第八話
受けきれない……とっさにそう判断したユキジは大げさに後ろに飛びのき、間合いを外す。ヒビキの体と触手でつながり、斬馬刀ほどに肥大化した漆黒の刀は地面を大きく削り取り、飛散した石つぶてが完全に間合いを切ったはずのユキジにもぶつかる。
致命傷は避けたが、どうしたものかとユキジは刀を構え直しながら思った。あれだけの威力の斬撃だ、どう考えても刀で受けることはできないだろう。いくら妖怪を斬るための刀とはいえ叩きおられてしまうことや、最悪、刀ごとユキジが斬られてしまうことも考えられる。
……体さばきで相手の攻撃を避けながら、間合いの勝負になるな。
一撃もらえば終わりという状況の中、ユキジの思考を遮ったのはヒビキの咆哮であった。触手はすでに先ほどまでの右腕からすでに頭以外のほぼ全身にいきわたっており、哭き鬼の面をつけた姿は妖怪以外の何者でもなかった。
『血……血を……』と腹へと振動が伝わる重低音で繰り返している。それはもう完全にユキジの知っているヒビキの姿ではなかった。
黒に近い深い緋色の触手に包まれて、もとより二回りほど大きくなったヒビキが一歩踏み込み、右手の刀で薙ぎ払う。それを首先一寸ほどのギリギリの間合いで避けると同時に、鋭い突きに転じる。ユキジの突きがヒビキの胴体に伸びる。ヒビキは右手で薙ぎ払ったままの勢いで、腰を右側に捻り、ユキジの突きはヒビキの左腰をかすめる。
外した‼ ……と思うと同時にユキジは突きの勢いのまま間合いを離す。ちょうど二人の体が交錯したような形になる。すぐにユキジは振り返り、刀を構えなおす。そこにヒビキの体から触手が伸びてくる。ユキジは落ち着いて、刀を斜め下から切り上げ、返す刀で袈裟斬りに切って捨てる。
切り落とされた触手の一部は白露のように淡く光って消滅した。ヒビキの体に鎧のように触手がまとわりつき、そのうちの何本かは新たな寄生主を探すかのようにそこから伸び、うごめいている。どうやら一本や二本、触手を切ったところでは大きな痛手は与えられないようだ。すでに先ほど斬った触手の先は再生している。
『血を……血をよこせ……』
禍々しい重低音の声があたりに響いたと思うと、再びユキジ目がけて触手が伸びる。冷静にその一撃を躱し、斬り払おうとするところにもう一本の触手が伸びる。触手自体はそこまでのスピードはない。ユキジは伸びてくる触手の隙間に体を捌き、まとめて斬り捨てようとした。
「⁉」
そのユキジの頭上に刀を振りかぶったヒビキが迫る。
……触手は誘い!
