閑話:【淑姫】シティ・ローレライト《1》


 ──わたしって、なんだろう。


 少女の口から零れた言葉が夜を漂う。

 剣の都を円で囲む巨大な外壁の頂上。

 そこには一人の少女──シティ・ローレライトが佇み、遥か夜の彼方へと目を向けていた。


 その手に握られているのは一枚の手紙。

 手紙の文字を視線でなぞっては、地平線の彼方へと目を向ける。少女は寒空の下で何度もそれを繰り返していた。


 その胸中に苦悩や葛藤はない。

 ただ、胸にぽっかり穴が空いたような虚無感だけがあった。その身体を支配しているのは、研鑽を積む上で欠かせない存在を失ったことにより訪れた脱力感。


 シティは一人の少年との離別を経て、その存在がこれまでどれだけ自分の大部分を占めていたのかを悟った。そして、外壁の上から遥か彼方に目を向けて思う。


 ──アイルはもうどれだけ先に進んだのだろう、と。


「ぁ」


 不意に吹き荒れた風が、シティの手から手紙を奪い取った。風に乗ってみるみる遠のいていく手紙。

 シティは「待って」とその手紙へと手を伸ばし──



『そこを退け、運命淑姫


『僕が通る』


 

「っ」


 一人の少年の背中を幻視した。


 身体中を駆け巡る緊張。

 強張る身体。想起される記憶。

 そして──温くなった手のひらの感覚。


 一際大きな風が吹く。

 そして空へと巻き上げられたその手紙を目にし、シティは諦めたように俯いた。

 目をキツく瞑り、鼻の奥に生まれたツンという感覚に耐える。


「──っと」


 と。

 その声は着地音を伴ってシティの前方へと舞い降りた。

 一瞬息が止まる。

 そして、驚愕に弾かれるように顔を上げたシティの視界に映ったのは、銀色を纏った淑女──ベルシェリア・セントレスタの姿だった。


 軽やかに地面へと降り立ったベルシェリアの片手には、今しがた風に巻き上げられてしまった手紙。

 シティはその手紙を目にし、小さく「あ」と呟きを漏らした。


「まったく、ぼーっとし過ぎじゃない?

 しっかりしなよ」


 そう言って歩み寄るベルシェリアは、軽く目を通したその手紙をシティへと手渡した。

 シティは躊躇うように、その手紙を受け取る。そしてベルシェリアの視線から逃げるようにして、再び下を向いた。


 その様子を見て、ベルシェリアは「はあ」と一つ息を吐く。


「もう、しおらしくなっちゃって」


「……うるさいです」


「やっぱりその手紙のせい?」


「……」


 黙り込むシティに、ベルシェリアはもう一つため息を吐いて口を開いた。


「『もっと強くなって、次に会った時に決闘の約束を果たします』……か。

 シティの中で引っかかってるのは、手紙の中にあるその言葉?」


「……」


「はい図星」


「うるさいです」


「はいまた『うるさいです』」


「うる……もういいです」


 シティは踵を返して歩き出した。

 逃げるように。早足で。

 その背中には「放っておいてくれ」という文字が浮かんでいるようだった。


「──もういいの?」


 風が止んだ。

 それは、ベルシェリアの口から放たれた言葉。シティの背中に、その言葉は重りとなってのしかかった。


「逃げていいの?」


「……」


「目を背けていいの?」


「……さい」


「諦めていいの?」


「……るさい」



「──もうここで、止まっちゃう?」


「うるさいって!」


 その声は、外壁上に響き渡った。

 振り返ったシティはベルシェリアを睨みつけ、開口する。


「分かってますよ! そんなこと!

 わたしがこうしている間にも、アイルはどんどん先に進んでる! だからっ、わたしも前に進まないといけないっ!

