第2話 ふたりのイェスタデイ

 僕、高井戸和真たかいど・かずま解柔院薫子げにゅういん・かおるこ先輩と初めて出会ったのは、高校の入学式から数日たった、晴れた日のことだった。

 故郷の地方都市からいささか背伸びをして出てきた僕は、東京の物価とか微妙に通じない言葉とか、いくつか些細な悩みを抱えていて、それを整理する必要があった。  

 我が誠心学院高校には、築二十年に及ぶいい感じの図書館がある。購買部の総菜パンを買って腹に詰めこんだ後、残り四十分ほどの昼休みを心静かに過ごす場所を探して、赤レンガ風に仕立てられた壁の、その建物に入り込んだ。

 

 春の日差しを浴びた芝が鮮やかな緑色に輝く、小さな中庭がガラス戸の向こうにあった。そこに、芝生に腰を下ろして一心に何かを読みふける、髪の長い女子生徒がいた。

 その人を見た瞬間、数日間抱えていた悩みや不慣れな生活からくるストレスがどこかへ消え失せた。

 

(何だ、この美人さんは……!)


 髪だけにとどまらず、やたらと毛髪の豊かな人だった。眉は描いたよりも黒々と、見事な曲線を描き、まぶたからはまつげエクステの力を借りるまでもなく、バッキバキのまつげが櫛の歯のように並んで延びていた。それはやや薄い色をした瞳の上に、夢見るような繊細な影を落としていた。


 一目ぼれというものが実在するのだと、僕はその時遅ればせながら知った。


 女子の平均をはるかに超える長身、ゆったりと自信ありげな肩幅。引き締まった腰からスラリと延びた二本の脚――普通の男子ならむしろ敬遠しそうなその華やかな容姿に、僕はまずもって完璧にノックアウトされていた。


 襟章の色を見る限り、その人は上級生であるらしかった。だが、奇妙なことに胸ポケットのあたりにピンかクリップで留めているはずの名札がない。厳密に言えば校則違反だったが、指摘するような気にはなれなかった。 

 彼女にはなにやら侵しがたい、女王のような気品と独特の雰囲気があったからだ。僕はその美貌をせめてまぶたに焼き付け、いたずらを見つかった子供のように図書館を離れた。 

 

 

 ――二年か三年だと思うけど、背が高くて髪の毛の多い綺麗な人いますよね。誰か知ってる人いません?

 

 入部したばかりの部活や、押し付けられた委員の活動ついでに、だれかれ構わず情報を求めて尋ね廻る。多分、数日を待たずに本人の耳にも僕のうわさが伝わったに違いない。


 彼女の名はすぐに知れた。当然のごとく、校内で知らないもののない存在だった。

 解柔院薫子げにゅういん・かおるこ――生物部所属の、本校始まって以来とうたわれる才女だ。旧華族にして資産家、解柔院家の長女であるという。


 高嶺の花という概念が受肉したような彼女の情報諸元を知っても、今さら熱は冷めはしなかった。関係あるか、そんなもの。僕はあの人に惹かれているのだ!


 入ったばかりの美術部を辞して生物部に乗り換えた。いやまあ、べつに掛け持ちもできなくはないのだが、そんな選択肢は頭にも浮かばなかった。

 放課後の理科棟で顔を合わせると、彼女は不思議そうな顔で僕の方を見つめ、やがて何かに納得したようにうなずいて、クスリと頬を緩めて笑った。その顔がまた、何とも言えず美しかった。


高井戸和真たかいど・かずまくん――だったかな。私のことをあちこちで訊いて回っていたそうだね」


 彼女が初めて、直接話しかけてくれた時の感激といったら。大柄な体に似合ってややハスキーな深いアルトが耳をくすぐった。ああ、この人はこんな声でこんな風にしゃべるのだ。あまり女の子らしくない、堅苦しいというか軍人か何かのような口調だが、不思議と彼女に合っている気がした。

  

「は、はい。その……あんまり綺麗な人だったので、知らないままでいるのが我慢できなくて」


「ずいぶん率直なのだな。君のような人は初めてだよ。普通はみんな、私の姓を知っただけで口をつぐんで距離を取り出すのだ。たまりかねて名札を着けないようにしてみたが、あまり効果はなかった」


「ああ、それで……」


「君は違うらしいな。まあ、同じ部活ということでよろしく頼む」


「は、はい」 

 

 それからというもの、僕は状況が許す限り、忠犬のように彼女の行く先々に付き従った。実験器具を取ってくれと言われれば真っ先に手を上げて棚まで走ったし、昼休みは彼女を待ってチャイムが鳴るまで図書館の中庭ですごした。図書館詣ではやや気まぐれに左右されるらしく、報われない日もあったが。


 ある日、幸運にも顔を合わせることができた芝生の上で、彼女はとうとう僕にこう切り出してきた。


「ふうむ。君はその、随分と熱心に、隠すそぶりもなく私に接近してくるのだね。こんな人には初めて会ったよ。皆私のことを詳しく知ると、遠慮したように距離を取り始めるのだが……君は違うようだ」


いや、あたりまえじゃないですかそんなの。僕はあの中庭以来、あなたのことが――


「そりゃあね。バレバレだと思いますけど、僕は……解柔院先輩のことが好きなんですよ。初めて見かけた時から、どうしようもなく惹きつけられて目が離せない。もっと先輩のことを知りたい……許される限り隣を歩いていたい」


「……それは困ったな」


 薫子先輩はため息をついた。


「あ、やっぱりその、ご、ご、ご迷惑でしたか?」


「いや。そうではないよ。こちらから告白しようと思って、この一週間ずっと考えていた交際申し込みのメッセージが、ようやく完成したところだったのだ。だがどうやら無駄になってしまったか」


「え、それじゃ……」


「私も君のことを好ましく思う。君とともに過ごせる時間を愛おしく感じている。私のことを好きだと言ってくれるのなら、とても嬉しい」


「……やったああああ!!」


 かくして。それまでよりも打ち解けて若干の会話を交わした結果、僕は薫子先輩と付き合うことになった。

 周囲はしきりに不釣り合いだなどと言い立てて僕を思いとどまらせようとしたが、僕は耳を貸さなかった。そもそも、不釣り合いであることは僕だって知っている。


 若いうちはとにかく勘違いをする。出会った誰かが「特別な」存在であったからといって、その相手が運命の伴侶であるという保証はないのだ。ましてや高校の三年間などあっという間。そこで芽生える恋など、幻の様に終わる仮初めの関係であることがほとんどだろう。

 だが、それでも――少なくとも彼女が卒業するまでの一年と数か月、僕たちは僕たちの歴史を作ることができる。


 そのはずだった。

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