第8話「凛奈の忘れ人(前編)」



 ヨハネスは城の書庫で古文書を読み解いていた。テーブルに座り、左手に握り締めたメモと、古文書に記されている内容を読み比べる。隣には相棒のロイドが、今にも眠りこけそうな程あくびをしていた。


「よくそんなに集中力が続くなぁ…」

「そうか!わかったぞ!」


 突然ヨハネスは立ち上がった。


「な…何が?」

「女王様の能力についてだよ!」


 代々クラナドス家に受け継がれてきた記憶消去の能力。その存在は“理の書”にも記されている。ヨハネスはクラナドス家の記憶消去の能力の存在を知り、興味が湧いて自身で理の書を読み解いて調べた。独学で古代フォーディルナイト文字を学び、理の書でまだ意味がわかっていないページの解読を試みたのだ。


「能力の何がわかったんだよ」

「記憶消去の能力を使うと、王家の人間を除いた全国民の記憶を抹消できる。これはもうお前も知ってるよな?」

「あぁ…」

「だがここの項目によると、その能力には続きがあるんだ」


 ヨハネスは理の書と同じ内容が記された古文書のとあるページをロイドに示す。ロイドは古代フォーディルナイト文字は読めないため、何が何だかさっぱりわからない。


「続き?」

「ただ記憶を消すだけじゃないってことだよ」

「…と言うと?」

「ズバリ、記憶消去の能力は使う度に進化する」


 ガサゴソ…

 書庫の扉の周辺で物音がしたが、二人はそれに気がつかなかった。


「たとえば、ここでは『個人単位で記憶を抹消することができる』と書いてある。つまり全国民じゃなくて、人物を指名して一人だけの記憶を消すことが可能になるってことだよ」

「おぉ!」

「さらにこの下、『記憶の選別ができる』と書いてある。全ての記憶だけじゃなくて、記憶の種類を選んで消すことができるらしいんだ」

「マジかよ!女王様そんなことできんの!?」


 ロイドは古文書をまじまじと見つめる。ミミズがうねる様を描いたような変哲な文字にしか見えないが、記憶消去の更なる進化について述べられた大変貴重な秘密が記されていたのだ。


「いや、今の女王様にこれができるかどうかはまだわからない。まだ解読できてない部分があるからな。そこが解読できればわかると思うが」


 思いがけない発見に二人は興奮する。ヨハネスは古文書を閉じ、元々置いてあった棚に静かに戻した。秘密を明るみに出さないように。


「いいか?これはとんでもない発見だ。極力外部には漏らすなよ。俺達二人と、アルバート様とカローナ様だけの秘密だ」

「あぁ。…って、女王本人には言わねぇのか?」

「本人が知れば悪用しかねないからな」

「あぁ…あのお転婆女王なら特になぁ…」


 まだアンジェラは自身の能力を使いこなせていないとヨハネスは判断し、本人にはこの秘密は隠しておくことにした。そもそも今のアンジェラにこの更なる進化を遂げた能力が使えるのかが不明だ。使えば使う程進化することは判明しているが、むやみやたらに能力を使えば大混乱を招く。


「絶対に言うなよ」

「わかってるって」


 書類を全て片付け、二人は書庫を出る。しかし…




「いいこと知っちゃった!私ってそんなことできるのね!」


 アンジェラは長い廊下を走る。先程書庫の扉周辺で鳴った物音はアンジェラであり、彼女はヨハネスとロイドの会話を密かに聞いていた。自分の能力は進化しており、個人単位での記憶消去、消去する記憶の選別ができる。そう思い込んでいた。そして実際に試してみたくなるのがアンジェラだ。


「これで私ももっと役に立てる!」


 アンジェラは彼女の元へ向かった。




「…」


 ヨハネスは立ち止まり、後ろを振り向いて再び書庫を見つめた。まだ自分しか知らない“あの秘密”も話すべきか迷っていた。


「どうした?早く報告しに行こうぜ」

「あぁ…」






「すごい、綺麗に育ってる!」


 凛奈、陽真、哀香、蓮太郎、花音の五人は街のとある果樹園に来ていた。大きく赤いリンゴが滴のように枝からぶら下がっている。イヌネコ団の仕事の一環で、果樹園の収穫の手伝いに来ているのだ。


