第32話 文明放送へ
――二三〇二年、五月二十八日。関東文明放送がお昼をお知らせします。
五月二十日より平林寺境内林で行われていた交易市は既に終了しています。次の市は六月八日より飯能市民球場跡で五日間予定されています。
六月中旬頃より梅雨入りが予想されるため、水源地の皆様は水位の変化にご注意を。また大雨の後は土砂で川などが濁ります。清水の確保、貯蔵を心掛けましょう。この後はしばらく音楽をお送りします――
ノゾミに持たせた手回し発電機付きラジオから、スクラッチノイズ交じりの古いロックが流れはじめた。
三連符のリズムに乗せて歌われるのは、好意を寄せた相手の女性に翻弄されつづけて、「
どうしてこんな内容を、こんな明るく爽やかな風に歌えるのだろう?
男は彼女からの気まぐれな一度だけのキスを、それでも「渇きの中で差し出された水」に例えて反芻し続けるのだ。
聴くのはこれで三度目くらいになる。文明放送にもそれほどたくさんの音源があるわけではないらしい。
どういうメディアを再生しているかは不明だが、ノイズの感じからすると中古レコードからカセットテープに録音したものだろう――父がそんな感じのライブラリをごっそりと自分の端末に抱えていたのを、僕は思い出していた。
このDJの声もすっかりお馴染みになった。深いアルトの声質がどこか先輩に似ていて、聴いていると何かほっとする。
一度現場のスタッフかゲストか、正体のはっきりしない男性の声と話していた時の内容からすると、名前は「サクラコ」らしい。
どういう字をあてるかは不明だが、何にしてもこれから行く目的地で、このDJにも会う機会がある事だろう。
午前十時の時点で、僕たちはかつての五日市街道へと出ていた。ここからまずは玉川上水沿いに東進したあと、早稲田大学の廃墟を横目に青梅街道を進む。そのままおおまかに練馬方面へ向かい、環八通りに入って板橋区を通り抜け、かつての新荒川大橋のところで荒川を渡って川口へ入るルートだ。
「平林寺から直行できなかったのは、結構なロスになった気がしますね?」
端末で地図を確認して、僕は今さらながら首を傾げた。国分寺と川口は、途中で新座方面を経由しても構わないくらいの位置関係にある。
「私もそう思うが、やはりバッテリーの問題があるからな。どこででもおいそれと充電できるわけではないのだから、可能な限り万全の状態を保っておく必要がある」
それに比して、あの志室木という男のタフさはどうだろう。手回り品は最低限にまとめているといっても、鍛冶に使う重い鉄製工具が大部分。多分十キログラムは下らないはずなのだ。
それを身に着けて、地形にもよるがだいたい時速四キロ程度までは出せている。
(江戸時代の旅人みたいな感じかなあ)
松尾芭蕉の「奥の細道」の記述を分析した雑学系の読み物のことを思い出す。彼は一日に四万歩、推定三十五キロの距離を走破していたというが、志室木もだいたいそのくらいだ。どうやらフィジカルな意味で相当に旅慣れているらしい。
志室木を先頭に先輩とノゾミが
「お二人、あれ見えるかな?」
志室木がなにかを指さしながら振り返った。廃墟と森が点在する荒野の中、ひときわ濃い緑が固まった一帯から白い煙が細く上がっている。
「煙……?」
「あそこは元の石神井公園だよ、多分人がいるんだ――立ち寄ったことがないから分からないが、ひょっとすると仔豚を買っていったグループかも知れないな」
「そういえば練馬の方だって言ってましたね」
市街地の廃墟が基本的に居住に適さないのは、国分寺駅前で身に染みた。
いま日本に点在する残存社会は、緑地公園や学校跡といった、もともと災害時の避難場所に指定されていたようなところを拠点にして営まれている。湧水や川といった水源があれば理想的、というところだ。
「ふむ、帰りに寄ってみるか……?」
「いいんじゃないかな。ただ、人がいそうなところに片っ端から近づくようなことはしない方がいいだろうね。接触するまではどんな集団かわからないから」
「そうだな、気を付けよう。たとえ平和的な連中でも、私たちと考えが合わないという場合もあるだろう」
先輩はそういいながら、道路に崩れ落ちた電柱の残骸を飛び越えた。それを目で追いながら、僕の頭の中では、先輩が今言ったことから広がった入り組んだ想念が渦巻いていた。
平林寺で志室木にした説明をベースにして、僕たちは少し離れた土地の大学跡に定住したコミュニティから出奔してきた、というカバーストーリーを作ってある。「実際にそういう出自だったら」という想定をしながら考え、しゃべることを心掛けているが、時々妙な気分になる。
おそらく志室木の出身地や文明放送こそ、そうした知の遺産を実際に保持しているグループであるはずなのだ。「関東文明放送」の名を掲げて電波を送信しているのは、いったいどんな人々なのだろうか?
東京周辺を住みよいところにしようとしている、という話ではあるが、それだけでは何とも漠然としていてつかみどころがないのだ。
ノゾミがまたラジオの発電機ハンドルを回し始め、スピーカーからはやや割れた音で「スケーターズ・ワルツ」が流れ出した。
荒川の河畔に近づくにつれて、周囲の風景が大きく広がってきた。長い年月のうちに流路が変わったらしく、川の水量はごく少なく、流れの幅もマップに表示されるイメージの半分ほどもない。
中央部で大きく崩れた橋の下で荒川に別の細い川が流れ込んでいたようだ。その名残で南側だけが鋭く切り立った中洲が、今はそのなだらかな北斜面に新緑をきらめかせている。
対岸にはよく似たたたずまいの河川敷が広がり、青空を映して蛇行する水の流れを、中洲との間に挟み込んでいた。
穏やかな風が吹く、五月の午後。空は何処までも高く澄み渡り、林立する高層マンションの残骸を見なければここが広大な廃墟のど真ん中だとは分からない。
そんな広漠とした風景のなかで起きた変化に、最初に気づいたのはノゾミだった。
「ねえねえ、人が出てきたよ」
「んっ?」
川の北側、旧川口市の方から十人ほどの集団が河川敷へ現れたのだ。彼らはみな白っぽい粗製の布で身を包み、ありあわせの材料で作ったスコップや鍬、もっこを手にしていた。
彼らは最初河川敷のだいぶ水際に降りて、そのあたりで土を掘ろうとしていたようだった。だが、こちらを発見すると一斉に腰を伸ばし、何やら歓迎する様子で手を振り始めた。
――おおーい!
志室木がそれに応えた。
「おーい!」
――あ、イオリじゃないか! 戻ってきたのか!
――イオリ、久しぶり!
志室木は彼らの何人かと面識があるらしかった。
「やあ、すまないが誰か文明放送まで行って、俺が戻ってきたって伝えてくれないか」
――分かった。ところでそこの
「ああ、代表に頼まれてた情報をくれた恩人だよ。で、彼らは『寺院』からのメッセージを預かってる」
――俺が行ってくる!
土堀の一団の中で一番若い痩せた男が、跳びあがるようにして名乗りを上げた。彼はたちまちその場を離れて、素晴らしい速度で北東へ向かって走り出した。
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