第一章:Future is now
第6話 Distance
Pi――
海岸沿いの、すこし上り勾配のついた砂地を走る。厚底のバスケットシューズが砂に取られて、足がもつれた。
照り付ける太陽の下、ずっと前方を薫子先輩が走っていく。ミントグリーンのワンピース型水着につつまれた、腰から太ももにかけての線がやたらに眩しい。
Pi――
「ああ、もう、待ってくださいよ! 僕はまだ走るのも歩くのも、全然素人なんですから!!」
「はっは! くやしかったら私をつかまえてみたまえ!」
全く――この先輩、ノリノリである。
Pi――
Pi――
PEEEEEEEEEE……!
〈二〇分経過。プログラムを終了、これより五分間のクールタイムに入ります〉
目の前に展開していたリアルな海岸の風景は消え失せ、辺りはやや殺風景なスポーツジムめいた部屋に切り替わった。
こっちが現実である。さっきまでの出来の悪い青春映画みたいなやつは、頭部に装着したゴーグル型ディスプレイに投影されたCG映像。手あかのついた言葉で言うと
僕と薫子先輩は、病院の検査室やスポーツジムにあるのとよく似た
目覚めた日に薫子先輩から宣言された通り。僕は今、運動能力をオリジナルの物に近づけるべく毎日トレーニングを続けている。大体三日に一回は、先輩も同じメニューで付き合ってくれていた。
「ふむ、この程度のランニングの後でこの数値なら、まあ順調といっていいかな」
先輩が手元の計器に視線を落とした。僕たちは今、水着など着てはいない。心拍数や血圧、筋電位などを計測するセンサーがびっしりとつけられた、濃紺色のスキンスーツを身につけ、ゴーグルを装着。昔のSFドラマに出てくる宇宙船の機関部長みたいないで立ち。耳と口元にはヘッドホン型の
ゆっくりと動き続けるトレッドミルからさっと下りると、薫子先輩はドアの方へ歩いて行った。
「シャワーを浴びて、ちょっと警備センターを確認してくる。何かあったらそのインカムで連絡してくれればいい」
「分かりました」
トレッドミルの回転が次第に遅くなり、やがて止まった。僕はマシーンからのろのろと下り、ゴーグルを外して自分の頭を撫でた。
(早く生えそろわないかなぁ、髪の毛)
僕の頭には今ようやく、新生児のようなふわふわの産毛が伸びてきたところだ。クローン培養カプセルの中にいる間、胎児の在胎期間に当たる成長期にはつるっつるだった。
記憶転写用に装着していた電極帽子の邪魔にならないように、先輩があらかじめ僕の遺伝子発現をちょこっと
先輩(当代)の方も同様の処置がされているのだが、あっちは二年ほど早くカプセルを出ていて、自前の毛髪は肩のあたりまで伸びていた。部屋を出る時の後姿では腰の丈ほどの長さだったが、あれは
「はー……」
はっきりと行き先を定めないまま漠然とシャワー室のある区画へ歩くうち、僕は何度目かのため息をついていた。蘇生して以来特にそうだが、およそいつも薫子先輩の後姿を追いかけてばかりいる気がする。さっきのVR映像のなかでそうだったようにだ。
薫子先輩は僕のために――ほとんど僕だけのためにクローンと脳ストレージの研究を進め、倫理面の問題もあって対外的に発表すらしていないという。
で、三代目のころに起きた戦争と、その後に続いた環境変動のために、世界は滅びないまでもガタガタになった。先輩にはもう、ラボの運営と保守を極限まで省力化して切り詰め、外界との接触を断って誰の助力もなく、細々と研究をつづけるしかなかったのだ。
それで、こんなに時間がかかったのだと教えられた。だが僕という人間に、存在にいったいそれだけの値打ちがあったのかどうか?
薫子先輩にとって、僕は伴侶とか未来の夫とか、恋人とかそういったあれこれを集約、統合した
だが、今の僕から見た薫子先輩は、決して追いつけない背中をこちらに向けながら黙々と歩き続ける、母親か何かであるかのような気がしてくるのだ。だって、僕は今この存在のすべてを彼女に負うているではないか――
そして彼女は僕のミイラ師。不死の魔法を組み上げた、おそらく現在の世界で最高の
そんな陰鬱なような気負ったような思いを弄んでいると、不意にインカムが小刻みに振動した。先輩からの通話だ。
何だろう?
「もしもし?」
〈高井戸君。すまないが警備センターまで至急来てくれないか。対処すべき事態が発生している――これまでの似たケースでは私が専断してきたのだが、今回は君の意見を聞きたい〉
「すぐ行きます――でも、いったい何が?」
「北西ゾーンの監視塔――ほとんど残骸に近いような建造物、というよりコンクリートの塊だが、監視カメラが設置してある。まだ辛うじて機能し続けている。それが、接近する人間型生物の小集団をとらえた」
なんとまあ。
日本の人口はいま、ほんの数万人程度に減少していると推測されている。文明の大部分を失って蛮族化している可能性が高く、接触にはほとんど、こちらにとっての利点がないはずだが――
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