「今日も来てもらってすみませんねぇ」

「いえいえ。向こうの世界じゃろくに外出できないし、だからと言って家でボーッとするのも退屈なんで」

「コロナウイルス流行ってるもんね…」

「え?コロナ…何ですか?」

「何でもないです」


 コロナウイルスの蔓延により、凛奈達の通う七海町立葉野高校も4月まで休校になった。しばらく自宅待機となっているが、凛奈達は家でじっとしている時間が無駄に感じられ、何もしないのならいっそのことアンジェラの仕事を手伝いに行こうと思い立ち、今回こうしてフォーディルナイトに集まった。


 プチッ


「ん~、いい色♪」


 リンゴを一つ摘み取り、吟味する花音。新鮮な果実が育つこの土地は実に土の水捌けが豊かなようだ。


「んん…届かない…」


 凛奈は背伸びをし、高い枝からぶら下がるリンゴへ手を伸ばす。収穫用のハシゴは全て誰かが使用しており、予備が無かった。凛奈はメンバーの中で随一身長が低い。


 プチッ


「ほらよ」


 陽真が後ろから手を伸ばし、凛奈が採ろうとしていたリンゴを摘み取る。


「陽真君…」

「あとこれ、ハシゴだ。他の従業員から借りてきた。お前これ無いと無理だろ」

「ありがとう…///」


 リンゴに匹敵する程に凛奈の顔が赤く染まる。所構わずイチャつく二人に哀香達はため息をつく。


「リンナじゃなくてリンゴを収穫しなさいよ」




 時刻は午後3時。ある程度の収穫が終わり、凛奈達は果樹園の持ち主の家に招待され、そこでお茶菓子を振る舞ってもらった。アップルティーにアップルパイ、リンゴの蜂蜜漬、リンゴずくしだ。家に備え付けられた広い庭園にテーブルを設置し、ティータイムが始まった。


「美味しい~♪」


 溢れそうな頬に手を当ててお菓子を堪能する凛奈。陽真はその横顔を微笑ましそうに見つめる。


「そういえば、昔一緒にリンゴ摘みに行ったことあったよね」

「あぁ~、懐かしいな」


 凛奈と共に様々な経験をし、数々の思い出が甦る陽真。一時はアンジェラの能力で忘れてしまったものの、凛奈の懸命な努力の末に記憶を取り戻した。今はのほほんとした顔でアップルパイを頬張ってはいるが、彼女は本当に心の強い人間だ。その人が自分の彼女で、自分のことを深く愛してくれている


“俺、こんな幸せでいいのか?”


 今の幸せが少し贅沢に感じられる陽真。記憶を取り戻せただけでなく、凛奈と恋人同士の関係になり、毎日こうして一緒にいられる。そんな当たり前のことが、まるでこれから起こる不幸の前触れのように感じられる。


「ん? どうした凛奈」


 陽真はキョロキョロと辺りを見渡している凛奈に気がつく


「うーん…なんか誰かに見られてるような気がしたんだけど…」

「見られてる?」

「気のせいかな。ごめんね」


 凛奈は再度お菓子に手をつける。


 ガサガサッ

 庭園の生け垣が揺れる音がしたが、それに気づく者は誰もいなかった。




「君達、迎えに来たよ」


 アルバートとカローナが果樹園の持ち主の家にやって来た。入り口には馬車が止めてある。今日の仕事はどうやらここまでのようだ。


「家には連絡入れたかい?」

「はい、今日は友達の家に泊まると」

「便利だねぇ~。そのスマフォというものは」


 フォーディルナイトにはもちろんスマフォなどの精密機械は存在しない。連絡は紙媒体で行うのが主流だ。四角く平たい箱で電話したり、メッセージを送り合う凛奈達を、アルバートとカローナは不思議そうに見つめる。ちなみに、凛奈達は今日は城に泊めてもらう予定だ。


「それじゃあ馬車に乗って」

「はい、ありがとうございます」


 果樹園の従業員にお礼を言って、凛奈達は馬車に乗って城へと戻っていった。城に戻ると、一向は夕食の時間まで城内の清掃を手伝い、夕食と入浴を済ませ、それぞれ指定の部屋へと入っていった。




   * * * * * * *




「ふぅ…疲れた…」

「果樹園とかって結構ハードなんだな…」


 俺は凛奈の個室を訪れ、寝る前にいつものお喋りをした。昔からそうだ。俺が凛奈の家に泊まる時、就寝の前に二人は他愛もない会話を続ける。逆の場合も然りだ。幼い頃は話の話題が尽きなかったものだ。少しでも凛奈を楽しませてやろうと、俺はペラペラ口を動かしてたな。今は凛奈の方から話すことが多くなったが。