 いけない……のに、っ!」


 水面を帯びていく瞳。

 そして溢れ落ちた一滴の涙が合図となり、シティはその小さな唇を震わせた。


「こびり付いて……離れないんですよっ。

 寝ても覚めてもっ。

 あの英雄譚の一頁が。アイルの背中が。

 そこでじっとしてろ、って……言ってるみたいに、っ」


「……」


「もう、わたしは進めない。

 守るべきものがないから。

 わたしをわたし足らしめるものが、ないからっ」


 ──【淑女の一閃レディー・ファースト


 それは守護の【ギフト】。

 守るものがあればあるほど昇華する一閃。

 もう、シティには守るものなどなかった。


「だから、もう、だめなんですよ……っ」


 そう口にするシティの姿は、触れれば崩れ去ってしまいそうなほど弱々しかった。

 放っておけば、そのまま夜の闇に溶けてなくなってしまうかもしれない。


 今のシティは【淑姫】ではなかった。

 幼く、未成熟なただのひとりの少女。

 傷つきやすく、割れやすい心を持ったひとりの子供。


 この先のシティの全ては、自分の返答に委ねられている、と。

 ベルシェリアはそう直感した。


「……はあ」


「……」


「よし、分かった」


 そう言うとベルシェリアは──腰に差している短剣を引き抜いた。

 シャラ、という音と共に引き抜かれた純銀の短剣が月光を纏って光を放つ。


「シティも抜いて」


「……?」


「私がシティの全力──【ギフト】の一撃を受け止めてあげるって言ってるの」


 その言葉を聞いて、シティは顔を大きく歪ませた。

 ベルシェリアが突飛なことを口にするのはいつものことだが、今回ばかりは本当に全くもって理解ができない、と。


 ただ。


「……分かりました」


 これが分岐点なのだと、シティはベルシェリアの目を見て悟った。ここで逃げるか逃げないかで、この先の道が決まる。


 乱暴に涙を拭い去る。

 続けて綺麗に折り畳んだ手紙をベルトの隙間へと挟み込むと、シティは短剣を抜いた。

 そして──開口。


「【淑女の一閃レディー・ファースト】!」


 シティを中心として、氷煙が顕現する。

 パキパキという音を纏って研ぎ澄まされてゆく剣身。

 しかしやはり、その【ギフト】の冴えはこれまでに比べるとずっと頼りなかった。


 そしてすぐに訪れる『昇華』の頭打ち。

 シティはギリ、と奥歯を噛み締めると共にベルシェリアを睨みつけた。


「……行きますよ」


「どうぞ?」


 月明かりに映し出される二つの影。

 地面を蹴り砕く音と共に重なり合った二つの影は、衝突と同時に巻き上がった氷煙によって一瞬にして呑み込まれた。


 それは、驚くほどに静かな衝突だった。


 そして五秒、一〇秒、と。

 なんの動きもないまま、時間だけが過ぎてゆく。氷煙立ち込める外壁上は、静寂に支配されていた。

 しかしやがて氷煙は薄れ、月明かりが再び石畳の上へと影を映し出す。


 立っている影は、たった一つだけ。


「うーん」


 シティの全力を受け止めたベルシェリアは、まるで何もなかったかのような様子で短剣を鞘へと収めた。

 

