第4話『右往左往する不穏な平穏』


「失礼します」


 片岡を伴って保健室の引き戸を開ける。

 包帯やガーゼを思い出す、独特な匂いが鼻孔をくすぐった。


 デスクの前で書き物をしているのは、養護教諭の田浦先生だ。

 俺たちがやってきたのに気づいたのか、しきりに書類の上を走っていたボールペンの筆記音が止まる。


 二十代後半の女性教師で、左目にある泣きぼくろと、銀縁の知的な眼鏡が特徴的だ。

 田浦先生は俺と片岡の顔を交互に見ると、意味深な笑みを浮かべた。


「まったく、ここをどこだと思っているの? 悪いけど、私の目が黒いうちはそんなことは許しませんからね」


「保健室です。アンタこそどこだと思ってるんですか」

 

 冗談冗談、と言いながら手招きしてみせる田浦先生。

 この人の性格は以前から知っていたので、今更俺は驚きはしない。

 しかし、隣の片岡は明らかにドン引きしていた。


「……国崎君、あなたここでいつも何をしているの?」


「何もしてねーよ。この人誰に対してもこうだから、真面目に話聞かない方がいいぞ」


「あらあら、そんなことはないわよ? 私だってこんな際どいこと言う相手はちゃんと選んでるから」


「選べていないようですね残念ながら」


 患者用の丸椅子に座る片岡。俺はその傍らに立った。


「でも、一体どういう風の吹き回し?」


「別に、俺だって病人見かけたら保健室に連れて来るくらいしますよ。人非人にんぴにんじゃあるまいし」


「だって、国崎くんが誰かと歩いているところなんて、初めて見たから」


「いや、歩いてますから。何ですかその野生動物の希少行動を発見したような口ぶりは」


 何せ、俺は今月だけで三回もクラスメイトと一緒に特別教室に移動したことがある。

 まだ、四月が始まって三週間ほどしか経っていないのに、この快挙だ。

 来月はきっと、両手の指では数えられなくなるに違いない。


 自分の成長ぶりが怖いくらいだった。

 思わず口から笑みをこぼすと、田浦先生に目ざとく見咎められてしまう。


「ふふ、嬉しそうね国崎くん」


「いえ、それほどでもありませんよ。当然のことです」


「ですって片岡さん。どんな見返りを要求されるか分からないけど、嫌だったらきちんと断るのよ?


「大丈夫です、田浦先生。防犯ブザーとかんざしは常に持ち歩いていますから」


「さっきから俺を性犯罪者に仕立て上げようとするのをやめてください」


 あと、さりげなく問題発言が聞こえたのだが気のせいだろうか。

 暗殺者にでもなるつもりかよ。

 

「うん、軽い貧血みたいね。ただ、片岡さんの場合は少し心配だから、念の為五時間目の間はベッドで休んでいって」


「分かりました、ありがとうございます」


 ぺこりと頭を下げた片岡が、カーテンで仕切られたベッドの方へ歩いていく。

 その短い道のりで、時折ふらつきそうになっているあたり、やはり五時間目に出ないという選択肢は正解のようだ。


 やれやれ、これで俺も用済みか。

 しかし、このまま数学の授業に戻るのは正直気が重い。

 田浦先生に頼んで、片岡に付き添っていたという証明がほしいところだ。


「あ、田浦せんせ」


「そうそう、私これから会議があるから抜けるわね。国崎くん、悪いけど片岡さんに付いていてあげて」


「……は?」


 いや、それはまずいでしょうさすがに。

 俺は別に片岡の彼氏でも何でもない、ただの男子生徒Aだぞ?

 

「ちょっと待ってくださいよ。会議なんか出ずに生徒の面倒見た方が」


「国崎くん」


 ドアから上半身だけ覗かせた田浦先生が、妖艶に微笑んだ。


「――日干しした布団のいい匂いはダニの死骸が原因っていうのは嘘よ」


「いや、何名台詞っぽい感じでただの豆知識言ってるんですか! うわーもういねえ! 足早っ!」


 急いでドアまで駆け寄ったが、どこにも廊下に田浦先生の姿はなかった。

 どうやら暗殺者なのは片岡だけではないらしい。


 俺はため息をつきながら、すでにベッドに横たわっている片岡のところへ戻った。

 下をハーフパンツか何かに着替えたのだろう。

 制服のスカートが綺麗に畳まれ、スクールバッグの上に置いてある。

 付添人用と思しき椅子もすぐそばにあったが、


「……まあ、寝顔見られるのとか嫌だろうし、俺は仕切りの外にいるから。なんかあったら呼んでくれ。俺も勘違いされたくないしな」


「……ええ。そうさせてもらうわ」


 俺は椅子を仕切りの外まで持ってきて、腰を下ろす。

 片岡が布団の位置を直す音がなくなると、保健室はしんと静まり返った。

 

