灯台守の少女はひとり
灰崎千尋
前編
その不思議な灯台は、キィルの住む島の岬にぽつんと立っていました。
何が不思議なのかといいますと、一つは、その灯台に明かりがともったところを見た者が誰一人いないこと。もう一つは、灯台の内にも外にも、梯子や階段が見当たらないこと。にも関わらず、灯台のてっぺんには灯台守がいて、食べものも飲みものもとらず、ずっと海を見つめているようだ、というのが三つ目。
キィルはこの不思議な灯台が好きでした。
灯台は、白くきらきらした石でできていて、昼の陽射しの下では神々しいほどに眩しく見えましたし、星月夜には海と空の溶ける中に灯台がぼんやりと浮かんで、それはそれは美しいのです。
キィルは
朝方キィルが目覚めたら、身支度だけして岬へ行き、灯台の明かりがついていないのを確認します。それから灯台の扉の中へ入ると、少し窮屈ですが部屋があります。そこは小さな鐘とラッパ型に開いた金属管があるだけなのですが、波の音と共に、どこからか木の
「おはよう、灯台守さん!」
『ごきげんよう、キィル。今日はまた一段と元気ですね』
「へへ、お父さんの夢を見たんだ! 毎日お役目を果たして偉いぞう、って褒めてもらったよ!」
『それは、良かったですね』
「灯台守さんは? 何か夢を見た?」
『いいえ、キィル。私は夢を見ません』
「一度も? ちょびっともないの?」
『はい』
「それは残念だなぁ。じゃあ僕、灯台守さんが良い夢を見られるように毎晩お祈りをするよ」
『……それよりもキィル、あなたは今日のお役目をまだ果たしていないのでは?』
「そうだった! ねぇ灯台守さん、今日は何か伝言がある?」
『いいえ、何も』
「じゃあ、ほしいものは?」
『ありませんよ、キィル。それはお役目に入っていません』
「僕が知りたかったんだもの。灯台守さんも毎日お役目があるんでしょう、僕には教えてくれないけど。ときどきはご褒美が欲しくならない?」
『いいえ、キィル。私はここにいられるだけで良いのです。さぁ、ローズが朝食を用意して待っていますよ。もうお帰りなさい』
「灯台守さんはすごいなぁ。まぁいいや、また来るね!」
キィルの朝は、毎日こんな調子。
キィルは灯台から一番近い家に住んでいて、その戸口には“伝える者”とかすれた字で書かれた札があり、その隅っこには新しいインクで“種をまく者”とも書いてあります。これはこの島の家すべてにある表札で、住人の仕事を表しているのです。
“種をまく者”は、元々お隣のヨハンさんの仕事だったのですが、何年か前に亡くなったため、キィルの母親であるローズが引き継いだのでした。それから間もなく“伝える者”の仕事をしていたキィルの父親、マシューも亡くなってしまったので、今はキィルが“伝える者”をしています。
“伝える者”というのは、灯台の様子を見守りながら、灯台守からの伝言を島のみんなに伝える仕事。しかしキィルも、父マシューだって、灯台の変わった様子を見たことも、伝言を受け取ったこともありませんでした。
キィルは島で唯一の子供です。
この島では最初からずっとそうなので、島のみんなはそういうものなのだ、と思っていました。
ただマシューが亡くなったとき、彼の仕事を引き継ぐのはやはり大人が良いだろう、と話し合われました。大人たちは、子供に仕事をさせて良いものかわかりませんでしたし、“伝える者”の仕事は、島の戒律に「絶えさせてはいけない」と書かれていましたから、きっと大変に重要な仕事なのだろうと思われたのです。
しかしキィルはその大人たちの話し合いを盗み聞いていて、ひとり灯台の中へ駆け込むやいなや、あの狭い部屋の中で「僕が“伝える者”ではだめですか!」と大声で叫んだのでした。キィルはずっと、自分にも仕事が欲しいと思っていたのです。母親の手伝いも今まで通りちゃんとやるから、自分だけの役目が欲しいと、キィルは顔の見えない相手に訴えました。
