第16話
「スパイがいる」
そう言ったのは、アロイスが戻ってきた日の夜のことだった。アロイスが戻ってきたことにかこつけたパーティが催された。城では、毎晩豪勢なパーティが開催されていた。祖国では、幹部ですら質素に暮らしていたというのに。
王は酔っ払って充血した目を見開いた。
「そんなはずがあるまい。すべて、私が信頼する部下たちだ」
「作戦が漏れていた。今考えるとおかしなことが多い。我々が進んだ経路は、本来なら敵の部隊には遭遇しないはずだったのだ。それに、敵の出現タイミングが良すぎた」
王が長いヒゲをなでつける。よく見ると、食べかすだらけだ。目をつぶっているが、眠っているのではないだろうか。
「そもそも、侵攻作戦を立ち上げたのは誰か」
少し考えるような仕草をして、王は言った。「国防大臣だ」
あの男か――戻ってきたとき、白々しく声をかけてきた大臣だ。少し先のテーブルで、女の肩に手を回しながらワインを飲んでいる。あの男は、自身が立案した作戦会議にも出席せず、何の責任も負わないつもりに違いない。
アロイスが視線を戻す。提案をしたのがやつだとしても、王がその話に噛んでいないわけがない。
「そもそも、たった50人程度では侵攻など不可能。敵国は自国よりも遙かに強大。すべての軍を出兵したところで勝てるかどうか」
「それを勝利するのが、貴様の役目だろうが? 指導者様よ」
口から食べ物のかすを飛ばしながら、王はわめいた。手に持っているグラスからワインがこぼれていることにさえ、彼は気付いていない。
「それをなんだ。全滅しただと? 己だけのうのうと帰ってきおって」
グラスをアロイスの頭の上で逆さまにする。すでにほとんどこぼれていたが、中に少し残ったワインがアロイスの頭頂部から顔面に垂れた。アロイスにはあえて抵抗せずに、王を睨み付けていた。遠巻きに他の客がこちらを見ているのを感じる。
王はまだわめいていたが、側近が彼をなだめてどこかへ連れて行った。アロイスは差し出されたタオルを受け取り、顔を拭いた。赤く染まったタオルを見て、無駄死にしていった兵を思い出す。別段、感傷に浸るつもりはなかった。ただ、こんな国の兵として無駄に命を散らすことになった彼らが哀れだった。
国防大臣を見ると、彼は王が暴れていることさえ気付かず、女を口説いていた。
「大臣」
声をかけると、大臣は顔だけこちらに向けた。酔っ払っているからか、昼に見たときよりも目がたるんでいた。同じように、高い鷲鼻が溶けたロウソクのようにカーヴを描いている。
「おお、勇者殿ではないですか。武勇伝をお聞かせ願いたい」
彼も王同様、顔を真っ赤にしている。敵に捕まっていた間も、こうやって毎夜遊んでいたと思うと筆舌に尽くしがたい憎しみがこみ上げてくる
彼は王のような下品なヒゲは蓄えていないが、口にチーズの切れ端をつけて、浴びるようにワインを飲んだ。そして、彼が口に含んだワインを、お気に入りの女性の口に流し込む。女性は脂汗を滲ませながらそれを受け入れた。それは、彼の権力の強さを表していた。
彼らの生きている場所では、権力によって世界が作られている。彼らは正気ではない。状況に酔っているのだ。権力という名の毒は人の思考力を冒す。それは蛾のごとく周りに群がるもの達も同様だ。力の強いものに陶酔して、前後不覚に陥っている。
「大臣は、どうして今回の侵攻作戦を提案されたのか。お聞かせ願いたい」
大臣がむずむずした顔になる。足など出走直前の競走馬のように落ち着かない。
「それは、君。君ね、君のような優秀な勇者が召喚されたのだ。今こそ千載一遇のチャンスと思ったのだ」
「それにしては、私がお借りした兵士は少なすぎると思うが。貴殿は国防を預かる身であろう。小隊で国を落とすなど、冗談としか思えないのだが」