「でも、フォーディルナイトもだいぶ豊かになってきたよね」

「アンジェラの奴、頑張ってんだろうな」


 今日は見かけなかったが、アンジェラも直接隣国の貧しい地域を訪れ、食料配給や農耕作業の手伝いをしている。俺達もたまに手伝ったことがある。まだ小さいのに女王としての職務を着実に遂行している。大したもんだ。


「いろんな人達と関われたよね」

「あぁ。その人達のおかげで、俺達もより絆が深まった」


 思い返せば、記憶喪失に遭って凛奈とすれ違い、すったもんだあって再び記憶が戻り、ギャングと命懸けの激闘を繰り広げて一つの国を救う。こんな経験滅多に味わえるものじゃない。それでもあの出来事があったからこそ、こうして今凛奈の隣にいられる。


「本当にありがとうね、陽真君。大好きだよ」

「俺もだ…凛奈」

「…///」

「…///」


 会話が続かなくなった。とても気まずい空気が流れる。横目でお互いの様子を確認する。凛奈の奴、また何か頬が赤くなってないか…?


 スッ…


「へ?」


 凛奈が妙に距離を詰めてくる。俺達はベッドに腰掛け、隣同士で座っているのだが、頬を赤く染めた凛奈が少しずつ俺に詰め寄ってくる。


 ギュッ…


「お、おい…///」


 凛奈が俺の左手に自らの手を添え、そのまま優しく握る。肩までくっ付けてきて、ほぼ俺にもたれ掛かった体勢になる。何だ何だ?今日の凛奈はやけに積極的だ。普段はこんなスキンシップなんて取らないぞ。


「何だよ…///」

「しばらくこうしてて…///」


 まるで酒に酔ったように赤く頬を染め、横目で俺を見上げてくる。俺の方が身長が高いために凛奈が見上げるような視線になる。その上目遣いやめろ!可愛いから!


 そういえば、今夜の凛奈はピンクの短パンのパジャマを着ている。前に凛奈の家に泊まった時に着ていたものだ。アンジェラから支給されるロングスカートのネグリジェではない。短パンからそそりでる白くて清潔な足の肌がまぶしい。ここで膝枕でもしてもらったらどんなに気持ちいいことか…。


「…///」


 耐えろ…耐えるんだ!その足に触れたいなんて思うな!この小さい体を抱き締めたいなんて思うな!そして…今すぐ押し倒したいなんて思うな!今ここで凛奈を襲って…セ、セッ…なんてしていいものか。俺はギャングじゃねぇんだぞ。凛奈にそんなことしたら、どんなに軽蔑されることか。静まれ…俺の理性!


「…いくじなし」

「え?」


 凛奈、今なんて言った?




 ガチャッ


「凛奈~!」


 ノックも無しに、突然アンジェラがドアを開けて入ってきた。凛奈はすぐさま俺から離れ、何事もなかったかのようにアンジェラに対応する。アンジェラが来なかったら襲うチャンスだったんだがな。


 …いやいやいや!襲うなよ、俺。


「アンジェラ…どうしたの?」

「実はね…って、なんでアーs…陽真がいるの?」

「あぁ、ちょっとな」


 まだ陽真呼びに慣れてねぇのかよ。そんなに難しいか?


「俺、そろそろ寝るわ。また明日な」

「うん。陽真君、おやすみ…」


 “おやすみ”の言葉がいつもより寂しげに聞こえた。アイツが何を求めていたのかは俺にはわからなかった。ただ、あんなに自分の体を近づけて、まるで俺を誘っているようにも見えた。凛奈の奴…まさか…いや、まさかな。


「凛奈!実はね…」


 アンジェラは俺が部屋を出ていくと、気にせずに凛奈と話を続けた。異性である俺よりも、同性であるアンジェラの方がきっと話も弾むだろう。これもアイツのためだ。邪魔者の俺はさっさと自分の部屋へと戻っていった。