灯台守はしばらくして金属管から応答し、いくつかの質問をしてキィルがマシューの息子だとわかると、『キィル、あなたが役目を引き継ぐのは構いませんが、毎日欠かすことのできない重要な仕事なのは本当です。そしてきちんと手順を守ること』と言って、ベルと金属管の使い方を教えました。
これがキィルの“伝える者”の仕事の始まりでした。
キィルの仕事は、朝のお役目が終われば、灯台の明かりがつかない限りは自由です。そして灯台のてっぺんは、屋外にいれば島中どこからでも見ることができたので、キィルはマシューがかつてしていたように、他の仕事を手伝っていました。“
キィルはまた、りぃんと鐘を鳴らします。
『ご用件は?』
「こんにちは、灯台守さん。キィルだよ。お手伝いが終わったんだ」
『お疲れさまでした、キィル』
「灯台守さんもお疲れ様!」
『……あなたも飽きませんね』
「何が?」
『私は、話し相手には向いていませんから』
「そんなことないよ。灯台守さんの声はとてもきれいだもの」
『そんなことを言うのは、キィルくらいです』
「みんな聞いたことないからだよ。聞けばみんな灯台守さんのこと、好きになると思うのになぁ」
キィルは、灯台守の少女の声が好きでした。その声は、島の誰とも似ていませんでした。島には他に少女がいないので当たり前といえば当たり前なのですが、その鈴を転がしたような響きだとか、自分の声に似ているようでもっと可憐な柔らかさだとか、だけど島の大人の誰よりもしっとりとしたなめらかさだとか。とにかく素敵だというのを、キィルは彼女に伝えたこともあるのですが、『それ以上は、もう、結構です』と、か細い声で止められたりしました。
灯台は、島の全ての人に開かれています。しかし、飲み食いもせず、ただそこに在り続ける灯台守を怖がって、大人たちは誰も近づこうとしません。生きていたころのマシューも、いつも緊張した声だったと、灯台守は言っていました。
「やっぱり、このラッパからじゃなくて直接声が聞きたいなぁ」
『それは不可能だと言ったはずです』
「わかってるけどさぁ。名前も教えてくれないし」
『好きに呼びなさい、とも言いましたが』
「でも名前、あるんでしょう? だったらちゃんと呼びたいもの」
『……いつか、その時が来たら教えましょう』
「ちぇー、灯台守さんったらそればっかり」
そうやって日暮れまで灯台で過ごしてから、キィルは家に帰り、ローズのつくった夕食を食べ、また灯台守と話すのを楽しみにしながら寝床に入ります。
その繰り返しが、キィルの生活の全てでした。
しかし突然、その日々は終わりを告げました。
ある日の朝、いつものようにキィルが家を出ると、何やら島の人々がざわついていました。ハッとして灯台の方を見ると、そのてっぺんにぼうっと青白い明かりがついています。その明かりは、朝日よりも暗くぼんやりとしているはずなのに、その冷たさが目に突き刺さるようで、キィルは思わず身震いしました。それを頭から振り払うように首を振って、キィルは灯台へ走りました。
りぃん、とこわばった手で鐘を鳴らすと、いつもと変わらず灯台守が応えます。
『ご用件は?』
「灯台守さん、明かりが、明かりがついてる!」
『そうですね』
灯台守があまりにも普段と同じ様子なので、キィルはかえって恐ろしい気持ちになりました。あれは良くないものだと、キィルの中で何かが叫びだしそうになります。
「伝言が、あるんでしょう?」
『はい、キィル。これから言う言葉を、一言一句間違えずに、島の全員に伝えてください。絶対に、全員にですよ。』
「わかった」
『“
「……それだけ?」
『はい。なるべく急いで』
キィルは灯台を飛び出しました。灯台守に聞きたいことはたくさんありましたが、今は答えてくれそうにありませんでしたし、考えるよりもまず、足が動き出していました。
キィルはまず、自分の家に帰りました。ローズは灯台の明かりを不安そうに見つめていて、台所で鍋が吹きこぼれているのにも気づいていないようでした。