言うと、大臣は不機嫌そうな顔で手をひらひらと振った。
「君は勇者だろう。それくらいの逆境を乗り越えんでどうする」
「私は勇者ではない。指導者だ」
「同じことだ。我々より遙かに優れた能力を持っているはずだ」
その優れた能力で、今すぐ彼を苦しみの底へたたき落としたい気分であるが、アロイスはぐっとこらえた。
「ところで、今回の作戦を知っているのは、我々の他には誰がいる?」
「なに?」
一瞬、質問の意図がわからないと言った顔をしたが、大臣は眉間に皺を寄せた。酒のせいで、まぶたが下がり、どこを見ているのかわからない。
「諜報部の一部が知っていたはずだ。そのほかは知らん」
そうだろうな、作戦に参加しないように強要したのだから――と言いたいのをこらえた。
諜報部か。自国のスパイが、敵国の二重スパイというのはもはや定番である。祖国は情報戦が特に得意だった。アロイスもスパイの口を割らせるのに、ずいぶん貢献したものだ。そのうち、命を落としたほとんどは、不幸にも潔白な魂だったわけだが。
「その、諜報部の一部の名前は……」
「う~ん、しつこい。私の部屋にリストがある。そこに秘書のゼクレティアがいるから、彼に聞け」
面倒くさそうに言うと、大臣は秘書のゼクレティアを呼び寄せ、また女の尻を追いかけに行ってしまった。
ゼクレティアは申し訳なさそうに頭を下げた。腰の低い、弱々しい印象の男だった。あんな男に使えるにしては、見目麗しいスタイルに、化粧を施した美しい顔貌を持っていた。言われなければ、彼を男だと気付かなかったろう。あの大臣の趣味に違いない。
容姿を褒めると、ゼクレティアは苦笑いをした。人形のような服がよく似合っていて、どこかの国の王女だと言われても信じてしまうだろう。
国防大臣の部屋は、城の中でもずいぶん良い場所にあった。眺めも良く風通りも良い。この国の中で、かなり強い権力を持っている証拠である。
ゼクレティアは道中何も喋らなかったが、チラチラとアロイスを盗み見てはつばを飲み込んでいた。
「リストというのは、どれだ」
大臣の部屋は書類で埋め尽くされており、ここから探し出すのは困難だった。それでも、ゼクレティアは手近にあった書類の山から、一枚の紙を引き抜いた。よく、こんな雑多な部屋の中から紙一枚を探し出すことが出来る。彼は見た目が秀麗なだけではなく、優秀だからそばに置かれているのだろう。加えて寡黙なことも、大臣にとっては都合が良いのだろうか。
リストは紙一枚で、三人の名前が書かれていた。諜報部と言えば秘密警察だ。それなのに名前を紙なんぞに書き残すなぞ馬鹿馬鹿しいことだ。これでは、この国に諜報員がいると言うことも、その素性も敵国スパイにバレてしまう。それでは諜報にならないではないか。
「諜報部員はどこに」
ゼクレティアが壁を指さす。隠し部屋でもあるのかと思って、壁を探ってみたが、それらしい痕跡はなかった。
「なにも……」
アロイスが言いかけると、ゼクレティアがアロイスの肩に手をかけ、首を振った。今度は出入り口を指さす。
「まさか、隣の部屋が諜報部の部屋だと?」
ゼクレティアは頷く。アロイスはめまいがした。
秘密と言えば、かつて小国の島国が、祖国でさえ解読できない暗号を開発したのを思い出した。たしか、鹿児島弁と言ったか。秘密警察の連中が慌てていたのを思い出し、クスリと笑ってしまった。ゼクレティアがこちらを見て首をかしげた。無意識に、笑みが出ていたのだ。
深く息を吐くと、彼に諜報部の場所を教えて貰った。ゼクレティアは、部屋を出て、廊下を指さした。アロイスも部屋を出る。彼の指さした先に、諜報部室書かれた扉があった。大臣の部屋の隣である。頭を抱える思いである。
