第三話
障子の隙間から薄い月明かりが漏れ入る。ヒビキは刀置台に飾られた漆黒の刀と哭き鬼の面の前で正座をしている。もう戻れない……そんな思いがヒビキの中に渦巻く。
◆
「刀を買っていただけないでしょうか?」
ヒビキの店にその男がやってきたのは1カ月ほど前のことだ。その男のことは今でも鮮明に覚えている。異国の血でも混じっているのか亜麻色の髪に藍色の瞳、すらりと細身の体に整った顔立ち。表面上は笑みを浮かべて、丁寧な言葉遣いだが、そこには温かさを感じさせない独特の雰囲気。
名前は確かコハクといった。その男が携えていた漆黒の刀を鞘から抜き放つ。刀身までもが黒く光るその刀を一目見た時からヒビキの心は奪われてしまった。
「……これは?」
「美しい刀でしょう? 『紅喰』と言います。私には手に余るものでしてね。買っていただけないでしょうかと言いましたが、もしよろしければお譲りいたします」
「えっ……しかし」
「いいんですよ。あなたずっと心に抱えている想いがありますよね」
「……」
「……私は人助けがしたいだけなんですよ」
そう言ってコハクは笑みを浮かべた。確かにそれは笑顔なのにヒビキは背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
◆
「何の音や?」戸の開くような音でツクネは目を覚ます。よく耳を澄ますと外に出ていく足音が聞こえた。隣のユキジを見てみる。かなり疲れていたのか深く寝入っている……となると、先ほど出ていったのはヒビキか。「こんな夜更けに何や?」とツクネはいつもの籠を背負い、玄関口まで出ていく。すでにヒビキの姿はなかった。
ツクネは通りを少し散歩してみることにした。ヒビキには夜には出歩かない方がよいとは言われていたが、根っからの好奇心旺盛なツクネにとって、辻斬り騒動は興味の対象だった。ヒビキの店から出て通りを何町か歩いていく。夜風がちょうど気持ち良い。
夜の散歩に機嫌を良くして鼻歌でもでかけた時だった。遠くで悲鳴のような声が聞こえる。急いでツクネは声の聞こえた方へ走る。
「た……助けてくれ!」
ツクネが辻を曲がったところで一人の男が駆け寄ってくる。見ると肩口から血が流れている。
「どうしたんや?」
「鬼が……」
「鬼が何やて?」
男は傷に手をやりながら、肩で息をしているため話が要領を得ない。ツクネが男から詳しく話を聞こうとするところに人影が近づく。
「……その男を渡してもらおうか」
その声に振り返ったツクネの視線の先には漆黒の刀を携えた鬼面の男が移った。
「あんた何者や?」
「あいつだ! あいつが俺らの仲間を……」
男が叫ぶ。その刹那、鬼面の男がツクネの横を駆け抜け、その男に向けて刀を振り上げて斬りかかる。
「危ない‼」
男に刃が振り下ろされる寸でのところでツクネの鋼鉄製の玉すだれが伸びる。闇夜に甲高い金属音が響く。ツクネの手に衝突のしびれが伝わった。
「何するんや! あんた」
「そいつは商家に押し入りを働いた一味の者だ。裁きを与えるに値する」
鬼面の男は刀の先で男を指しながら言った。ツクネも振り返り男の方を見る。男は肩で息をしながら視線をそらした。
「さあ、その男を渡してもらおうか」
鬼面の男は一歩ずつ近づいてくる。
「だからといって……」
ツクネが指の間に挟んだ小さな球を投げつける。鬼面の男がそれを刀で受けるとあたりに一瞬にして閃光が走る。
「人を殺してええ訳ないやろ!」
目くらましの閃光弾をぶつけた隙に、ツクネは玉すだれを振りかざした。しかし、その一撃は刀で受け止められてしまう。鬼面の男とツクネは鍔迫り合いのような形になる。
「何してるんや! はよ逃げ‼」
ツクネが叫ぶと男は慌ててその場から離れる。
「さあ、邪魔者はいなくなったで、あんたが例の辻斬りやろ? うちが相手になったるわ!」
「私が斬るのは悪事を働いた者だけだ。そなたと闘うつもりはない」
鬼面の男は鍔迫り合いから一歩後退して距離をとった。
「うちはそういう似非正義面したやつが一番嫌いや!」
ツクネは懐からクナイを三本出して投げつける。空気を切り裂くように加速して、鬼面の男にクナイが向かうが、男は難なくそのうちの一本を刀で払い、残り二本を躱した。間髪入れずにツクネは鋼鉄の南京玉すだれを振り下ろす。
鬼面の男はそれも体さばきで躱した。振り下ろした玉すだれが地面を削り、砂埃を巻き上げる。ツクネが手元で操作すると、地面にぶつかった玉すだれが跳ねるように進行方向を変え、男を追撃する。
「……っ‼」
