第3話『衝立越しの秘め事』


(……狭っ!)


 着替え室に隠れるという考えを、妙案だと勘違いした大馬鹿野郎が数秒前にいたと思う。

 俺は今、そいつをぶん殴りたくて仕方がない。


 この衝立で仕切られたスペース、一見すると、優に五、六人は入れそうに見える。

 しかし、その内部は、舞台衣装のかかったハンガーラックによって、大半が占領されていたのだ。


 残された空間は、それこそ服屋のフィッティングルーム程度しかない。

 それも、かなり狭いタイプだ。

 男の俺一人でも手狭なのに、そこに片岡まで入ったらもうお察しである。


 衝立もガタがきているのか、軽く触れるだけでグラグラと揺れて頼りない。

 うっかり体重を預けた日には、間違いなくぶっ倒れるだろう。


 結果、俺はほとんど片岡と向かい合わせに密着する羽目になっていた。

 頭頂部がちょうど俺の鼻先にあるので、女子特有の甘い匂いがダイレクトに漂ってくる。

 

 匂いだけではない。

 汗ばむほど熱い体温。 少し荒くなった呼吸音。

 普通なら知ることのない、デリケートなバイタル情報さえも、否応なしに五感で感じ取れてしまうのだ。


「おい、押すなよ」


「……それはフリ?」


「やめろ。本当にやめろ」


「そういうことね。分かってるわ。安心して」


「バカ違うマジでやめろ」


 いらんことをされる前に、いっそ口を塞いでしまおうか。

 ……やめよう。本当に停学になる。


 一応、胸だけは触れないよう、頑張って上体を反らしている。

 涙ぐましいこの気遣いは、恐らく誰にも知られることはないだろう。

 まあ、普通にしていても、当たるほど大きくないかもしれないが。


「あれ、何でこの部屋ドア開いてんの? ここ誰も使ってないよね?」


「さあ?」


「へー。なんかいろいろ本あんじゃん」


 まずい。入ってきた。

 俺は一層身を固くする。


 闖入者は三人。

 パイプ椅子に座ったり、本棚を漁ったりしている。

 着替え室の中を見られたら、一巻の終わりだ。


 緊張でさらに心拍数が上がる。

 背中は冷や汗でびしょ濡れだ。

 頼む、早くどこかに行ってくれ。

 と、そのときだった。


「っ――!」


(危ねえっ!)


 突然、片岡が俺に思い切り体重を預けてきたのだ。

 なけなしのパーソナルスペースが完全に消え失せる。


 ほとんど片岡にしがみつかれているような距離感だ。

 とっさに片岡の背中を抱きとめ、渾身の力でその場に踏ん張る。


 こんなときに、なんてことしやがるこの女!

 こめかみにピキリと青筋が浮かびかけたが、様子がおかしかった。


「ハア、ハア……」


 片岡の呼吸がひどく荒い。

 おまけに顔色が真っ青で、視線はあらぬ方向を見つめている。

 

 もしかして、貧血か?

 食後で胃に血液が集まっていて、しかもこの緊張感。

 立ちくらみの一つや二つ、起こしても不思議ではない。


 そういえば、こいつは昔から体育をよく休んでいた。

 今にして思えば、身体が弱いせいだったのだろう。


「おい、お前ら何サボってんだよ。ずりーぞ」


「見ろよこの漫画。めっちゃエロくね?」


「お、いいねえ。持って帰ろっかな」


「ダメでーす。俺のでーす」


「は? じゃんけんで決めようぜ」


 最初はグー! と威勢のいい掛け声が響き始める。

 こっちが四苦八苦しているのも知らずに、外の連中はのんきにエロ漫画の争奪戦をしているらしい。 

 普段なら俺もさりげなく加わっているところだが、今はそれどころではない。

 つーか、何で部室にエロ漫画なんか置いてあるんだよ。

 

「ごめんなさい、急にめまいが……」


(うわあああああ――!!)


 喧騒に紛れて、片岡が耳元でささやいてくる。

 耳朶をくすぐる吐息と、鼓膜を愛撫するようなかすれた美声。

 一瞬で脳内メーカーが『H』で一杯になったが、何とか理性を取り戻した。


 危なかった。

 母親の下着姿を思い出すのがコンマ一秒でも遅かったら、俺はヒトに戻れなくなっていたはずだ。

 片岡と外の連中は、俺の母親|(49)に心から感謝すべきだろう。


 ……おい。もう消えていいぞ母親。

 いつまで半裸で俺の網膜に焼き付いてるつもりだ。一種のテロだぞもはや。

 ……ちくしょう消えねえ! 最悪だ、俺まで気分が悪くなってきた!

 般若心経を唱えて邪念|(ははおや)を祓っていると、片岡が再び口を開いた。


(本当にごめんなさい……)


 母親! 母親カムバック!

 婆ちゃんでもいいぞ! いややっぱいい! 残留汚染が深刻すぎるから!

 ダメだ手遅れだった! やめろ、踊るな、近づいてくるな!


 くそ、こんなときばっかり映像記憶を鮮明に再現しやがって。

 その底力をテスト中にもっと発揮してくれ。


(うおっ……!)


 体勢を戻そうと頑張りすぎて、今度は俺が前のめりに倒れそうになる。

 ヤバい、ヤバい、ヤバい!

 このままだと、片岡ごと壁に激突する!


『ゴラァ! とっくに授業始まってるぞ! どこでサボってるんだお前ら!』


「やっべ、クマ吉ブチギレじゃん」


「はあ!? 予鈴聞こえなかったんですけど!」


「スピーカー遠すぎんだよ、くそ!」


「あれ、てかさっきなんか音しなかった?」


「ンなことより、とにかく行かねえとやべえぞこれ!」


 廊下を伝って、バカでかい怒声がわんわん響いてきた。

 体育教師の熊谷先生の声だ。

 拳に願いを託していた戦士たちは、ドタバタと足音を立てて部屋から出ていった。

 

「……あっぶねえ」


 俺が壁に手を突いたと、クマ吉の怒鳴り声が聞こえたのは、ほぼ同時だった。

 これも日頃の行いがいいからだろう。

 片岡を左腕に抱え、右手を壁とのつっかえ棒にした、変則壁ドンだ。

 腕の力で壁を突き放し、振り子のように元の体勢へと復帰する。


「とりあえず、保健室行くぞ」


 名残惜しさを感じながら、片岡の細い腰から手を離す。

 貧血を起こした片岡の体調が気がかりだ。

 場合によっては、早退も視野に入れるべきだろう。


 しかし、片岡からの返事はなかった。

 俺の顔のあたりを見ながら、ぽかんと口を半開きにして固まっている。


 よく見ると、頬や耳が燃えるように赤い。

 青くなったり赤くなったり、歩行者用信号みたいな奴だ。


「……大丈夫か? 熱測ってもらったほうがいいぞ」


「……えっ? ええ。そうするわ。それじゃ」


「いや待て待て。ふらついてんだろ。俺もついていく」


 はっと再起動して、ギクシャクした動きでドアに向かって歩き出した片岡を制止する。

 いきなりOSがWindows95くらいにグレードダウンしたような動作だ。


 熱暴走の可能性もあるし、やはり保健室まで付き添うのはマストだろう。

 しばらくためらっていた片岡だったが、やがてうつむき加減に手を差し出してきた。


「……なら、腕を貸してもらえるかしら」


「お、おう……」


 右腕を突き出すと、二の腕あたりを掴む片岡。

 まるで、俺が片岡をエスコートしているような格好だ。


「……あのさ」


「……思いの外恥ずかしいわね、これは」


 結局、普通に歩いて保健室まで行った。


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