第二章 不正確な計算をするコンピュータ
パワハラと絞殺による殺人未遂の選択を迫られるセクハラ男
年が明けて一月、貴重な休日である土曜日に社会人院生のあたしは大学院の授業に出ていた。
――だって修士の単位が足りなくなる危機の危険が危ないから。
仕事をもつ大学院生は大変なのだ。
今日の講義は国際金融論。教えるのは七尾っていう客員講師で、外務省の参事官だそうだ。三十代だって聞いたけど、見てくれは二十代にしか見えなくて、それに顔立ちも悪くない。大学内には男が少ないこともあって、人気者らしい。
ちなみに、参事官って言うのは滅茶苦茶偉くて、警察だと警視長クラス。あたしの五階級上になる。
そして、授業が終るちょっと前に、あたしの携帯電話が震えた。あたしは慌てて廊下に出て、電話を受けた。電話の相手は渋谷署の課長代理だった。
『一色特捜官ですか? 先日はどうもありがとうございました。例の転売屋の坂上ですが、東京地裁で実刑判決が出ましたので、お知らせします』
「実刑? ホントに? 執行猶予が付かなかったの?」
この程度の犯行なら、執行猶予付きの判決になるのが普通だ。よっぽど検事が凄腕だったんだろうか。あるいは弁護士が間抜けだったとか?
『どうやら、最後まで黙秘を続けて判事の心証を害したらしいです。控訴もしないようです』
あたしはその電話を切ると、肩を竦めて呟いた。
「アイツ、何考えてるんだろ?」
その時、突然肩をたたかれた。振り返ると、それは講義を終えた講師の七尾さんだった。
「授業を途中で抜けるのは感心しないね」
「あ、あたし、仕事があるので、電話に出ないわけには行かないんですっ!」
あたしは慌てて説明する。
「警視庁の仕事だから、緊急なものもあるし――あ、教授会にも許可は取ってます」
「え、け、警視庁?」
ビックリしたように七尾さんはあたしを見つめて続けた。
「警視庁で何やってるの?」
「ええと、コンピュータ特捜官を少々……」
言ってから、『少々』ってなんだって自分で頭を抱え込んだ。
馬鹿すぎる。
あたしの説明に、当然七尾さんは納得したように見えなかった。無理もない。
だから、財布から名刺を取り出して渡してみた。そこには、階級も書いてある。
「巡査部長? コンピュータ犯罪対策総合センター?」
しばらく七尾さんは呆然とした後、気を取り直して続けた。
「いや、ビックリしたよ。だけど面白い。是非話を聞かせて欲しいな。知っているかも知れないけど、私は外務省時代に警察庁と人事交流したこともあるから」
「えー? あんまりたいした話はないですよ。外務省の方が派手な感じがしますけど?」
あたしの言葉に軽く笑うと七尾さんは口を開いた。
「そう見えるかい? だけど外務関係の仕事は実際は地味なのが多いんだ。あんまり表立ってやらない仕事も多いしね。そうそう、今も、テロ関係で警察庁と情報交換してるよ」
七尾さんは名刺を取り出して、あたしに渡してきた。
その名刺には外務省第四国際情報官室参事官、七尾文義と書かれていた。
C4で、大学院のことを思い出していると、不意に言葉が出た。
「参事官ね。悪いけど、あたしには縁がなさそう。やっぱりPCを使う仕事のほうが似合ってる気がするし、プログラムを見ている方が性に合うよ」
そう言ってPCに目を向けた時、例の坂上の調書ファイルが目に入った。
あたしは、坂上の実刑判決の連絡で、もやもやしていた疑問があったことを思い出した。
ちょうど事件がなくて暇がてんこ盛りだったこともあって、調べてみることにする。
例のよく分からない送金用のプログラムを、隔離された検証機で動かしてみた。
やっぱり、起動すらしない。