予想外の動きに鬼面の男の反応が一歩遅れる。何とか体をひねって致命傷は避けたが、肩口あたりに玉すだれが直撃した。
「よっしゃああ! あたり!」
鬼面の男は刀を杖のようにして片膝をつき、右肩を押さえている。鋼鉄製の玉すだれだ、少し体をひねったとはいえ、骨ぐらいは折れているかもしれない。
「……もうやめときや。それなりの手ごたえはあった。おとなしくお縄につき」
「……」
男が右肩を押さえながら細かく震えだす。
「……やめろ」
「あ? 何て?」
「……逃げろ! 早くここから!」
鬼面の男が叫ぶ。その鬼気迫る様子に、ツクネは圧倒された。
「どういうことや?」
「俺は悪人以外、斬らないと言っているだろ‼」
ツクネの質問にはお構いなしに男は独り言のように叫ぶ。
『血が……血が欲しい! さっさと体を渡すんだ』
低くくぐもった声がどこからか聞こえる。ツクネはあたりを見回すが二人の他には誰もいない。
だが、次の瞬間、ツクネは声の主に気づく。……刀だ。鬼面の男のその漆黒の刀から声が聞こえてきた。
「……やめろ! やめてくれ」
男が繰り返し叫ぶ。
『力を欲したのはお前の方だろう? さあ、力を与えてやろう』
その声と共に刀の柄の部分から黒い触手のような物が伸びる。そして、その先端が男の右腕に刺さったかと思うと、一瞬にして右肩あたりまで、黒い触手に覆われ、男と刀が一体となった。
この刀……妖怪! ツクネの頭によぎったと同時に、鬼面の男の触手と一体化した腕が伸びてくる。ツクネは玉すだれを地面に刺し、棒高跳びの要領で跳躍して塀の上へ逃れる。伸びた刀は先ほどまでツクネがいた背後の壁を貫き、崩壊させる。
こいつ……やばい。寄生型の妖怪やな。ツクネは塀の上からうなり声をあげる鬼面の男を観察しながら思った。すでに鬼面の男は妖怪に理性を奪われている様子だ。右腕は完全に寄生されて妖怪化している。
「……哭き鬼か」
ツクネはヒビキの話を思い出す。先程の話しぶりから察するにきっと正義漢の強い男だったのだろう。その正義感を妖怪にうまく煽られて、結局は自分自身が妖怪になってしまったのかもしれない。
さて、どうしたものか? 先程の一撃を見るに不用意に近づくのはさけたい、そう思ったツクネは懐から細い鋼線をのついたクナイを取り出した。片手に四本、合わせて八本のクナイを指の間に挟むと、鬼面の男に向かって瞬時に投げ放つ。
細い鋼線のついた八本のクナイが男に迫る。鬼面の男は右腕と一体化した刀を振るいクナイを払おうとする。その動きを察知したツクネがクナイの柄から伸びた鋼線を操ると、男に向かっていたクナイは急激に方向転換し、様々な角度に地面や塀に突き刺さった。クナイから伸びた鋼線が男の動きを封じるように周囲に張り巡らされる。
ツクネのクナイから伸びた鋼線は細いわりに丈夫で、刀でも簡単に切れない代物だ。西洋の操り人形を元に考案されており、ツクネの指にはめた指輪とつながっている。指先の微妙な操作でクナイを操作できるようになっている。もちろん自由に操るにはそれなりの修練が必要となるが……
とりあえず動きは封じたけど、この後はどうしたろ? とツクネが思った瞬間、鬼面の男が強引に刀を振るった。雷鳴のような金属音と共にいとも簡単に鋼線が断たれる。
「なっ‼」
ツクネが信じられない様子で目を見張る。男は叫び声をあげながら、断ち切った鋼線を四、五本まとめてつかむと、それを思いきり振り回す。やばい!! と思った時にはすでに鋼線とつながった指輪につられて、ツクネの体が空中に投げ出された。
いくら女性の体とは言え、様々な道具の詰まった籠を背負ったツクネはそれなりの重さがある。それを男はいとも簡単に片手で持ち上げてしまった。妖怪化して腕力も人間のそれではなくなっているのだろう。
そのままツクネは鋼線に振り回される形で地面に激突した。幸い背負った籠のおかげで意識はあるが、衝撃で視界がゆがむ。ツクネはすぐに立ち上がろうとするが足元もおぼつかない。そこに鬼面の男は大上段に構えた刀を振り下ろそうとする。
ここまでかいな……ツクネは思わず目をつぶった。男の刀がツクネの脳天に振り下ろされようとするその瞬間に男は突如横から受けた衝撃に吹っ飛ばされ、そのまま塀に激突する。激突の衝撃で塀は崩壊し、砂ぼこりが巻き上げられた。
鬼面の男の右腕には大きな爪でえぐられたような傷跡がある。砂ぼこりの中で目を凝らした男の視線の先には鬼の手をもつ少女の姿があった。
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