瞬時に狙いに気づいたユキジは横に飛びこみ、転がりながらヒビキの刀を避けた。そこにさらに触手が伸びる。まだ完全に態勢を立て直していないユキジの左腕を触手がかすめたが、幸い致命傷にはならない。
その伸びた触手が戻りきる前に抜き打ちに斬って捨てた。そして、構えたまま後ろへ下がり距離をとった。先ほど触手のかすった左腕からは出血があるようだ。腕からつたってきた血が刀を握る左手の柄のあたりからぽつりぽつりと落ちる。
さてどうしたものか……とユキジは頭を悩ませていた。先ほど経験した通り、触手を多少切ったところで本体の動きを止めるまではいかない。どうしても本体そのものに斬撃を加える必要がある。だが剣の届く範囲はどうしても相手の方が広い。同じ拍子で飛び込むと相手の斬撃の方が早く到達してしまう。さらに相手の一撃を刀で受けて返すこともできない。
どうしてもユキジが最初に行ったようにギリギリで相手の斬撃を避け、その隙に相手の懐に飛び込む後の先の間合い勝負に持ち込む必要がある。しかし、それも触手との多重攻撃を行われた場合うまくいくかどうか……距離を取りながら思案するユキジの少し前に触手が伸びた。
「‼」
触手の先の方が二つに割れたかと思うと、その先から出てきた突起物を地面のあたりに突き刺す。警戒しながらユキジが様子をうかがっているとどうやら先ほどの攻撃がかすった場所に飛び散ったユキジの血液を吸っているようだ。
むさぼるように地面に残る血液を吸う姿はグロテスクなものであったが、本能的に行うその行動からユキジは一つの策を思いついた。
触手が血液を吸っている間も刀からは『血を……』という声が聞こえる。それとは別にヒビキであった本体はうなり声をあげている。その声にならない雄叫びがユキジにはまるで哭く声のように聞こえた。
ユキジの脳裏に改めて哭き鬼の話が蘇る。ヒビキさん、せめて私の手で……ユキジの中で心が決まる。
地面に残る血液をあらかた吸い終わった触手は、ヒビキの体から蛇のようにうごめきながら次の獲物を待ち望んでいる。大きく刀を振りかぶったヒビキが少しずつ間合いを詰めてくる。
それに対してユキジは正眼の構えを解いて、刀を鞘に納めてしまった。左手こそ鞘を持っているが、右手は左の二の腕あたりの傷口を抑えている。そのまま重心をいつもより低く落とし、じわじわとヒビキとの間合いを詰める。その姿はまるで居合抜きのようである。
少しずつ二人の間合いがつまる。周りではツクネやカリンが魍魎との戦闘を繰り広げているが、それすらも忘れるほど、ユキジの集中は高まっていた。間合いの詰め方が一寸ずれても、後の先の返しが刹那遅れてもユキジには命とりになる。
呼吸さえも止めて、少しでも早く飛び込みたくなるのを抑えながらすり足で近づく。動きを見てからでは遅い。ヒビキの視線、手足の動き、いくぞという神経の伝達ですら感じ取って、反応しなければ遅れてしまう。
一挙一足の間合いに入っても、肩に手をやったまま動かないユキジにしびれを切らしてか、ヒビキが大上段に振りかぶっていた刀を振り下ろそうとした瞬間、そのヒビキの神経伝達よりも刹那早く、ユキジは抑えていた右手を離す。グッと左手に力を込めると、先ほどの傷口から血が噴き出す。
「⁉」
ヒビキは構わず刀を振り下ろそうとするが、胴体から伸びている触手は本能的に血に反応してしまう。ユキジは腰から鞘ごと刀を抜き、それでヒビキの斬撃を受け止める。妖怪化したヒビキが渾身で振り下ろした刀は、ユキジの鋼鉄製の鞘を真っ二つに両断したが、それより一瞬早く、ユキジが鞘から刀を抜きだす。
血と鞘をおとりに、ユキジはすべての力をこめ思いきり踏み込み、水平にヒビキの胴を払う。ユキジの刀の軌跡が白く光り、その部分のヒビキにまとわりついていた触手が霧散した。抜き胴のまま、ヒビキの背中まで斬り抜けたユキジはさらに振りかぶって、背後からヒビキの刀と一体化していた右腕を斬り落とす。
ちょうど魍魎の群れを倒し終えたツクネとカリンがユキジの方へ眼をやった時、白い光は収束していき、ふたたび夜の闇があたりを支配しようとしていた。
ユキジは刀を振り下ろした姿勢のまま残心を取っている。伸びていた触手は消え、夜の闇に溶け込みそうな漆黒の刀のみが地面に突き刺さっている。その横にはヒビキが立っている。
「ユキジありがとう……これで、私は……」
最後まで言葉を言いきらないままに、ヒビキが正面に倒れこむ。倒れこむ拍子にヒビキの顔から外れた哭き鬼の面が地面に落ちた。役目を終えた面はそのまま二つに割れてしまった。哭き鬼はもういない。
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