25話:臆病者の証明


 ──何かが、おかしい。


 心の中でそう思った。

 魔獣の森に足を踏み入れて半日。

 冒険者に出会うこともなければ、魔獣に遭遇することもない。


 魔獣の森は不気味なほどに静まり返っていた。

 そんな中で僕は一抹の不安を覚えながらも、森の奥地へと踏み込んでいく。


『確かに、ヘンな感じがすんなァ』


 イゼのそんな言葉に、僕は心の中で頷いた。


 その只事じゃない雰囲気に逆立つ全身の毛。

 脳みそまでもが警鐘を鳴らすようにチリチリと音を立てているようだった。

 僕はいつ何が飛び出して来ても対応できるように腰の短剣の柄を握りしめながら歩く。


 足音と吐息の音は最小限に。

 僕は夢の中で【雷髄】が用いていた歩法をなぞるようにして進む。


 不意に。

 今日は引き返した方が良いのではないか、という思いが脳裏をよぎった。

 それは染み付いてしまっている臆病者の性。

 僕は頭を振って、その思いを掻き消す。


 ──と。


「っ、なんだ、この臭い」


 それは突然鼻腔を叩いてきた。

 涙が出るくらい酷い臭い。


 まるで牛舎や豚小屋のような。

 いや、もっと。

 それはまるで、ギュッと濃縮させた臓物を何日間も日光に晒して腐らせたような、そんな臭い。


 僕は引き寄せられるようにその臭いを辿って行く。

 そして掻き分けた下草の先に、その光景を見た。


「っぷ」


『オイオイオイオイ!』


 赤。赤。赤。赤。

 辺り一面、赤、赤、赤、赤。

 それは全て──血溜まりだった。

 その光景は凄惨の一言に尽きた。


 あまりに酷い。

 あまりに惨い。

 ここは地獄だと言われれば、信じ込んでしまいそうになるほど。


 一体、ここで何が。


 初めて見る人間の残骸。

 死の瘴気が漂うこの場所に立っているだけで、息が乱れた。

 膝がガクガクと震え、僕の言うことをまるで聞こうとしない。


 動かなきゃ。

 早く、動かなきゃ。

 この光景を生み出したであろう存在に、気付かれてしまう前に。


 そう思って、踵を返そうとした時だった。

 全身が一気に粟立ち、本能が僕に向けて目一杯の警鐘を鳴らしてきた。

 全身の穴という穴から一気に汗が噴き出す。



 ──いる。


 背後に、何かが。



『ッ、跳べえァ!!!』


「──」


 緊急回避。

 イゼのその叫びに弾かれるように、僕は全力で横へと跳んだ。


 直後、耳を貫く轟音。

 直撃を免れたのにも関わらず、そんなの御構い無しに全身を叩いてくる衝撃。

 今の今まで僕の立っていた場所は何かを打ち付けられたことで破砕し、砂煙の花を咲かせていた。


「ぐっ」


 僕は地面を転がることで衝撃を殺すと、勢い良く身体を起こした。

 そして、その存在を視界に映して尻餅をつきそうになる。


 怪物。

 化物。

 絶望。


 そういった言葉はコイツを形容するために存在しているのだと、心からそう思った。


 禍々しい瘴気の鎧を纏う肉体。

 異常なほど隆起した四本の腕。

 蛇のように脈打つ赤黒い血管。

 天に向かって伸びる鋭利な角。

 涎にまみれた万力のような牙。

 そして底無しの飢餓を孕んだ眼光。


 ──【大鬼】?

 いや、違う。


『【亜種】かァ!』


 亜種?

 知らない。

 僕はそんなの知らない。


『ルァァ──ァ』


 絶望は小さく唸り声を上げると、先ほどまで僕の立っていた位置に抉り込まれていた巨大な大剣を四本の腕で引き抜いた。

 そして、初撃を回避した僕を咎めるように、その眼光をこちらに向けてくる。


 これは、ピンチ?

 それともチャンス?


