19 夜の学校と水曜日の呪い
圭太は廊下の先から聞こえてきたピシャッピシャッという水っぽい足音に咄嗟に近くの教室へと身を潜める。激しく波打つ心臓の音は頭の中でドクドクと響いており、背筋に至ってはもうすぐ夏だというのに氷でも当てられているかのように冷たかった。きっとこれが本物の恐怖なのだろうと圭太は重々痛感していた。
とりあえず今取れる行動はひたすら身を隠すことだけ。相手はこちらに気づかなければ廊下をただ通り過ぎるだけだ。例の噂でも水っぽい足音が聞こえるだけでその先は何もない。追いかけられたり、取り憑かれたりなどしないはずなのだ。とはいっても所詮は噂、用心するに越したことはない。そのため圭太は両手を口にやり、お腹に力を入れグッと息を殺した。
それからどれくらいだろうか、ピシャッピシャッという足音は一向に鳴りやむことはなく、寧ろ段々と大きく、近づいて来るような錯覚さえあった。いや、これは錯覚ではなく本当に近づいて来ているのだろう。一体何が目的なのかは知らないが少なくとも相手はこちらに気づいているようだった。一瞬も気が抜けない空気の中、突如として圭太の背筋に悪寒が走る。恐る恐る自分の背中に手を伸ばすとそこには冷蔵庫で何時間も冷やしたのではないかと思うほど冷たい
「うわぁあああ!!」
思わず大声を上げるも体はまったく言うことを聞かない。まるで自分の体が自分のものではないかのような感覚に圭太の頭は軽くパニックになっていた。逃げたい、ここから早く離れたい。そう思うたびに体の震えが強くなっていく。これが悪意なのだと、圭太は今まで感じたことのないビリビリと痺れるような、痛いような感覚に襲われていた。
一体自分はこれからどうなってしまうのだろう、そんな不安が段々と体を蝕んでいく。
「アオイさん……」
辛うじて動かせる口から出た言葉は何故かアオイさんの名前だった。もしかしたら彼女が来てくれるのではないか、そんな淡い期待を持って。
「圭太君に触らないで!」
「アオイさん!?」
だから圭太は驚いた、本当に目の前にアオイさんが現れたときには。彼女が発した声のおかげか分からないが体を動かせるようになった圭太は一度目を擦って、彼女が幻ではないかを確かめる。その行為でやっと彼女が本物であると確信した圭太はほっと息を吐き、それと同時に全身の力を抜いた。というより力が抜けてしまったという方が正しいだろう。
「大丈夫? 圭太君」
いつの間にか屈んでいたアオイさんは心配そうに圭太へと呼び掛ける。圭太が『はい、なんとか大丈夫です』と返事したのを聞いた彼女はそれから暗い表情を浮かべた。
「ごめんね、私が目を離したばっかりに」
「いえ、僕が考え事をしてたのがいけなかったんです……」
『気を付けないと駄目ですよね』と圭太が反省すると、アオイさんの表情は先程よりも暗くなっていた。一体どうしたものかと圭太がこの状況に対する解決策を考えているとアオイさんが小さな声で呟いた。
「私がいけないんだよ……」
小さい声ながらもしっかりと聞き取れた圭太は再度『だからあれは僕の不注意で』と反論するが言葉の途中でアオイさんに遮られてしまった。
「違うんだよ、そういうことじゃなくて圭太君がこんな目に遭うのは私が側にいるからなんだよ」
アオイさんの凛とした声は誰もいない教室で響く。そんな彼女の声は今まで一度も聞いたことがなくて、圭太は開きかけていた口をゆっくりと閉じる。それは単純に大きな声に驚いたからというのもあるが、やはり一番理由は話の内容だった。気になった圭太は閉じた口を無理やり開き、疑問をアオイさんにぶつける。
「それってどういうことですか?」
圭太の疑問を既に予測していたらしく、あまり間が空くことなくアオイさんは疑問に対しての返事をした。
「私が圭太君に取り憑いてることは知ってるよね。それがちょっと圭太君にとっては良くないみたいで他の私みたいなのも惹き付けちゃうんだよ」
「でも、例えそうだとしてもやっぱりそれはアオイさんが悪いわけじゃっ……!?」
圭太の反論をアオイさんは再度、今度は彼の口に人差し指を当てて遮る。言葉を遮られた圭太はぐっと言いたいことを飲み込むしかなかった。
「圭太君、戻ろう? 他の人もきっと心配してるはずだよ」
圭太はまだ話が終わっていないとばかりにアオイさんをじっと見るが、彼女の方はそうではないみたいでスッと立ち上がると笑顔で圭太手を差し伸べて来る。『さぁ圭太君』と言われて手を掴まないわけにはいかず、圭太は『はい、分かりました』と彼女の手を掴んだ。このことは今ここでではなく、後日家に帰ってからゆっくり話せば良いと、そう思って。
教室の扉を開けるとそこは宿直室すぐ近くの廊下だった。アオイさんは廊下に出た後圭太の手を掴んだまま、彼を宿直室へと押し込む。あまりにも乱暴な行為に圭太が一体何事だとアオイさんの顔を見ようとするが圭太の視線の先には既にアオイさんの姿はなく、そこから少し視線を落とした辺りに彼女はぺしゃりと座り込んでいた。圭太は慌てて彼女のもとへと駆け寄る。
「大丈夫ですか? アオイさん!」
「うん、ちょっと安心したら私の方が腰抜けちゃって」
『圭太君にちょっと格好悪いところ見せちゃったかな』と笑うアオイさんは本当に腰が抜けただけらしく、大丈夫と手だけで心配する圭太を制止する。それで一先ず安心した圭太は安堵のため息を吐くと自身もアオイさんと同じようにその場で座り込んだ。
「急に座り込むから心配したじゃないですか、アオイさん」
「心配してくれるなんて本当に圭太君は優しいね」
「こんなときにからかわないで下さい」
『からかってないよ』と返すアオイさんは続けて『もう夜中の十二時だから圭太君は休みなよ』と圭太に休むよう促す。先程のことでかなり疲れていた圭太は素直にアオイさんの言葉に従って敷布団の準備を始めた。
色々と限界だった圭太は準備を終えた後すぐに横になる。
「すみません、今日はもう休ませてもらいますね。詳しい話はまたあとで」
少し申し訳なさそうな圭太に『気にしないで』と一言返すアオイさん。彼女は少しだけ寂しげな表情をすると優しく微笑んだ。
「おやすみなさい」
疲れからか、アオイさんの挨拶に答えることなく圭太はゆっくりと目を瞑る。
「……今までありがとうね、圭太君」
徐々に意識が暗闇へと沈むなか、そんな誰かの寂しげな声がどこからか聞こえた気がした。
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