当然銀行の人も認識しているだろうし、調べただろうと分かっていた。だけど、あたしはそれを聞かないわけにはいかなかった。
「真っ当なシステムの設計上はあり得ないはずだ。そりゃ分かってるよ」
真治は肩をすくめてから、そう言った。そして、原因となりそうなことを説明してきた。
「銀行の基幹システムは一般に、振込処理は個別の取引とは別個に動いているんだ。だから、普通は送金データの一部に取引別のトランザクションコードをつけて連携させる。でも、それは実は機能上は必須じゃないんだ。一般にこういうことはプログラムのミス(バグ)で起きえることなんだが、よくわからない送金が発生することはそう珍しいことじゃない」
「銀行のシステムではバグが普通だってこと?」
あたしの疑問に真治は薄く笑って否定する。
「いや、それは開発環境において、だ。本番機で継続的に発生することはあり得ない。振込処理で現預金勘定が直ちに増減するから、毎日の会計締処理の中ですぐに判明する」
普通、プログラムなどのシステム開発は開発環境で行う。そして、全てのテストを終えた後に、実際に利用する本番環境にプログラムを移行して利用を開始する。
つまり、真治はテストではあり得る事象だけど、本番ではすぐに分かるので、修正されるだろうと言っている。
真治の説明をあたしは頭の中で再整理してみた。そして、自分の理解している言葉で聞いてみる。
「それって、送金に関わるプログラムは単にその指示通りに振込するから元をたどれないこともある。でも、毎日合計金額を集計しているから、もし不正な送金があれば合計が一致しなくなるからすぐにわかる、って言うことだよね?」
つまり合計は一致しているから気付かれなかった。
でも不明なトランザクションが存在している、ということは?
あたしは、あり得る可能性を声に出してみた。
「それって、プログラムに何らかの手当をされている可能性があるって言うことにならない?」
真治はあたしを見て軽く頷いた。
「その通りだ。その可能性は充分あるだろう」
真治は傍にあったあずさ銀行の報告書を見ながら説明を続ける。
「銀行が調べた結果、この不明な送金は少なくとも半年前から継続している。合計金額は最低で一億を超えるようだ。ただし、それが不正なものかどうかもわかっていない状況だ。今回判明したのも、事後監査を目的とした不正警報システムによるものだから、送金を止めることはできない。送金時にチェックする方法がないんだ。沙織はどうすればいいと思う?」
突然の質問だ。目を閉じて考えてみる。
問題は何か。
そもそも、不正かどうかも分からないんだから、それを確定させなければ話にならないはず。
――不正かどうかを確定させるためにはどうすればいい?
あたしは、考えを整理した後、ゆっくりと答えた。
「トランザクションが不明な送金を全部ピックアップするの。過去一ヶ月分でいい。そこから、原因が明確なものを全部除外するんだ。残ったものは全部怪しい取引として分析する」
真治は頷いて何かを言おうとした。
あたしはそれを遮って言葉を続けた。
「もう一つ。その不正警報システムって外部ソフトよね? その会社に問い合わせて、今回不正と判断したパターンはどういう意図によるものか確認する必要もあると思うわ」
真治は目をぱちくりさせていたが、やがて口を開いた。
「そうだな」と言った後、真治は小声でつぶやくように言っていた。
「沙織を呼んでよかった」
あたしはその言葉を確かに聞き取ることが出来た。
そして、あたしはその言葉の意味を理解して、真治をじっと見つめるしかなかった。
真治は目をそらしたけど、耳たぶが赤かった――気がする。
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