 僕は【大鬼】を倒して殻を破るために、この魔獣の森に踏み込んだはずだ。

 そして、その存在と今まさに対峙している。


 だけど。

 それがよりにもよってこの怪物なんてあんまりじゃないか。

 精霊はいったい、僕にどれだけの試練を押し付けてくるっていうんだ。


「ッ」


 ふざけるな。


 僕は理不尽に押し潰されそうになりながら、立ち上がった。

 それでも進まないといけないんだ。


 今の僕を突き動かす原動力となっているのは、あの夜の記憶だ。

 師匠の口から放たれていた言葉だ。

 ──当て馬。

 それが師匠の中にある今の僕の価値。

 あんな惨めな思いをするのは二度とごめんだ。


 臆病な自分に打ち勝って、僕はその評価をひっくり返す。


「ああああああああああああああッッ!!」


 僕は絶望を振り払うように雄叫びを上げた。


 これが僕の覚悟の証明。

 自分自身に送る全身全霊の叱咤激励。

 そうやって自分を奮い立たせようとする僕を見て。


 眼前の怪物は──嗤った。



『ウ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!』



 それは。


 僕の覚悟なんて粉々に打ち砕く咆哮。

 僕のなんて比べ物にならないほどの渇望。

 僕の全身全霊なんて軽く塗り潰してしまうほどの哮り。


 その雄叫びを正面から受けて。

 受けてしまって。

 耳にしてしまって。


 ──折れてしまった。


 僕の心は。

 いとも簡単に。

 繊細な飴細工のように。


 それは恐怖の抱擁と呼ぶに相応しい。

 抱き竦められ、雁字搦めにされ、動けなくなる。

 その圧倒的な存在を前にして、否が応でも掘り起こされてしまう負の記憶。


 初めて【大鬼】と対峙した時。

 そして闘技場で【大鬼】と再会した時。

 そこにはいつも〝絶望〟があった。

 それは今、この状況にも。


『──、──!』


 イゼが何かを叫んでいた。

 でもそれは意識を撫でてくるだけ。

 その言葉が意味を纏って意識に入ってくることはなかった。


「ひ、ひぁ」


 僕は悟った。


 人々の前に立ちはだかる壁。

 それには厚い壁もあれば薄い壁もある。

 それには硬い壁もあれば脆い壁もある。

 それには高い壁もあれば低い壁もある。


 壁を破ることで、人は成長する。

 壁を破らなければ、成長はない。

 厚く硬く高い壁になればなるほど、乗り越えた時の成長は大きくなる。


 だけど。


 厚く硬く高い壁になればなるほど、乗り越えることも困難になる。

 何度も何度もぶつかって。

 ぶつかってぶつかってぶつかって。

 よく厚くより硬くより高い壁から逃げなかった者が英雄へと近付いてゆく。


 じゃあ僕は?


 僕は、初めて【大鬼】と対峙した日からずっと、壁の前で足踏みをし続けている。

 ぶつかれないでいる

 進めないでいる。


 何度も目を逸らした。

 何度も背を向けた。

 何度も逃げ出した。

 何度も何度も何度も。


 きっと、もう取り返しはつかない。

 正直もう自分がこの壁を破る姿を想像できない。


 目を逸らす度。

 背を向ける度。

 逃げ出す度。

 どんどん厚く硬く高くなってしまったこの壁を破る自分の姿が、想像できない。


 僕は悟った。

 なにもかも──手遅れだと。



『──もしもの時は、勇気なんて置いて逃げること』



 不意に、そんな言葉が脳裏をよぎった。


『──もしもの時は、勇気なんて置いて逃げること』


 それは、 を 覚 悟


『──もしもの時は、勇気なんて置いて逃げること』


 それは、師匠が臆病者の僕にかけた呪い。


『──もしもの時は、勇気なんて置いて逃げること』


 それは、僕を縛り付ける鎖。


『──もしもの時は、勇気なんて置いて逃げること』


 それは、僕がこれまで走り続けてきた理由。


 そうだ。

 逃げないと。

 逃げないと逃げないと。

 逃げないと逃げないと逃げないと。


 死んでしまったら主役も端役もない。

 死んでしまったらそれで全部終わりなんだ。

 生きてればいつか、機会は訪れる。

 いつかきっと。


 もう臆病者でも良い。

 だから──逃げろ。


 僕は本能の赴くままに。

 僕は理性の赴くままに。

 僕は臆病の赴くままに。

 怪物に背を向けた。

 怪物のいる場所とは逆方向に走り出した。


 そして。

 僕は。




 ────……純白とすれ違った。




 交差する。


 主役と端役。

 豪胆と臆病。

 立ち向かう者と逃げる者。


 それは、運命の波に、膝から先が浸かってしまっている感覚。


 震えてカチカチと音を鳴らす奥歯。

 疼痛を訴えてくる心臓。

 僕は足を止め、振り返った。


 ああ。

 もう。


 まただ。

 いったい何度目だ?

 この光景を見るのは。

 いったい何度目だ?

 この気持ちを抱くのは。


 そこにあったのは、背中。


 幾度となく見てきた純白の背中。

 ずっと追いかけてきた勇敢な背中。

 何よりも僕の胸を締め付けてくる背中。


 追い付いてくる【大鬼】。

 その怪物すらもその神々しい立ち姿を目にして足を止めていた。

 白い背中は、絶望なんて物ともせずに怪物の前へと立ちはだかる。


 痛いくらいに響く心臓の音。

 裂けてしまいそうなほど脈動する血管。

 手のひらに食い込む爪。


「そこを退け、運命オーガ 


 そして、白の少女──シティさんが放つその言葉を聞いて。


「わたしが通る」


 頭が真っ白になった。






 ──怖い。






「怖い」


 それは意識を介することなく口から零れた。

 僕は最初、それが僕の口から出た言葉だと気付くことができなかった。


「大丈夫」


 僕のその呟きを聞いて、シティさんが安心させるように言った。


「怖い」


 だけど、止まらない。


「わたしが守る」


 シティさんは再びそう紡いだ。

 前だけを見据えて。

 こっちに一瞥を投げることもなく。


「怖い」


 それでも、止まらない。


「怖い」


 溢れ出してくる。


「怖い」


 僕の口は言うことを聞かない。


 なぜ繰り返す?


