第35話 And you and I

「そんなバカな……そんなことがあっていいはずがない……」


「そうだな。君にしてみれば絶対に許しがたい逸脱と感じることだろう。だが現にそれは起きた。結果、私は君と全く同一の学識、知識、能力を持ちながら君の目的や執念、忍耐力を持たない、別の人格になった」


 先輩が膝の力を失って、床に崩れ落ちた。

 

 奇妙なことに、僕はその時初めて、建物全体にズンズンと響き続けている、文明放送のバンド「ウィンドミル」の演奏を意識していた。

 スネアドラムとシンバルを多用した手数の多いドラムと、それを追うようなメロディアスなベースの上で、ギターとヴァイオリンが奔放に踊っている。

 

 

「そんなに落ち込むことはない。原因は十中八九ただのマシントラブルだ、ラボを出てくる時にそれらしい故障は全部チェックして直しておいた……現に、それ以降の君は当初予定された通りの再生を繰り返し、究極の目標を達成して、彼と一緒にここにいるではないか」


 光子は――「二十九代目」解柔院薫子は、母になった経験を持つ者だけが備え得るであろう優しさで、先輩の前にしゃがみ込んで正面からその肩を抱いた。

 

「私に至るまでの二十八代にわたって積み上げてきた努力と研鑽は、尊いものだ。恋人の再生を願い、わずかな可能性に全てを賭けるその意思も。それはよくわかっていた。

 だから私はラボには極力手を付けず、最低限の準備を整えたあとは、わずかな物資と装備、それに竹馬スティルツ一台だけを持ち出して外界に旅立ったのだ。次の薫子の発生をスタートさせ、イレギュラーである自分に関する記録は抹消してな」


 先輩は無言のまま、光子の言葉をただ聞いていた。


「そうして、私はこの川口で平家・ローゼンタル・孝成と出会い、彼を助けて文明放送を発足させ、桜子を産んだ」




 そうして訪れた長い静寂。

 

 先輩の喉から奇妙な声が絞りだされ、しばらくたって僕はそれが嗚咽であることに気づいた。泣いている。

 

 薫子先輩は泣いているのだ。何に対して?

 

「一人で……一人で旅をして……見知らぬ人たちの間で仲間を作って、この場所を……よくもそれだけのことができたものだ。あまつさえ子供まで」


「私にできたのだ、君にだって同様のことができる。ラボから外界に出るその時を得たら、君も私も、同じように動くはずだ。実際にもそうなった。なりつつある」


 しゃくりあげる先輩を、光子が優しくなだめた。


「あの、すみません。和真さん、これ、何がどうなっている場面なのか私にもわかるように教えてくれませんか」


 桜子嬢が僕の肩に手を置いて、すがるような目を向けてきた。ああ、まあそりゃ困るだろう。母親と同じ顔をして同じ名前を持つ、ずっと若い女性が現れて口論をしたあげく、抱き合って片方が泣いている、などという状況を前にしたら。

 

「……僕にもうまく言えないんですが、多分――貴女には年齢としのごく近い叔母さんがいたんだ、って感じで理解しておくといいと思いますよ」


「なるほどね。なんだか難しい言葉がいっぱい出てきてよくわからなかったけど、たぶんそういうことなのね……」


「ええ、たぶんそれで」


 今にして僕は思うのだ。クローンなどという技術が確立されたとき、人は何をもって自分が自分であることを定義し、確認するのかと。

 先輩とのこれまでのいきさつを振り返る限り、それは記憶と意思が同一、あるいは連続性を持つことなのだと。

 

 であれば、二十九代目解柔院薫子は、既に「解柔院薫子」ではない。先輩とは別の存在だ。それが分かっているからこそ、目の前の盛りを過ぎつつある女性は、自らを「光子」と別の名で定義したのだろう。

 

「じゃあ、貴方はその薫子さんの夫なわけだから……私の義理の叔父さんってことですね。ずいぶん若いけど」


 言葉を失ったまま廊下に佇む僕たちの耳に、「ウィンドミル」のボーカルが歌う、古い歌の歌詞が聴こえてきた。

 

 

 

  星も見えない闇の夜に 

  手探りでやっと出会ったようだ

  空に月が浮かぶときには

  光の中に消えてしまう暗く優しい夢なんじゃないかと

  僕はまた君の手を握り締めてしまう

  

  この気持ちを――

  あの誰もがくぐる大きな門の向こうへは

  持っていけないのだとしても

  

  それでも今は、愛してくれるだろうか

  君は僕に触れてくれるだろうか――

  

    

 英語の歌詞には聴き取れない部分も少なからずあるが、多分そんな感じの内容だと思う。今目の前にある構図というか状況を想えば、何やら皮肉にも感じられた。 

 ラボの中でただただ研究と生存に明け暮れ、だれに出会うこともなかった過去世代の先輩たち。今の薫子先輩は、そのすべての記憶を持っている。闇の中で誰にも出会わず、空に月が出るその時をただ夢見続けた二百四十年の記憶を。

 

 多分、薫子先輩はその記憶を手繰り寄せ、消えて行った三十一人を偲んで泣いていたのだと思う。   

  

 その夜、結局放送終了まで、文明放送の番組が復旧することはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る