「お母さん」
「ああキィル、灯台へ行ってきたのね。灯台守は何か言っていた?」
「ええとね、“方舟は沈む。汝、為すべきを為せ。”って」
え、とローズの顔が固まりました。キィルはその瞬間、ローズが倒れてしまうのではないかと思いました。ほんの数秒でしたが、ローズの目は光を失い、手足は硬直して動かなくなったのです。しかしローズは、やがて不自然なほど穏やかに微笑みました。
「キィル、朝ごはんができているわ。午後は畑を手伝ってね」
「お母さん、お母さんどうしたの」
「種をまかなくてはいけないの。たくさんまいて、たくさん実らせましょうね」
ローズはキィルに話しかけているのに、キィルが見えていないようでした。先ほどまでの不安は最初からなかったのだという風でした。もう灯台の方に目が行っても、気にする様子はありません。
「麦の種をまきましょう。それからソラ豆、キビもまいて、飢えることのないように」
ローズは歌うように言いながら、畑へと出ていってしまいました。
キィルはしばらく立ちすくんでいましたが、けれどとにかく伝言を伝えなければと、自分の家を後にしました。
その後は、同じことの繰り返しでした。
みんな灯台の明かりを見て不安がっていたのに、灯台守の伝言を伝えると、一瞬静止するのですが、やがて穏やかな顔で自らの“仕事”へ向かってしまうのです。何を尋ねても、夢見心地に“仕事”の話をするばかりで、キィルに応えてはくれません。
キィルは何がなんだかわからないまま、島中を巡りました。目の前で起きていることはとても恐ろしいのに、とにかく伝言を伝えるのが一番正しいことなのだと、自分の中に確信があるのです。そうして島の全ての家を回ると、今度は自然と灯台へ足が向きました。
キィルが扉を開けると、灯台の中はすっかり様変わりしていました。
小さな鐘と金属管はそのままに、小部屋を形作っていた壁はなくなっています。代わりに暗く狭い水路が現れて、そこをちょうど通るくらいの小さな舟が波に揺られていました。
「これって……」
キィルが思わず呟くと、金属管から灯台守の声がしました。
『待っていましたよ、キィル』
灯台守がそんなことを言うのは初めてのことでした。本来なら嬉しい言葉のはずなのに、キィルは背筋がぞっとしてしまいました。
「灯台守さん、みんな変なんだ。伝言を伝えたらおかしくなっちゃうんだ。僕もなんだか自分が自分じゃないみたいで。これは何なの、何が起きているの?」
『ごめんなさい、今それを話すわけにはいきません。もうあまり時間がないのです』
突然、地鳴りが聞こえ始めました。それは徐々に大きな揺れになって、キィルは思わず片膝を着きました。それと同時に、寸分の隙もなく積み上がっていた灯台の外壁が、いくつか崩れてしまいました。すると今まで見えなかった灯台の内側に光が当たり、てっぺんまで伸びた金属管を見上げれば、それを囲むようにいくつもの歯車や羽根が組み合わさっているのが見えます。
「これは何……? 島はどうなっちゃうの!?」
『いい子ですから、キィル。あなたの本当の役目を果たしてください。あなたに話すべきことは、この手紙に書いておきました』
灯台守がそう言うと、いつも声しか届かない金属管の口から、小さく折りたたまれた紙が吐き出されました。それを受け取ったかと思うと、キィルの体は勝手に目の前の水路へと向かってしまいます。
「いやだ、何これ、灯台守さん、助けて!」
キィルの意思は必死に抵抗しているつもりなのですが、体はすっかり小舟に潜り込んでしまいました。
『キィル……どうか私たちを許して』
その灯台守の言葉とともに、波が小舟を押し出しました。水の流れが、漕いでもいない舟を水路の外へと導いていきます。
そうしてキィルは、追い出されるように島を出たのでした。
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