第19話 地上の星と、肉の味
「勝った……」
狩りが終わり、興奮が遠のいていく。疲労と虚脱感が広がると同時に、何か体の深いところから沸き起こる満足感があった。
多分、原初の時代に僕たちの先祖も、こんな気持ちを味わっていたはずだ。
目の前にはいまだどくどくと血を流す、巨大な肉の塊があった――そう、お肉だ。
「解体せねばならんな。だが、現状にかんがみて、いくつか断念せねばならないことがある」
先輩が地面に槍を横たえてそう
「……何です?」
「この野外では、豚の腸を洗い清めるだけの水が容易には手に入らない。といってラボに持ち帰っても衛生上の問題が生じる。よってソーセージは作れん」
「ああー……」
豚の腸の中には当然未消化な食物から糞に至るまでの物質が詰まっている。それを適切に処理するには専用の設備が必要だろう。先輩のラボにも流石に巨大イノシシを解体できるような機能はない。
それに、野生動物の肉や血液には、えてしてウイルスや細菌のリスクがあるのだ。
「だいたい、ソーセージのケーシングとして使う腸は前もって洗って塩漬けにしたものだろうからな……他にも内蔵の利用はすべて、今回はあきらめた方が無難だろう」
「いや、まあ僕だって腸を洗うとかあんまり考えたくないですし、むしろ歓迎ですよ」
「ラボに帰れば塩はあるから、普通のハムやベーコンは作れるはずだ。肉と皮だけを持ち帰ろう」
さて。
そういう段取りを決めてなお、エドエックスの解体はなかなかの重労働だった。竹馬無しでは途中で
槍に仕立ててあった例の短剣を柄から外し、まずは皮をはぐ。
毛皮に寄生するダニを警戒して、作業服にはびしょびしょになるほど虫よけの薬液をふりかけ、イノシシの死体そのものも風上で枯草や枯れ木を燃やして煙でいぶした。
皮を剥いだらイノシシの背中から刃を入れて、背骨から肋骨に沿って肉を切り離していく。
腸を傷つけないように細心の注意を払って腹側の肉も切りとった。モモと肩、四肢はそれぞれ別々に電線で結わえて吊るせるようにし、胴部の肉は皮に包んでひとまとめに。内臓や骨はなんとか穴を掘って埋めた。
そんな作業を一通り終えると、辺りはもう暗くなってしまっていた。
「そろそろこの場を離れよう。死体と血の匂いがまだ残っているのが、いかにも拙い」
ゴーグルに暗視装置があるので夜道でも困りはしないが、ノゾミが言っていたもう一つの野生動物、オオカミモドキなどに遭遇するのはごめんこうむりたい。僕たちは重い荷物を
途中、小高い丘の上を通りかかる。僕と先輩は特に言葉を交わすわけでもなく足を止め、周囲をぐるりと見渡した。
かつて見慣れた、地上に無数の星をぶちまけたような夜景はそこになかった。残照に照らされてどこまでも広がるのは、瓦礫の中からところどころにそびえる無人の廃ビル群と、それを押しつぶすかのように生い茂る木々の、こんもりとした黒い森。
「これが、あの東京か――本当に真っ暗だな」
先輩の声が少し震える。
「ああ、でも先輩、ところどころに灯っぽい光が見えますよ。ほら、あそことか。あっちにも」
それは本当にかすかな、小さな灯だった。だが決してなにかの金属片に夕日の残照が反射したとか、そういうものではなく、夜のとばりが降りつつある中に人間の手で点された新しい光だと分かるような、そんな色と輝きを放っていた。
「うむ、私にも見えた――光源はなんだろうな? 方角からすると埼玉県の新座方面と、多摩湖北岸あたり。あと、あのずっと遠い灯は……旧北区ぐらいのようだが……もう少し北かな?」
ピュイー……ガガガ……
不意にそんな感じのノイズが響いた。ぎょっとして辺りを見回す。
〈関東文明放送が午後七時をお知らせします。本日もお疲れさまでした。明日も皆様に良い知らせがお届け出来ますように。では本日最後の音楽を――〉
「なんだ、ラジオか。ノゾミ、点けるならひとこと言ってくれ」
「あう、ごめん!」
すまなそうに首をすくめたノゾミに、先輩はすぐに優しく笑った。
「そんなに縮こまらなくてもいい。ちょっとびっくりしただけだから……ああ、曲名を聞きそこねたが、なんだかほっとする音だな」
ラジオから流れた音楽は、ヴァイオリンの軽快なパッセージが随所にちりばめられた、それでいてゆったりとした印象を与える
「録音ですかね。こんなもののメディアがまだ残ってたのかな」
「生演奏だともちょっと考えにくいが……何にしても、こんな世界でラジオで音楽を流すというのだ。よほどの信念がなくてはできまい」
関東文明放送か――発信局はどこにあるんだろうか。
「……今度、探しに行ってみますか」
「そうだな。まあ、その前に明日はまず、あの小学校跡をあさるとしよう」
先輩の言葉を最後に、僕たちは再びラボへ向かって荒れ果てた夜道を駆けだした。
戻った後もやることはたくさんあった。エドエックスの肉を小分けのパックにしてプラスチック袋に詰めこみ、冷蔵庫へ。残った皮に食塩をまぶして塩漬けに――これはあとで何か樹皮からタンニンを取ってなめすことになる。
それがすむと、僕たちは人数分取り分けておいた肉を調理し始めた。
「ふう。分かってはいたことだが、狩りから食べるまでをぜんぶ自分でやるというのは本当に大変な労働だな」
