誘惑する女と、耐える男

 椿との出会いから1ヶ月。

 折原洋介の行くところに千堂椿あり、と言わんばかりに、彼女は俺につきまとってくる。通学はもちろん、学校内、さらに家にまで居座っているから驚きだ。


 いや、居座るという表現は不適切かもしれない。


「ほら見て見て、空中だと前転し放題。体操選手もビックリだっ」


 『居浮いている』、というのが適切か。


「ええい鬱陶しい」

「回転するたびにチラリと見えるうなじがセクシーでしょ?ムラっときた?」

「ムラっとはしないけど、イラっとはする」


 千堂椿。この街で生まれ、この街で育ち、この街で死んだという。

 高校の卒業式の帰り道、呆けたまま歩いていたせいで赤信号に気づかず、トラックに跳ねられてしまったそうだ。


『彼氏もできず、ファーストキスもできずに高校卒業するのかあ、ってね。ボケーっとしながら歩いてたんだよ。男の子とキスするどころか、アスファルトに熱いキスをしちまったぜ、HAHAHA!』


 その経緯は、小粋なアメリカンジョークチックに説明してくれたのでよく覚えている。

 

「そもそもだ。本当に『ファーストキスを経験したい』ってのが未練なのか?」

「うん、そーだと思うよ。だって私死ぬ直前まで、キスってどんな感じなのかなあ、してみたいなあ、って考えてたもん」


 高校最後の日くらい、もっと考えることがあるだろうに。


「キスしてみたいけど、幽霊って誰にも気づかれないし、そもそも幽霊は人に触れられないし……。なんてジレンマじゃ!って思えば思うほど、未練が強くなっていったんだよね。そんなところに現れたのが――」


 椿は俺の横にストンと降り立ち、『ビシィ』という擬音が聞こえそうな勢いで俺を指さした。


「なんと!幽霊に触ることのできる洋介!これはもう私を成仏させる、運命の出会い以外の何物でもなあい!」


 成仏をするためには、キスをするしかない。けれどそれは、自分が幽霊である以上、不可能。そんな中、幽霊に触れることのできる、恐らく唯一の人間である俺と出会った。椿がこれを運命の出会いと呼ぶのも、まあ頷ける。


「……幽霊とキスができる人間だったら、誰でもいいんだろうが」


 だが、気にくわない。

 あなたとキスがしたい、と言われていないような気がするから。


「拗ねちゃって洋介ってば可愛いー!」

「ち、ちが――」

「安心して、結構私のタイプだよ、洋介」


 椿に似合わぬ真面目なトーンでそう言われると、悪い気はしない。


「……俺は好きな人としかキスとかしねえって」

「だーかーらー、私のこと好きになればいいじゃん!ユーラブミー!」


 もうとっくに好きなんだ、好きだからキスできないんだ――と叫びたくなるのをグっと堪え、グイグイと近づいてくる椿を押し返す。

 いつもならばそこで、語尾にハートが三個くらいつきそうな声で『照れちゃってえ』と言って擦り寄ってくるのだが、今日の椿はあっさりと引き下がった。


「ふふふーん。私も馬鹿ではないのだよ、洋介氏」


 引き下がったかと思うと、したり顔で腕を組んでそんなことを言う。椿がこういう態度をとる時は、大概ロクでもないことを考えている時だ。


「いつも通り『キスしよ』と言っても埒が明かないので……、私はこれから毎日、洋介を誘惑していこうと思います!」


 ほら。ロクなことじゃなかった。


「誘惑?」

「うむ、洋介が私のことが大好きになって、私のことばっかり考えるようになって、私にキスしたくてたまらなくなるよう、誘惑するのです!」


 ふふん、とドヤ顔をする椿。

 ロクでもないと思う反面、『誘惑』と聞いて少しドキリとする。椿に誘惑なんてされたら、俺は耐えられるのだろうか。キスを、我慢できるのだろうか。


「具体的には?」


 あくまで冷静に、呆れた感じを装って聞いてみる。


「私が生きていた当時に夢中で見ていた、それはそれはトレンディなドラマがあってね。これを言われたら男はイチコロだって台詞があるんだ。これで洋介も陥落ってなもんよお」


 椿は唐突なべらんめえ口調でそう言って鼻をかくと、珍しく地に足をつけ、俺に背を向けた。そのまま何歩か歩いて遠ざかったかと思うと、満面の笑みで振り向き、こう言った。


「よーすけっ。ねえ、セック――」

「言わせねえよ?」


 椿の誘惑に耐えられるのだろうか、などと少しでも考えた自分を責めたい。


 彼女はどうしようもなく素っ頓狂ってことが、今回改めてわかった。そして恐らく、死後三十年近いんだろうな、ということも。

 そしてそんな彼女の言動に、居心地の良さと愛しさを感じている俺も、同じくらい馬鹿かもしれない。



「今日は私のセクシーさをアピールします!」


 それからというもの、毎日のように椿の試みは続いた。


「うっふーん」

「何してんだ?」

「胸を寄せて谷間をアピールしてるの。どう?セクシーでしょ?」

「関東平野って日本最大らしいな」

「私の胸見て平野思い出すってひどくない!?」


 そのほとんどがくだらなくて。


「お兄ちゃんだあいすき!」

「どうした?頭」

「いやね、近頃は萌え?ってのが流行ってるらしいんだ。その中でも妹萌え、ってのがブームだって」

「妹にキスする兄貴なんていなくね?」


 予想の遥か斜め下からくるようなものばかりだった。


「べ、別にあなたのことなんて好きじゃなんだからねっ」

「……そうか」

「ち、ちがうよ!これはほらアレ、昨日洋介が見てたテレビでやってたの!ツンドラ?」

「極寒だな」


 しかし、全く効果がないかと言われたら、そうでもない。

 こうして交わすくだらないやり取りが、俺にはたまらなく幸せだった。手ごたえを感じておらず落胆する椿とは裏腹に、俺は彼女への思いを日に日に募らせていた。


 好きだと、大好きだと言いたい。

 抱きしめて、キスをしたい。


「なんだかなあ、洋介はぜーんぜん私になびいてくれないなあ。この数ヶ月で、私は洋介のこと、かなり好きになってきたんだけどなあ」


 今日も今日とて作戦が失敗に終わった椿は、宙を舞いながらポロリと呟いた。こういう、何気なく椿が言った台詞に、俺の心はひどくかき乱される。


「……っ」

「どしたの?顔赤いよー」


 俺が耐えきれなくなるのも、時間の問題かもしれない。

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