あたしは、そのプログラムの起動直後の挙動を調べて、一つだけ分かった。最初にインターネットに接続に行ってる。そこで失敗すると起動しないみたい。接続先は、どうやら海外だ。
だったら、その接続先のサーバーを偽装すれば良いはずだ。
あたしは、テスト環境にインチキな海外サーバを作り上げた。サーバって言うのは、一言で言えば、大きなコンピュータのこと。そのプログラムは、自分が海外に繋がっていると思うはずだ。インチキサーバを見れば、どんな接続を試行したのか分かると思った。
だけど、そううまくいかない。
暗号化した接続らしく、最初に相手が正しい応答をしないと勝手に切断するようだ。
決済システムだから、セキュリティを意識しているのだろうか。
プログラムを直接解析してみた方がいいかもしれない。解析ツールを起動して、そのプログラムの動きを調べてみた。だけど変だ。今度はネットワーク接続前に勝手に終了している。
これは普通ではあり得ない挙動だった。少なくとも、ビジネスで利用するアプリではあり得ない挙動と言って良いだろう。
「ガード固いわねっ! 背後で解析してるのに気付くと終了させるのかな?」
解析されていることを検知して、対策をとるアプリそれ自体は珍しくはない。だけど、それは少なくとも業務に使うようなアプレの動作ではないと思う。
業務アプリはその動作の確実性を最優先に作るもので、それを阻害するような挙動は避けるのが普通だ。
「怪しすぎるでしょ、このアプリ」
あたしが首をかしげていると、真治が後ろから話しかけてきた。
「どうした? 何かあったのか?」
「あのさぁ、こないだ捕まえた坂上のPCに入ってた変なプログラムを調べていたんだけど……。どんな動作をするのか全然わかんないんだ」
「わかんないって――何でそんなのに拘ってるんだ? アイツもう有罪判決受けてるだろ?」
「そうなんだけど、坂上はあたしと話したときの様子が変だったから気になるのよね」
「ふうん? ちょっと見せてみろよ。プログラムに関してなら俺のほうが得意だからな」
そう言って、真治はあたしが座っている椅子を強引に横に移動させた。
動いた拍子に、真治の胸に頭が触れる。
あたしはちょっぴりドキドキしながら大声を出した。
「ちょ、ちょっと! 真治ってば、乱暴なんだからっ」
真治はあたしの抗議なんて無視して、プログラムを指差して聞いてくる。
「これ?」
あたしが頷くと、真治は最初にプログラムの設定情報を調べ始めた。そして、バイナリサーチをした後、呟くように言う。
「まっとうなプログラムじゃないな。しかも、個人が作ったものじゃない」
真治は少しだけ驚いた雰囲気を出して、断言してきた。
「え? そうなの?」
あたしの問いに、真治は薄く笑った。
「実行ファイルに署名がある。この署名は個人に付与されないタイプだからな。しかも、有効なのに署名情報に欠落がある。徹底してるな。こりゃ製造元を探すのは無理そうだ」
真治はそこまで呟いた後、肩をすくめて自分に疑問を発した。
「だが、これは信じられないな。何でここまでガードするんだ?」
そして、今度はあたしの方に向き直って聞いてきた。
「一体これは何のプログラムなんだ? 坂上って言ってたな。お前はアイツの何が気になったんだ? 単なる転売屋じゃないのか? 例のFX取引の関係で警戒してるとか?」
真治の問いに、あたしは短く説明した。
いや、説明しようとした。
「グローバルアクセスバンクっていう――」
あたしがそういいかけると、真治は大声で遮ってきたんだ。
「なんだとっ!」
あたしは真治の剣幕に驚いて、まじまじと見つめた。目が真剣だ。
――なに? 何があったんだろう?