「凛奈…」


 俺は妙な胸騒ぎがした。






 翌朝、俺は目覚めると一番に私服に着替えた。ある程度元の世界に帰る支度を済ませ、ふと凛奈の様子が気になって部屋を出た。そろそろ起こしに行ってやるか。


「よう、アーサー」

「おっ、ロイド…ヨハネス…」


 部屋を出ると、騎士の正装で廊下を巡回しているロイドとヨハネスに出会った。朝からご苦労なことだ。ヨハネスなんか、最近は古代フォーディルナイト文字を勉強し、理の書の解読を試みてると聞いた。騎士の中でも特に優秀な二人だ。


「これから女王様を起こしに行くんだ。いつも寝坊してるからな」

「大変だな、お前ら」


 二人はアンジェラの部屋に向かう。俺は凛奈の部屋だ。アイツもたまに10時近くまで寝ることあるからな。おそらく今行けば可愛い寝顔が見られ………っておい!何考えてんだ俺は!


 キー

 凛奈の部屋のドアをゆっくり開ける。凛奈はまだ寝ているようだ。そっとベッドに近づくと、ベッドにもたれてアンジェラが寝ていることに気づいた。こいつ、自分の部屋に戻らなかったのかよ。


 凛奈はすぅすぅと小さな寝息を立てている。メガネを外すとさらに可愛さが増し、つい視線が釘付けになってしまう。ほんとこの寝顔反則だろ…どこまで理性を揺さぶらせたら気が済むんだ…。


「んんん…」


 凛奈はゆっくりと目を開き、俺をじっと見つめる。どうやら目覚めたばかりで寝ぼけているらしい。


 バッ

 目を擦りながら起き上がる凛奈。俺は枕元に置いてある凛奈のメガネを手に取って渡す。


「おはよう、よく眠れたか?」

「は…はい、おはようございます…」


 少しおどおどしながら凛奈はメガネをかけた。初めて俺の家に泊まった時の朝のように、慣れない友人宅での目覚めに戸惑った幼い頃の凛奈を思い出す。どうした、そんなに慌てて。ていうか、なんで敬語なんだ?


「早めに荷物片付けた方がいいぞ。10時にはもう向こうに戻るからな」


 10時にはホーリーウッドの森に荷物をまとめて集まらなければならない。時間になったら万里が向こうで祈りを捧げて霧を発生させてくれる約束になっている。


「え?向こうって…何のことですか?」

「何って…現実世界だよ。ここは異世界なわけだから、俺達の住んでる元の世界に戻らなきゃならねぇだろ」

「あぁ、そういえば昨夜この子がそう言ってたような…」

「凛奈?」


 さっきから凛奈の様子がおかしい。まるで自分が現実世界の人間であることを忘れてしまったようだ。いつものようにタメ口で話さないことも引っ掛かる。まだ寝ぼけてんのか?


「あ、あの…ちょっと聞いてもいいですか?」

「何だ?」


 凛奈はゆっくりと口を開いた。











「あなたは誰ですか?」




「…え?」


 俺は耳を疑った。「あなたは誰ですか?」、その言葉が今、凛奈の口から放たれた。凛奈が俺に、あなたは誰だと聞いた。ちょっと待て、どういうことだ…?俺の心臓が苦しそうに鳴る。


 あぁそうか、冗談だな。凛奈はきっと冗談を言ってからかってるんだ。昔はよく俺の方から冗談を言って凛奈を驚かしてたが、凛奈の方からも心を許して冗談を言えるようになったんだ。いやぁ、本当に可愛い奴だな…。


「おいおい、どうした凛奈。お前が冗談を言うなんて珍しいな。俺もびっくりして何て返したらいいかわかんねぇよ…」

「え、えっと…」

「もしかして怒ってるのか?昨日はなんかごめんな。お前が何がしたいのかさっぱりわからなくてよ。今なんとなくわかった気がするよ。でも、お前とそういうのは…」

「あの!!!」


 凛奈は大声で俺の話を遮る。


「冗談じゃないです。本当に何も覚えていないんです。あなたは誰なんですか?」

「…は?」


 俺は改めて凛奈の顔を見る。凛奈の顔は真剣だ。顔で「何もふざけたことは言っていない」と訴えている。俺の笑顔は少しずつ崩れ去る。ちょっと待てよ。覚えていないってどういうことだよ。冗談じゃねえのかよ。


「陽真!?」


 凛奈の大声で隣で寝ていたアンジェラが起きた。俺が隣にいるのを気づいて驚く。記憶喪失のことはアンジェラが知っているはずだ。直感的にそう思った。


「アンジェラ、どういうことだ!なんで凛奈が記憶喪失になってるんだ!」


 俺はアンジェラに問い詰める。記憶喪失になっているということは、アンジェラが能力を使ったということになる。しかし、こいつの能力は国民全員の記憶を奪うことだ。なんで俺や他の騎士には何も起きてないんだ?なんで凛奈だけが記憶を失くしてるんだ?


