耐えきれない女と、耐えきれない男

 椿と出会い、生活を共にして、三ヶ月が経とうとしていた。


 楽しい時間――好きな人といる時間はとても早く感じると言うが、まさにその通りで、光陰矢の如く時は過ぎ去っていった。


「今日は洋介の好きなところを挙げていって、私にドキドキしてもらいます!」


 相変わらず、今日も今日とて『椿チャレンジ』が開催されようとしていた。

 はいはいと軽くあしらってみるものの、俺は案外この時間を楽しみに待っていたりする。椿と俺の、二人だけで共有する楽しい時間。そう思わずにはいられないからだ。


「ひとつ!案外優しいところ!」


 しかし今日のチャレンジは、単純に見えて意外と難敵かもしれない。

 俺は褒められることに慣れていなく、しかもこの女版天然ジゴロから放たれる誉め言葉など、俺の理性を剥がしていくには申し分ないからだ。


「ひとつ!ツッコミが鋭い!」


 二つめからなんだか微妙なモノが出てきたことには、触れないでおく。


「ひとつ!えーと…、えー…、ひとつ!」

「え、もうネタ切れ?」

「あ、ひとつ!意外と笑顔が可愛い!」


 と思いきや、かなりの直球ストレートが飛んできて、俺は思わず視線を彼女から逸らしてしまう。

 ここ最近、椿への好意が隠し切れなくなってきている俺は、こういう時すぐに表情に出てしまうのだ。にやけた顔は赤く火照り、他人に聞こえそうなほど心臓は脈打ち、息が荒くなる。


「えーと、えーと」


 しかし、彼女を好きになればなるほど、彼女を手放したくない気持ちがより一層強くなっていく。キスがしたくなればなるほど、キスがしたくなくなる。この相反した感情で、俺はもうどうにかなってしまいそうだった。


「あ!ひとつ!顔が結構好みです!」


 そんな時だった。

 俺の感情が、想像していたものとは真逆の形で、爆発することとなったのは。



「私の初恋の人に結構似てて――」



 俺の心臓が、時が、すべてが止まったような錯覚に陥った。

 うつむかせていた顔を勢いよく上げ、思わず立ち上がってしまう。


「初恋の人?」


 自分でもわかるくらい、低く冷たい声を出したな、と思った。


「え、うん。あれ、言ってなかったっけ」


 言っていないし、聞いてもいない。

 なんだ。なんなんだ、この感情は。そりゃ椿も女子だ、恋の一つや二つもあるだろう。初恋の話だなんて、高校生にしてみればよくある日常会話みたいなものじゃないか。ましてや彼女の場合、生前の話である。


「私、卒業式で男子に告白して、振られてさ。それで、ぼけーっと歩いてたんだよ。高校で彼氏できなかったかー、ファーストキスまだかーって」


 なのになんで、こんなにも面白くないんだろう。

 なのになんで、こんな黒い感情が沸き上がってくるのだろう。


「聞いてねえよ」

「お?洋介、もしかして嫉妬してる?うふふー」

「……」


 鈍感な椿でも、俺のただならぬ様子に気づいたのだろう。いつものように軽い言葉で茶化してくるが、すぐにあたふたとし始めた。


「い、いや違うの。聞いて。初恋の人に似てるけど――」


 俺は、こんなに嫉妬深い人間だったのだろうか。

 いや違う。きっとそうじゃない。こんな風になってしまうほど、狂おしいほどに、彼女を好きになってしまっていたのだ。


 あわあわと慌てふためき、弁明の言葉を口にしようとしている椿。

 俺はそんな彼女を――


「……椿」

「え――」


 ――強く、強く抱きしめた。


「よ、洋介」

「もう限界だ。お前の口から他の男の、それも初恋の男の話なんて聞きたくない」


 俺はもう、耐えきれなくなっていた。


 自分の感情を押し殺して彼女といつまでも一緒にいたかったが、もう無理だ。押し殺せるほどこの感情は小さくなく、押し殺せないほどに膨れ上がってしまっていたからだ。



「椿、好きだ」



 自分でも驚くほど、すんなりと言葉に出た。


「すまん。俺はもうずっと、最初から、お前のことが好きだった」

「え、でも――」

「お前とキスが、ずっとしたかった!」


 膨れ上がった感情は行き場所を失くし、言葉となって口から溢れ出る。それは涙となって瞳から溢れ出る。椿を抱きしめる腕に力を込め、泣きながら叫び続けた。


「でも!でもキスをしたらお前は、椿は、成仏しちまうから!ずっと、ずっと我慢してたんだ!」

「……」

「俺は……ずっと椿と一緒に、いたいんだ……」


 抱きしめている小さな肩が、小刻みに震えているのを感じる。

 すんすんと、小さく可愛くすすり泣く声が腕の中から聞こえてくる。


「ずっと言えなくて、お前の気持ちに応えられなくて、ごめん……。けど俺は、お前と、いつまでもお前といたい……。だからキスはできな――」

「キス……、して……」


 胸の中から、絞り出したかのようなか細い声が聞こえ、思わず椿を手放す。

 椿はゆっくりと顔をあげ、ひどく苦しく、ひどく悲しそうな表情を見せた。その澄んだ大きい瞳でも抑えきれない涙が、彼女の頬を伝っている。


「私、本当に今、嬉しいの」

「……」

「さっき私、初恋の人の話、したでしょ?初恋の人に似てるけど、って」


 けどね、けどね、と息を切らして何回も呟く。

 何度目かの『けどね』が終わった後に、ひと呼吸ついて、こう続けた。



「――けどね、そんなこと忘れてたくらい、洋介のことが好き」



 俺は思わず、彼女をもう一度抱きしめた。

 放したくない。この愛しい彼女を、椿を、絶対に放したくない。だからこそ、彼女とはキスはできない。


「……だからね、キスしてほしいの」


 そんな俺の気持ちも知らず、椿は俺を抱きしめ返して、そう言った。


「なんでだよ!俺はお前と、椿とずっと一緒に――」

「それでも……。私は好きな人と、大好きな人と、キスがしたい……。ファーストキスを、大大大好きな人に、あげたい」


 もう一度、椿から離れる。今度はゆっくりと、彼女の表情を確かめるように。

 彼女は照れ臭そうに、けれども満面の笑みを浮かべていた。


「私、洋介とキスがしたい」


 この笑顔に、俺は惚れたのだ。

 好きな人が、俺が好きだと、キスがしたいと言ってくれている。

 ファーストキスをあげたいと、そう言っている。

 

 彼女の『幽霊人生』最後のお願いを、俺は断れるはずもなく――



「洋介、大好き――」



 ゆっくりと椿に、『最初で最後』のキスをした。

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