第5話 木乃伊の恋
僕はあの時死んだに違いなかった。
では、今ここにいる僕はいったい? 疑問符が頭の中に渦巻く。
目の前にいる薫子先輩の様子にも、微妙な違和感があった。僕が知っているよりも少し、目鼻立ちが幼く見える。肌の色も以前よりずっと白いし、なじみのない造りをした服の上に、白衣をはおっている。
服――ああ、そういえば重要なことがある。先輩の前だというのになんてこった、僕は全裸じゃないか。
局部を隠したかったが、両腕は体重を支えるためにカプセルにしがみついたまま。膝は今にも崩れそうだ。なぜこうも体が自由にならないのか。
おまけに死ぬ寸前の記憶をプレイバックしたせいか、薫子先輩に対する欲求を意識したせいか、隠すべき部分が大変な状態になっていた。
ほら、先輩が眉をひそめてる。顔も真っ赤だ――
「せ、先輩」
「ああ、その、落ち着け。気持ちはわかる……私だって同じだ。だが、今はまだまずい。今の君には無理だ」
なんだかすごい誤解というか、微妙に余計な気を回されてるような。
彼女はつかつかと歩いてくると、僕を後ろから横抱きに抱え、しゃがんだ膝の上に仰向けに横たえた。美術の教科書で見たミケランジェロの「ピエタ」とほぼ同じ構図だ。
「あっ……」
「君は――君の体は――もうおおよそ察しがついているだろうが、クローン技術によって再生されたものなんだ。そして、君の記憶は君の死後に摘出、保存された脳からサルベージして、白紙状態のクローンの脳に転写したものだ。長期にわたる研究の成果で、現に君はこうして私を認識し、当時の人間関係を反映して私に反応しているわけだが」
なるほど、クローン。荒唐無稽に聞こえるが、現状の説明としては一番つじつまが合う。あんな目にあったにもかかわらず、体に負傷の形跡すらない事とも。
「……さっき『三十二人』って言いましたよね? つまり――」
「ア――ハン!」
なにやら咳払いでさえぎられた。
「君の体も脳も、まだ培養が終わったばかりの出来たてだ。ことに君の脳にはまだ、全身を適切に動かすに足るだけの
クローン人間が培養設備を出たとたんにオリジナルと同様の身体能力を発揮して活躍する、なんてのはそれこそフィクションの嘘、大嘘だよ。
君はこれから数か月かけて歩行をマスターし、筋力を鍛え、HBの鉛筆でひらがなや漢字を書写し、ピアノやギターを演奏し、マイム・マイムを踊れるところまでリハビリを行わねばならん。私と性行為に及ぶのはその後だ、いいな?」
わあ。なんて盛りだくさん。でも最後のやつにもちゃんと及べるんですね!?
「それにだ。現在の君の脳は様々な刺激に対しても経験が少なく、器質的にいって非常に敏感だ。無理に今が今そういうことをして脳に負担をかけると、また死んでしまうかもしれん……そんなことは考えたくもない」
薫子先輩は僕の耳に口を近づけてささやいた。
「だが安心してくれ。君はもう、あの時のように簡単に死ぬようなことはない――死なせはしない。私が守る。死ぬ前に子孫を残そうとする本能に駆り立てられるのだとしても、その危機はもうとっくに去っているのだ。だから今は、安心してもう一度眠るんだ」
彼女の腕が僕の頭を抱え込み、赤子にするように胸元へ包み込んだ。温かさと安心感、そしてドキドキが少々。
――嗚呼、星霜重ねること
何か漢詩のようなことを先輩が口ずさんでいる。聞き取れた部分の文言が気になって、僕はもう一度目と口を開いた。
「……先輩。今は一体何年なんです?」
「うん……西暦をまだ使うのなら、二三〇二年」
「そんなに?!」
僕らが高校に在籍したのは二〇六二年だ。驚いた、本当に二百四十年たっているのか。
「……君を取り戻すには、主に二つの医療技術の完成が必要だった。完全な体細胞クローン技術ともう一つ、脳から記憶をサルベージして保存し、白紙の脳に書きこむ、双方向性の脳情報ストレージ技術だ。
どちらも二十一世紀中盤にはその実現可能性が見えていた程度だったが――あの時私には他に選択肢がなかった。どこぞの宇宙人のように君の脳を生きたまま取り出して保存することさえできなかった。
日本の法律がそれを阻んだし、警察の初動捜査と現場の交通状況が、君の肉体を保全するための貴重な時間を食いつぶしてくれた」
ああ、まあそりゃあ、なあ。警察だってまさか、テロの犠牲者にこんなどんでん返しの結末が訪れるとは思わないだろ――心の中でうなずきつつ、薫子先輩に先を促した。
「――それで?」
「私がようやく事情聴取から解放され、うちの両親からも外出の許可を取りつけたとき、君はあわや火葬に付される直前だった。私は斎場に駆け込み、君のご両親を泣いて説き伏せたよ――必ず、どんなことがあっても蘇生させる。そのためにこれからの人生を全て捧げる。息子さんを婿養子に出したと思って遺体を私と、解柔院の家に委ねてください、と」
「はは……で、委ねたんですね、うちの親は?」
「うむ。で、結局お二人の老後も引き受けたよ。介助まではできなかったが、まずまずの施設で余生を送っていただいた。晩年には私のことを本当の娘のように思ってくださっていたようだが、まあそれは余談としよう。
君の死んだ脳と肉体は、当時可能な限りの手段を尽くして保存された。私は医大に進んで、必要な分野の研究に打ち込んだ。大脳生理学と、多能性細胞の研究だ。どうにか四十代の終わりになって、計画の第一歩を踏み出すに至った」
「計画……その成果なんですね、僕がここにいるのは」
「そうだ。まず、私は自分の体細胞からクローンを作った。生育速度を速めつつ在胎期間は環境次第で延長できるように遺伝子をすこしいじって、ね。
それで、私のその時点での記憶をコピーして、クローンに転写した。実験は成功し――私は、事実上の不死を手に入れた。
あとは何年かかろうと、何世代を費やそうと、この私設
だが、いろいろと邪魔が入ったり、外界の状況が芳しくなくなったりしてな。施設の防備や保守管理、物資の備蓄やここの所在そのものの隠蔽まで必要になった。挙句には同じ一族から、私のもつ相続権をかすめ取ろうとたくらむようなバカ者まで現れる始末だ――」
話すうちにだんだん、彼女の眉根に険しい縦皺が現れた。もうちょっと放置すると般若の面のようになりそうだ。話題を少しそらしてあげた方がいいかもしれない。
「話を聞いてると、なんだかエジプトのミイラになった気分ですよ。つまり僕は、人類史上初めて実際に復活したファラオなんだ」
「なるほど。ファラオのミイラは脳や内臓を摘出して別々の容器に入れ、ミイラ本体と別に保管したというしな……すると私は、人類史上もっとも偉大なミイラ師というわけだ」
僕らは顔を見合わせて笑った。体は相変わらず無力でどうしようもなかったし、置かれた状況はあいもかわらず想像を絶していたが、とにかく、その瞬間僕らは二百四十年ぶりに初めて笑いあえていたのだった。
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