 ガチャッ


「女王様はここか!」

「女王様、それにアーサーも、なんでここに?」


 騒ぎを聞きつけ、ロイドとヨハネスが凛奈の部屋にやって来た。後ろには哀香、蓮太郎、花音もいた。


「昨日の夜…」


 アンジェラは語った。凛奈が何もかも忘れてしまった経緯を。




   * * * * * * *




「凛奈!実はね、お願いがあって来たの!」

「お願い?」

「うん、ちょっと実験台になってもらえないかしら?」

「実験台!?」


 アンジェラは自分の能力の可能性について話した。先程書庫で自分の能力にはもう一段階先があり、個人単位で記憶を消去したり、消去する記憶を選別できることを知った。その能力を試しに使ってみたいがために、凛奈を通して実験をするという。


「何か忘れたい記憶とかある?」

「うーん、そういえば最近…」


 凛奈は先日の後期期末考査の記憶を話した。その日はコロナウイルスの影響で4月までの休校が言い渡され、予定していた一週間先の後期期末考査を突如明後日行うと学校は発表した。生徒は大混乱に陥り、テスト勉強を怠っていた凛奈はひどく絶望した。そこで成績優秀である陽真にすがり付き、一緒に勉強会を開いた。凛奈の苦手科目である数学を中心に、陽真は熱心に彼女の頭に知識を叩き込んだ。


「それで自信満々にテストに臨んだんだけど…」


 しかし、結果は28点と散々だった。本来なら30点未満は赤点で追試対象となるが、休校が決まっていたために追試は行われなかった。勉強を教えてもらった恩もあるのに、期待通りの結果が出せなかった凛奈は泣いた。陽真は気にするなと言っていたが、罪悪感が一層募り、悪夢のような思い出となってしまった。




「とまぁ、せっかく陽真君に勉強教えてもらったのに全然いい点取れなくて、陽真君の優しさを台無しにしちゃったのが申し訳なくて…。忘れたい記憶って言ったらそれくらいかな?」

「OK!任せて!」


 カァァァァァ

 アンジェラは目を閉じ、両手を組んで祈りを捧げる。そして、凛奈の記憶を消去することだけを考える。アンジェラの長く黄色い髪が逆立ち、体が青白く輝く。


「ほんとに大丈夫?」

「大丈夫!凛奈の記憶だけ…凛奈の記憶だけ…」


 失敗すれば、今フォーディルナイトに来ている陽真や哀香達、城にいる騎士や元ギャング達まで記憶を失くし、再び国の再生を繰り返さねばならない。それを阻止するために、アンジェラは気を集中させる。


「はっ!」






 アンジェラを包む光が消え、逆立った髪がすべて下りた。ゆっくり目を開き、凛奈の様子を確認する。凛奈は魂が抜けたように、ぼーッとベッドに座ったままでいる。


「凛奈?」


 コンコン

 突然ドアのノックが聞こえ、廊下から男二人組の眠気を抱えた声が響いた。


「女王様、まだご友人の部屋にいるのですか?」

「早く寝ないとお肌に悪いっすよ~」


 ヨハネスとロイドだった。いつもの二人からの早寝の催促だ。わざわざ友人の部屋にまで来て呼び掛けて来るとは。


「わかってるわよ~」


 アンジェラの返事を聞くと、二人の足音は廊下の奥へと離れていった。二人が自分を女王として認識していたということは、二人からは記憶は失くなっていない。他の人もおそらく同じだろう。無事凛奈だけの記憶を消去することに成功したようだ。しかも失くしたい記憶を選別して。


「やったわね!凛奈、成功よ♪」

「え?えぇ…?」


 アンジェラは凛奈の手を握って微笑みかける。フォーディルナイト史上初、全国民ではなく、個人単位での記憶の消去に成功した。その喜びを共に味わうべく、アンジェラは凛奈に抱きついた。過去の苦い記憶を失った凛奈は当然さっぱり状況が飲み込めず、困惑する。しかし、それが成功した証でもある。


