第34話 あるはずのない分岐
「志室木さん……その人は?」
「ああ。すまない、紹介しよう。彼女は
目の前の女性は年齢的にはおおよそ二十代前半くらいに見えた――とはいっても外見の印象はあまりあてになるまい。
ここの生活水準は他と比べるとずっと高いが、僕たちのあの時代に比べるとやはり過酷な環境だ。案外十代の終わりあたりなのかも知れない。
「名前などはどうでもいい」
志室木を遮るように割り込んだ先輩の声は、丸一日水を飲み忘れていた人のように乾いてうつろな響きだった。
「毎朝覗き込む鏡の中にしかないはずの顔を、私はどうして他人の肩の上に見ている……? 平家・ローゼンタル・桜子、といったか。何者なのだ、貴女は?」
桜子嬢のほうも、先輩の顔を見るうちに同じ疑問点に至ったらしい。志室木の今は緩んだ両腕の中から抜け出し、二度三度と首をひねっては、何か恐ろしいものを見るように先輩の容貌を確認していた。
「い、イオリ……この人は?」
「高井戸薫子さん。そちらの和真君の奥さんだと名のってますが……そうか、じゃあ君たちはこれまでに面識はないのか――」
「あるわけがないだろう」
「あるわけがないわ」
オウム返しのように同じ返事をする二人を前に、志室木が文字通り頭を抱えた。
「そうか……いや、初対面の時にあまり桜子さんに似てるんで驚いたし、てっきり親戚か何かじゃないかと思い込んでた。俺が桜子さんとここで会うよりも前に、何かの事情でここを出たのかな、とか」
「そんな事実はないわよ……あなた、想像力が豊かすぎるんじゃないの?」
「いや、だってさあ、この人たち、
「ええ、現に目の前に三台あるわね。でもそれなら、むしろ母が彼らの故郷を出奔したという方がありそうに思えるわ。だって、文明放送に
「最近になって旧国分寺近辺にでてきたそうだが、それ以前にどこにいたのかは分からない。何か事情があるらしくてね、まだ教えてもらってないんだ」
「そうなの……」
顔を見合わせるばかりの二人に、先輩が質問を放った。
「母? 待て、今の話から察すると、貴方の母がここに
「ああ、文明放送の創始者は桜子さんのお母さんなんだ」
――まさか……いや、そんなバカなことが……
先輩の声がひどくかすれて小さくなり、視線は胸の前に持ち上げられた両の手のひらに注がれた形で固まった――まるで何かを手ですくおうとして全部こぼしてしまった、といった感じにも見えた。
桜子嬢はその様子をじっと見ていたが、不意に何かを思い出したように目をしばたいた。
「待って。タカイド……? 高井戸といったのね、その二人の名前は?」
「うん」
「じゃあ……この人たちがそうなんだわ」
桜子嬢はそういうと、急に居住まいを正して背筋を伸ばし、僕たちに改めて向き直った。
「高井戸薫子さん。それに……和真さんね。お二人はこれから私についてきてください。母に――文明放送の創始者にお引き合わせします」
厳かな声でそう言い渡す彼女の声は、やはりどこか先輩に似ていた。堂々としたそのしぐさ、振る舞いも。
志室木とノゾミは同行を許されず、アンテナの下にある小ぢんまりとした建物の、玄関ロビーで待たされる形になった。ちょうどそこへ追いついてきた11型が、二人を守るようにあたりを睥睨して動き回った。
僕と先輩は
「桜子さん。貴女の母上というのは、まだ存命なのだな?」
「元気ですよ。まだ四十七歳ですもの――自称で。その割に今では自室に引きこもって誰にも会いたがらないんだけど。私は母からずっと『こういう人たちが来たら私のところへ案内しなさい』って言いつけられてるんです」
「……ほう。ところで平家・ローゼンタルというのは奇妙な姓だが……察するに御父上が――」
「ええ。早くに亡くなりましたが、父は文明放送の発足以前から、ここで集落を作ってリーダーをやっていたんです。何代か前の先祖にドイツとか言う国の人がいたらしくて、その姓も併せて名のってました」
「そうか」
さっきから先輩の様子がおかしいのが気になった。ひどく混乱しているし、何かに怒っているような、恥じているような感情の爆発が、平静を装った表情の下で断続的に続いているとでもいったような、そんな感じなのだ。
「して、貴女の母上の旧姓と、下の名前は……?」
先輩がそう尋ねたちょうどその時、僕たちは階段を上がり切っていた。短い廊下の奥に社長室とか校長室にありそうな重厚な木製のドアがあり、その上部に設けられた小窓から、中の光が廊下へもれていた。
「母の旧姓は
解柔院だって!?
僕と先輩は同時に顔を見合わせた。先輩の顔がひどく青白い。
と、ドアの向こうから聞きなれた気のする声がした。
――誰か来たのか……桜子かな? 食事を持ってくるにはまだ早いと思うのだが……もうちょっと待ってくれ、あと少しで今やっている翻訳が――
「お母様。客人をお連れしました。たぶん、前からおっしゃってた人たちです」
――何だと……?
ドアの向こうで、誰かが席を立って歩きだす気配。ロックが外され、ドアが開くとそこに――薫子先輩がもう一人いた。
それは僕が知っている、現に今も横にいる姿ではなく、目元にわずかな小じわが刻まれ、顎周りに肉がついて丸みを帯びた――いわば三十年ぶん歳を取った薫子先輩だった。
「おお……」
薫子先輩――いや、平家・ローゼンタル・光子は吐息とともにそれだけ声を漏らすと、しばし立ち尽くした。そうして一瞬の後、プッと吹き出したのちに破顔して、実に機嫌よさそうに笑い始めた。
「ははは! そうか、そうなのだな! まさしく! まさしく君たちだ。君と、私だ!!」
そう言いながら、彼女は僕と薫子先輩を交互に指さす。薫子先輩はしばらく凍り付いたように呆然とそれを見守っていたが、急につかつかと前に出ると、光子の右手首をつかんで下へ引き、互いの顔を間近に寄せた。
「一人ではしゃいでないで説明しろ。これでは訳が分からん! お前は確かに私だ――何代目かの私であるはずだ。だが、なぜここにいる。転写プログラムは、初代の私の記憶と意思を最優先するはずだ。それがなぜ、和真ではなく別の男、平家・ローゼンタル
光子は苦痛に顔をゆがめながらもその姿勢のまま、慈愛に満ちたとしか表現しようのないまなざしで薫子先輩を見下ろした。
「ああ、もう本当に自分そっくりで笑ってしまうよ。そんなにいきり立つな、解柔院薫子。君たちの最良の協力者になれるはずだぞ、この私、二十九代目解柔院薫子は」
「にじゅう……きゅうだいめ?」
先輩の声が奇妙に濁った。相手の体をほぼ完全にコントロール下に収めているのに、むしろ先輩の方が追い詰められた苦しい状況にあるかのようだった。
「君の問いへの答えはごく簡単だ。記憶転写を行ったプロセスはコンピューターによって自動化されていた。だが機械も人間と同様、ちょっとしたきっかけで誤作動を起こす。完全でない、という点ではどちらも大差はない」
「どういう……ことだ?」
「培養カプセルから抜け出した時、私には高井戸君への芽生えかけていた愛情と執着、そして彼の死と、再生の約束――それら一連の記憶がすっぽり抜け落ちた状態で転写されていたのだ」
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