部屋はまだ明かりがついていた。アロイスはノックもせずに扉を開く。慌ててゼクレティアが止めようとしたが、アロイスがひと睨みすると彼は大人しくなった。
部屋の中には、ちょうど三人の諜報部員が机に向かっているところだった。
「このリストの三人を探しているのだが」
「これをどこから?」
丸眼鏡をかけた、若い諜報部員が尋ねた。彼は十代の後半くらいだろうか。髪の毛を丸刈りにして、ふっくらした幼い顔をしている。
アロイスは隣の部屋を指さした。
「誰です」
これはアロイスではなく、ゼクレティアへの問いかけだった。丸眼鏡の彼は、若者にしては厳しい良い声を出す。ゼクレティアは震えながら、若者に耳打ちした。
「大臣か……あの人は余計なことばかりする」
丸眼鏡の若者が深いため息をついて、手を差し出した。「グレーザです」
「アロイスだ」
握手に応じる。しっとりした彼の手は、赤ん坊の手を思わせた。
「確かに、そのリストに書いてあるのは我々です」
グレーザが言う。
「まさか」
「本当です。というよりも、諜報部は我々三人しかいません」
「大臣はこの三人が諜報部の一部といったぞ」
「たしかに、草のものもおりますが、諜報部に所属しているのは我々のみです」
そうだった。この国は戦争をなめていることを思い出した。
「それで、何用ですか」
一番奥の机から、じっと湿った視線を送り続けているのは、諜報部長だろうか。白髪で健康状態も悪そうだが、なかなか眼に力がある。もう一人は、対照に丸々と太っておりスキンヘッドだったので肉団子を思わせた。一心不乱に紙に何か書き下している。
「実は、ちょっと訊きたいことがあってね」
アロイスはかかとをそろえ、背を伸ばした。「先日、我が部隊がスターテン国へ侵攻したのは知っているな?」
グレーザが頷いた。
「そこでちょっとした情報の食い違いがあったみたいでね」
グレーザは少し考えるような仕草をした。
「あの作戦、我々には詳細は伝えられていませんでした」
「本当に?」
グレーザは大げさに手を広げて頷いた。
「大臣が夜中に酔っ払って部屋に来て、敵国を侵攻するという話をしていたのは聞きました。冗談だと思っていたので、聞き流しました」
この国は一体どうなっているのだ。祖国なら彼は銃殺になっていてもおかしくない。今からでもスターテン国に寝返ることが出来ないだろうか。
「そちらのお二人はどうだ」
肉団子男は、私の問いかけには反応しなかった。部長は湿った視線を外さず、ため息をついた。
「私は知らない。彼も知らないというだろう」
肉団子を指さして言う。
「本当かね」
アロイスは肉団子に近付き、耳元で声を張った。
「アッ」
肉団子が書類を書き損じ、慌てて顔を上げる。
「何をしやがる」
顔を真っ赤にしているのを見ると、ゆであがったブルストを思い出す。
「君は、我々の侵攻作戦の内容を知っていたかね」
彼はアロイスを睨めあげる。「知らんね」
彼は新しい紙を取り出した。
彼らは嘘をついている――。アロイスは直感していた。彼らから嘘の臭いがすることを。あの大臣のことだから、他にも口を滑らせた可能性は高い。
「知らない……か」
アロイスが部屋の中をあるき始めた。三人が座る机の他、応接スペースにソファと机がある。壁際は書棚で埋まっていた。部屋は狭く、アロイスはすぐに部屋を一周してしまう。
「このままでは、君たちを、最後の一人になるまで痛めつけなければならない。名乗り出てはくれないだろうか」
誰も答えない。
「まあいい。また来る」
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