 上の階から響いてくる、教師が何かを音読している話し声。

 体育館の方からだろうか。

 ホイッスルの甲高い音色や、男子のやかましい歓声。

 それが、ひどく遠い世界の出来事のように、かすかに聞こえてきた。


 不思議だ。

 授業中に、授業を受けずに別の場所にいるというだけで、まるで異世界にでも来たかのような非日常感がある。


 しかも、たかが薄っぺらな布の先に、布団にくるまっている片岡がいるのだ。


 これだけで、俺の輝かしい高校時代を彩る、思い出の一ページ足り得ることだろう。


 感慨に浸りながらスマホをいじっていると、片岡が仕切り越しに呼びかけてきた。


「国崎君。少しいいかしら」


 寝転がっているせいか、体調が優れないせいか、声はいつもより小さく弱々しい。


「俺はいいけど、寝てなくていいのか?」


「今は眠くないし、横になっているだけで楽になるから、平気よ。心配してくれてありがとう」


「……うっす」


 な、何だ何だ。

 朝から情報戦仕掛けた上に、脅迫まがいのことまでしてきたくせに、いきなりしおらしいこと言うなよ。

 やっとお前と接するときのスタンスが固まってきたのに、また分からなくなったじゃないか。

 そんな俺の気も知らずに、片岡はつらつらと喋りだした。


「正直に言って、私はかなり傷ついているわ。だって、この私が彼氏役を頼んでいるというのに断られるだなんて。青天の霹靂とはよくぞ言ったものね。まさしく雷に打たれたような衝撃だわ。私の心がもう少し弱かったら、あなたは今頃殺人犯よ。私を強く産んでくれた両親に感謝してほしいところね」


 訂正。

 やはりこいつはこういう奴だった。

 こんなに面の皮が厚い女を感電死させられる雷が落ちたら、今頃地球は真っ二つに割れていなければおかしい。


「何が言いたいんだよ」


「逆に聞くけど、何がそんなに嫌なの? ただ、彼氏役としてしばらく振る舞ってくれれば、私はそれで満足なのに」


「……あのなあ」


 非難めいた声音に、思わずカチンとくる。

 そりゃ、お前はそれで母親を静かにさせられていいかもしれない。

 だが、こっちの身にもなれという話だ。


 数日間か、数週間か、あるいは数ヶ月か。

 彼氏のフリということは、一線を越えるようなことは当然ナシだろう。

 そんな真綿で首を絞めるような目に遭わされた挙げ句、最後はあっけなく振られるわけだ。


 そして、俺には『学年一の美少女に遊ばれて捨てられた哀れな陰キャ』という称号だけが残る。

 誰がやりたがるのだという話だ。

 せめて、本当の彼氏になれと……いかんいかん。


 俺は衝動的に口の中を強く噛んだ。

 思い上がるな、俺。

 俺ごときが片岡都子の彼氏とか、分際をわきまえないにも程がある。


 人には居るべきポジションというものがある。 

 陽キャには陽キャの。

 美少女には美少女の。

 そして、陰キャには陰キャの。


 それを超えようとすれば、必ずしっぺ返しが待っている。

 現状に甘んじろ。そうやって過ごすのが一番平和なんだ。


「国崎君。……少し、顔を合わせて話をしたいのだけど」


 長い沈黙の後、唐突に仕切りが開かれた。

 赤い顔をした片岡が、俺をじっと見つめている。

 不覚にもときめいた。


 少しでも楽にするためだろう。

 ボタンが二つ開けられたワイシャツの胸元から、驚くほど細い鎖骨が見え隠れしている。

 左の鎖骨あたりに、小さなほくろがあった。

 

「中に入って」


「いや、でも……」


「いいから」


 ここで拒める奴がいたら、男じゃない。

 俺は渋々――といった様子に見せつつ、機敏に椅子を仕切りの中に移動させた。


「閉めて」


 言われた通り、シャっと音を立てて仕切りを閉じた。

 これなら、急に誰か来ても、俺はとっさにベッドの下にでも隠れる余裕ができる。

 椅子に腰掛け、ちらっと横目に枕に頭を乗せている片岡を見やる。


 ほんの数十センチ先に、片岡がいる。

 片岡の艶めいた桜色の唇が、呼吸に合わせて上下している。

 手を伸ばせば触れられる距離。

 それを目にする者は誰もいない。

 今、俺と彼女を隔てているのは、空気と俺の理性だけだった。


「質問するわ、国崎君」


 この微妙な雰囲気を察しているのか、片岡は若干早口に言った。


「――布団の中は、今どうなっていると思う?」


「……は?」


 意味不明な問いかけに、俺は間抜けな声を上げる。

 するり、と視界の端を水色の何かがよぎった。

 体操服のハーフパンツだ。

 保健室に置いてあったものだろうか。

 片岡がたった今、布団の中から抜き取ったものでもある。

 その意味を理解した瞬間、俺は泡を食った。


「えっ……ちょっちょ、お前何してんの!?」


「続けて質問するわ」


 よく見れば、片岡の顔は耳まで赤く染まっている。

 だが、片岡は構わず続けた。

 胸ポケットからスマホを取り出し、ラインの起動画面を見せつけてくる。


「――今からここにクラスメイトを呼んだら、どうなるかしら?」


 

 

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