「はあっ、はあっ」


 対するは、息を荒くして地面へとへたり込むシティ。

 地面へと視線を落として大きく肩を上下に揺らすその姿から、主役の面影というものは一切感じられない。

 ベルシェリア・セントレスタという圧倒的な主役の前では【淑姫】すらも端役へと成り下がってしまうということを、その構図は物語っていた。


 シティの息が整うのを待つと、ベルシェリアはその側へと歩み寄って腰を下ろした。


「本当はここで労いの言葉一つでもかけた方がいいんだろうけど、嘘はつきたくないから正直に言うね。

 ものっっっっっっっっすごく微妙な一撃。

 あくびが出そうだった。てか出た。

 てか今もめっちゃ出そう」


「っ」


 シティはガリッと石畳を爪で引っ掻き、至近距離からベルシェリアを睨みつけた。

 ベルシェリアはその視線を受け止め、口を開く。


「でもそれは、シティが【ギフト】の力を最大限に引き出せていないから」


「……っ、だからっ、『守るもの』がない私の力はここで頭打ちだとっ」


「はい馬鹿」


「ばっ!?」


 ベルシェリアはシティの額を指で弾き、立ち上がる。そして大きく両手を広げてシティを見た。


「『守るもの』がないんじゃない。

 ただシティには見えてないだけ。

 この世界には『守るもの』なんて幾らでもある。助けを求めている人だって、主役えいゆうの数の何倍もいる」


「……」


「『守るもの』がアイルだけなんて、本当にそう思ってたの?

 そうだとしたら、シティは本物のお馬鹿だよ」


「……っ!」


 シティは何かを言い返そうと口を開け、すぐに閉じた。言い返す言葉が見つからなかったから。全て紛れもない事実だったから。


「それとも──本当にここで立ち止まる?

 手を伸ばせば届くかもしれない可能性がそこにあるのに、目を背けて逃げ出す?」



 ──アイルは、そうしなかったよ。



「っっ」


 その言葉を薪とし、シティの瞳に小さな炎が灯った。それを見たベルシェリアは僅かに口角を上げると、まるで我が子を見るかのような視線をシティへと向けた。


 そうだ。

 人を大きく成長させるのは、何も『勝利』だけではない。

 アイルが格上との死闘で劇的な『勝利』を収めて大きく飛躍したように、格下に……アイルに喫した大きな『敗北』が、勝利よりも大きな成長を齎すことがある。

 それを生かすも殺すもシティ次第だ。


「分かったらさっさと立つ!

 泣き虫!」


「泣き虫じゃ、ありばぜん!」


 涙を踏みつけるようにして立ちあがるシティ。その目はしっかりと前を向いていた。

 たちまち自分を追い越していってしまった一つの背中を捉えるように。


「強くなるよ。一緒に。

 次はアイルに負けないように」


 そして──【黒い男】にも。


「っ、はい……っ!」


 シティは大きく返事をし、涙を拭いた。

 

 こんなところであれこれ考えていても、答えは勝手にやって来たりなんかしない。

 答えは、死闘の中にしか眠っていない。

 アイルはそれを証明した。



「だったら、わたしだって!」



 その言葉と共に、シティもまた一歩を踏み出した。



=====


「──?」


『あン? どうしたァ?』


 夜の馬車の見張りをしていたアイルは、何かに反応するかのように顔を上げた。

 そしてある方角へと視線を向ける。そのずっと先にあるのは、剣の都。アイルの一つ目の物語が生まれた場所。


「いや、なにか……」


『寝ぼけてンじャねェかァ!?』


「ちょ、夜なのにうるさいって!」


 そう返しながらも──イゼの言う通り寝ぼけているのかもしれない、とアイルは首を横に振った。


『見張りの交代はまだまだ先だぜ大将ァ!

 なんなら剣でも振ッて目ェ覚ましてみるかァ!?』


「うん、やる」


『マジかァ!?』


 言葉にできない何かに突き動かされるようにして、アイルは立ち上がった。

 そして闇を切り裂くようにして、素振りを始める。


 ──僕は、止まらない。

 ──前に進み続ける。


 その視線の先には、いつか相対するであろう白い少女の姿が映っていた。






 ……ぐぅ。


「うっ」


『ギャハハハァ! 締まらねェ!』


「う、うるさいよ!

 お腹すいたんだもん!」


 馬車では食料を節約しないといけないらしいし!


『まァ、目的地までの辛抱だなァ!』


「美味しいもの沢山あるといいね」


『オレも食いてェ!』


 これからのことに想いを馳せ、素振りをするアイルは胸を高鳴らせる。

 新しい冒険は、もうすぐそこだった。



────────────────────


2章は12月25日から投稿開始します。

よろしくお願いします。

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