「先輩、大丈夫ですか。少し休んだほうが。それに肉ってのは熟成しないと食えないんじゃ?」
「いや、このまま最後までやる。一般的には熟成して食うのがセオリーかもしれんが、
先輩は狩りの前に宣言した通り、何が何でも僕にトンカツを振る舞うつもりらしかった。
乾燥状態で保存された全卵粉末を水で溶いた「溶き卵」にして、イノシシの肩ロース切り身を漬けこんだ。
そこに缶詰の食パンをほぐしたパン粉をまぶし、脂身を煮て取ったラードでからっと揚げる。ジュウジュウ、パチパチと煮えて弾ける油の音がもうたまらない。
しっかりと火が通っていて、やけどしそうなほどに熱い。凍結保存されていた前世紀のトンカツソースには少し不安を感じたが、一口サイズに切って口に放り込んだ。思いのほか柔らかで、噛むと程よい歯ごたえとともに肉汁が口の中にしみ出した。
「ど、どうかな?」
「……美味しい! 最高です!!」
ああ。中庭で全校生徒の視線を浴びながら先輩の手作り弁当を頂いた日が、本当についこの間のように思われる。いや、僕の主観では実際ついこの間なのだが。
ノゾミは感激の涙を流しながら、無言でトンカツを咀嚼し続けている。
「高井戸君、昼間の狩りだが……最後のダイブはちょっと頂けなかったが、そこまでの立体的な機動はなかなかカッコよかった。竹馬をあれだけ的確に動かせるのなら、運動能力のトレーニングはほぼ完成だな」
「そ、そうですかね」
カプセルから出た日のことを思い出してちょっと声が上ずった。先輩は、僕の体の機能が十分に整ったら「しよう」と告げていたはずではなかったか。
「それにまあ、そのなんだ、最後のあれも……君があそこで頑張ってくれなかったら私はイノシシと刺し違えていたかもしれん。
テロに巻き込まれた日のことを思い出したよ……あの時も君は、空中へ大きく跳びあがって私を守ってくれたのだったな。美術部から生物部へ移籍した文化部員とも思えない動きだった」
「あー。実は僕、中学時代は陸上ちょっとやってたんですよ。二年の終わりに怪我しちゃってそのまま引退しちゃったんですけどね」
今の僕にとってはあまり意味のない話だ。僕が今オリジナルと同様かそれ以上に体を動かせるのは、この数か月先輩の管理下で積んだ運動トレーニングのおかげなのだから。
「そうだったのか……私は二百四十年ぶりに、君のことをまた一つ新しく知ったわけだな」
薫子先輩はひどく嬉しそうだった。僕も悪い気はしない。
「そういえば……高井戸君、覚えているだろうか? 私にはあの時、君に言いかけていたことがあったのだ。ほら、お盆の話をした時の――」
「あー……何となく覚えてるような。確か――」
あれは夏休みに入る直前だった。薫子先輩は確か、僕に休みの予定を訊こうとして――僕がお盆の予定などに言及したために話がそれてしまったのだ。薫子先輩はあの時、それをやや強引に引き戻そうとしていたはずだった。
――その……休みに入って最初の日曜日にだな――
「休みに入って最初の日曜日に、どうするはずだったんです?」
「思い出してくれたか。そうだ、休みの最初の日曜日だ。あのとき私はな、葉山にあるうちの別荘まで、君を泊りがけの旅行に誘うつもりだった」
「そうだったんですか!?」
「そうだ……二人きりで、うちのプライベートビーチでゆっくり過ごして、そしてその夜は――」
そこから先は聞かなくても理解できた。先輩は言葉こそ軍人か何かめいていかついが、とても情熱的で積極的で、恋に真剣な女の子だ。間違いなく、その別荘での一夜に一世一代の決意をしていたのだ。してくれていたのだ。
僕との一夜のために。
「じゃあ、今度こそ行きましょう。今は五月……夏休みまで二カ月あります。この時代で生きるいろんな準備が一段落したら――夏までに片付くって保証はないけど。とにかくその時期になったら、葉山に」
ああ。葉山というリゾートの名前は知っていても、それがどの辺にあって、どのくらい高級なリゾート地なのか、僕はあまりはっきりとは認識していなかった。
今となってはその名だたる景勝地も、この国分寺かいわいと大して変わりのない、荒涼とした廃墟になっているかもしれない。
だがそれでもいいではないか。先輩と、何ならノゾミも一緒に海辺へ行って、その場にあるものを駆使して自由気ままなキャンプ生活を何日か送ろう。
海がきれいなら泳いだっていい。花火は手に入らないだろうが、焚火だけでも十分だ。
「よし、ではそうしよう! 葉山へ行こう。なんだかとても生きる気力があふれてきたぞ」
「僕も楽しみです……えっと、このあいだの約束も、何ならその時に」
「もちろんだ。その約束も忘れていないぞ。私も楽しみにしている」
つい盛り上がってそんな話に息を弾ませている僕たちを――トンカツの大きな一切れをやっと飲み込んだノゾミが、じっと見ていることに僕たちはようやく気付いた。
「……なんか、すごっくえちーな話をしてるきがする!」
彼女はそういって目をまん丸に見開くと、僕らの席から少し椅子を離して距離を取った。
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