「あ、あの!」


 凛奈がアンジェラを突き放した。かなり強く離されたので、アンジェラの方も困惑する。


「いきなり何ですか…ここは一体…あなたは誰ですか?」

「凛奈?」


 凛奈は目の前にいるドレス姿の少女が誰なのかがわからない様子だった。明らかに消えている記憶が、先日のテストのことだけではない。


「あれ?私…誰だっけ…?」

「嘘…凛奈…」


 アンジェラは何度も国民が同じ反応をする様子を見てきたため、今凛奈の中で何が起きているのかを瞬時に察した。先日のテストの記憶だけでなく、凛奈からすべての記憶を奪ってしまった。生まれた場所も、暮らした世界も、共に生きた仲間も、自分が誰であるかさえも。


「なんで…どうして…」


 確かに個人単位での記憶消去には成功した。しかし、凛奈からは彼女のすべての記憶が綺麗さっぱり忘れ去られている。記憶を選別して消去できると聞いたあの話は何だったのか。


「あの…大丈夫ですか…?」


 凛奈が心配そうにアンジェラを見つめる。とんでもないことをしてしまった。自分には記憶を選別して消去する力が備わっていると過信し、凛奈から何もかも奪ってしまった。今の彼女はただの脱け殻だ。


「ごめんなさい…ごめんなさい…」


 ベッドに伏せて泣き崩れるアンジェラ。何も知らない凛奈はアンジェラの小さな背中をさする。アンジェラは落ち着いた後、凛奈が別の世界から来た人間であること、彼女の友人、自分達のこと、異世界についてもすべて話した。今まで記憶を失った者は何を言っても信じ込んだ。凛奈も同じだった。


 事情を説明し終えた後、凛奈を落ち着かせるために、アンジェラはそばについて寝た。陽真達には朝起きた時に話そうと決めた。さぞかし責め立てられることを覚悟し、凛奈の手を握って目を閉じた。




   * * * * * * *




「つまりお前のせいかよ」

「え?」


 ガシッ

 俺はアンジェラの胸ぐらを掴んだ。顔を近づけ、かつてのギャングに対する鋭い目線を向ける。怒り、憎しみに身を任せてアンジェラを睨み付ける。


「できもしないことをできると勘違いして、凛奈から何もかも奪ったって言うのか?」

「陽真…」

「あの時はいいさ。俺も殺されるところだったからな。俺から記憶を消してくれたって構わない。だが今は違う!自分の身勝手で、過信で、軽はずみで、凛奈を巻き込むんじゃねぇ!」


 俺は今まで聞かせたこともないようなドスのきいた声でアンジェラをしかりつける。目の前にいる無邪気な姫君が大層憎らしく、自分の大切な人から記憶を奪ったことが心底許せなくなったのだろう。我を忘れてアンジェラに怒りをぶちまけた。


「ふざけるな…凛奈に謝れ!俺の凛奈を返せ!」

「アーサー!よせ!」

「陽真!やめなさい!」


 ヨハネスと哀香が俺の肩に手を乗せる。俺はゆっくりと落ち着きを取り戻し、我に返ってアンジェラの顔を確認する。滝のように溢れ落ちた涙がぐっしょりとドレスを濡らしていた。目の前にいる騎士の形相に恐れをなしている。一国の女王の胸ぐらを掴んだと知られれば、どんな処罰が待っているだろうか。まだ相手が信頼できる俺であるだけ助かった。今の行為で信頼を失った可能性もあるが。




「ごめんなさい…本当にごめんなさい…」


 凛奈は手で顔を押さえ、溢れ出る涙を堪えながら言った。一番辛いのは彼女だ。訳もわからず周りが自分のことで争い合うところを見せられれば、その罪悪感は想像するに足りないだろう。俺ははアンジェラから手を離した。凛奈の泣き顔も見るに耐えず、何もない床の木目を見つめる。


「悪ぃ、みんな…」


 今日は誰もが謝ってばかりだ。まさか今度は凛奈の方が記憶喪失になるなんて。畜生、またやり直しかよ。俺と凛奈の関係は再び白紙に戻された。


「…」


 俺はこの世界を創ったアデスを恨んでいたガメロ達の気持ちがなんとなくわかった。そりゃ恨みたくもなるわけだ。記憶を奪われるというのは、生きる理由も見失うようなものだから。


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