「どうしたの? 突然大声を張り上げたりして?」
真治は、あたしの不安そうな目に気付いて、一旦咳をして場を誤魔化してきたようだ。
「グローバルアクセスバンクがどうしたんだ?」
あたしは、何とか気を取り直して、説明することにした。
「坂上の送金口座の一つにグローバルアクセスバンクって言うのがあったんだ。振込み用プログラムが指定されてて、これがそれだよ」
「送金口座? 坂上がか? 報告書にそんなこと一つもかかれてなかったぞ!」
真治が怒った目で言ってくる。あたしは不満そうに言い返した。
「えー? でも事件に関係ないことを調査報告で書いたって……」
「バカ野郎! 調書とは違うんだ。報告書は事実を書くのが目的なんだよ。事実関係は漏らさずに書かなきゃ、事件の正確な判断が出来ないだろ?」
その信じられない言葉に、あたしは激髙する以外の選択肢を奪われていた。
「待ちなさいよ! 今、真治ってば、あたしのこと野郎とかって言わなかった? あたしは、可愛くてきれいな女の子よっ!」
あたしの言葉に一瞬真治は口ごもった。まずいと思ったのかもしれない。
「だが、俺は事実と証拠を重んじる男だ。俺はお前が女だって言う証拠を見たことが……」
あたしはそのセクハラめいた言葉に、一大決心をする。
――真治ってばあたしを女だって認めてないって?
真治に胸が触れるほど側まで寄って、真治のネクタイに触れた。真治が慌てたように見える。
「お、おい?」
真治の胸板に手を触れてから、真治を上目遣いで見た。
そして少しだけネクタイを両手で弄んでから、鶏を絞めるときのように、ネクタイで真治の首を締め上げていく。
「外見で分からないあなたの未熟を恥じなさいっ!」
真治はぎょっとして、首元を守った。そして、あわててネクタイを押さえつつ、あたしから離れて声を上げていた。
「パワハラだ」
――セクハラ男がパワハラを主張するわけ?
呆れてものも言えない。
「あのね、パワハラは上司が部下に仕事で行うものなの。今のは単なる絞殺による殺人未遂でしょ?」
あたしが懇切丁寧に教えてあげると、真治は不満そうに言い返してきた。
「お前の理屈が全く理解できないが、とにかく、状況を教えてくれ」
「坂上が集金先の口座に海外の銀行を指定した時期があって、それがグローバルアクセスバンクなんだけど?」
「それだけか?」真治は少しだけ不満そうな顔をした。何か気になるものがあるらしい。
「坂上のPCにグローバルアクセスバンクとのやり取りのメールは残っているんだよな?」
「それが全然なかったの。聞いたことのない銀行だし、アクセスは専用のソフトだけで、ネットアクセスの形跡もないんだよね。怪しいから調べようと思ってたんだ」
「それじゃ、何でそのソフトがグローバルアクセスバンクに繋ぐためのだって分かったんだ?」
「坂上って、結構几帳面で、過去の売上帳をデータでちゃんと持っててさ。最後に登録したのが、この銀行だったわけ。プログラムの場所と名前もかかれてたよ」
「坂上は、何か言ってなかったか?」
真治はそこで思い出したようだ。
「そうか、あいつ、黙秘を貫いたんだっけ。供述すればまず執行猶予が付いたのに、なんで黙秘を続けたんだろう?」
「そうね。あたしもそれが不思議だったよ」
あたしが呟くように言ったとき、真治は何か考えているようだった。そして、不意に思い出したように、あたしに話しかけてきた。
「そういや、今朝JPCERTから、ツールと一緒に脆弱性の報告が上がってきてたぞ。何でも、致命的なヤツらしいから、ちゃんと調べておいてくれ」
JPCERTっていうのは、一言でいえば、ネットワークのセキュリティに関する情報収集機関。たまに、コンピュータの脆弱性(ベルナビリティ)をC4に情報提供してくれる。脆弱性を使って不正アクセスをするケースが多いから。
あたしは、メールでJPCERTからの報告書とツールを転送してもらった。
報告書を一読して、頭の額が頭痛で痛くなるのを感じた。
「何よ、これ? 酷い脆弱性ねっ!」
報告書によれば、多くのサーバに致命的な脆弱性があって、それを使えばサーバにログインしなくても、サーバからいくつかの重要なシステムデータを取得できるらしい。
あたしは、テスト環境を作って、提供されたツールで確認してみた。
そして、唖然とする。パスワードなしで、パスワードハッシュがゲットできた。パスワードハッシュは、パスワードそのものじゃないけど、流出させてはいけない類のデータだ。
とっても危険だ。対策が出来るまで情報を公開できそうもない。
報告書を良く見てみたら、対策方法が確定するまで、数週間かかると記載されていた。
「それまで、何もおきないと良いんだけど……」
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