 労いの言葉をかけてほしいから?

 頑張ったと慰めてほしいから?

 もう大丈夫だと安堵したいから?


 ──違う。


「怖い」


 弱くて情けなくてカッコ悪い、僕の本音。


「怖い」


 死ぬまで変われない、臆病者の本音。


「怖いっ」


 そして。

 逃げることしかできない僕の、

 怖れることしかできない僕の、

 魂の髄を剥き出しにした〝ことば〟。


「僕は──」


 ──僕はッ!




「またこの光景から目を背けて逃げ出すことがッ、なによりも怖いッ!!」




 シティさんの息を飲む音が聞こえた。

 背中から伝わってくる驚愕。

 それは僕の口にした言葉が、予想していなかったものだったからか。


 当然だ。

 驚きもする。

 僕にだってその言葉は予想できていなかった。


 それは臆病者の僕にしか紡げない言葉。

 誰よりも げ  る こ と を 怖 れ る臆病者ぼく の、魂からの絶叫。


 何よりも怖ろしいのは、またあんな惨めな思いをすることだ。

 何よりも恐ろしいのは、また逃げ出した自分に失望してしまうことだ。

 何よりも恐ろしいのは、また目の前の少女の献身を踏み台にして、みっともなく命を繋いでしまうことだ。

 それは──死んでしまうことの何百倍も怖ろしい。


「っ!」


 魂の髄から溢れ出した衝動が、臆病な僕の身体を突き動かす。


 誰も僕のことなんか見ちゃいない。

 誰も僕になんて期待しちゃいない。

 誰も僕を希望なんて思っちゃいない。


 この【淑姫】のために用意されたと言っていい舞台の上で。

 この【淑姫】のために綴られたと言っていい筋書きシナリオ の中で。


 僕──アイル・クローバーが立ち上がる展開なんて誰も望んじゃいない。


 理性が囁く。

 そのまま大人しくしていろ、と。

 本能が呟く。

 主役の背中をそこで見届けていろ、と。

 これまでと同じように。



 ──……できるわけがないだろ。



 僕はそうやって、いつまで自分自身に言い訳を聞かせ続ければいい?

 己を縛りつける鎖から、いつまで目を背け続ければいい?


 そうやって、

 いったい、

 いつ、

 僕は殻を破ることができる?


「ッッッ!」


 嫌なほど知っている。

 痛いほど分かっている。

 頬を伝う涙の冷たさも。

 飲み込んだ溜息の苦さも。

 後ろ指さされた背中にのしかかる重圧も。

 胸が張り裂けそうになるほどの悔しさも、不甲斐なさも。


 もう尽きた。


 臆病な自分を安心させ、宥めさせる言い訳が。


 もう尽きた。


 どんどん前に進んでゆく主役の背中を黙って見ているだけの自分を納得させる理屈が。


 もう尽きた。


 胸の奥で小さく燻っていた自尊心が。


 ──もう、全部全部尽きた。


 前に進む。

 格好悪くても良い。

 嘲笑に晒されても良い。


 なんとしても張らなければならない が があった。


 それは虚栄心とは少し違う。

 ただ上辺だけを塗り固めた虚栄とは、少しだけ。

 もっと純粋な。

 あるいは最高に滑稽なもの。


 そこには矜持も、流儀も、仁義も、誓いもない。だけど、それは臆病者の僕にとって、確かに殻を破って前に進むための原動力となり得るもの。


 行けよ、僕。

 強がれよ、僕。


「そこを退け、運命淑姫 」


 いつまでもそこに立たれていたら。

 いつまでも前を塞がれていたら。

 ──僕は前に、進めない。



「〝僕が通るッ!〟」



 ──ヂリ、と。

 その〝台詞ことば 〟に呼応するように、僕の【精霊結晶】が純白の光を灯した。

 それは紛うことなき、新しい【ギフト】の誕生を祝福する光。覚醒の灯火。


 僕はその光を携えて、足を踏み出した。

 一歩、また一歩と。

 そしてシティさん──主役の横を通り過ぎ、怪物と対峙する。


 たとえこれが愚かな選択だとしても。

 たとえこれが誰もが望む英雄譚に水を差す行為だとしても。


「僕はもう、逃げないッ!」


 僕は『現実に背を向けること』から逃げ出す。


 この瞬間。

 世界中の誰よりも僕は自分勝手だった。

 世界中の誰よりも僕は臆病者だった。


 全てを置き去りにして駆け出す。

 懊悩も、葛藤も。

 シティさんの視線すらも。


 ──端役僕 はその主役淑姫 のために用意された舞台の上に、土足で足を踏み入れた。



────────────────────


『逃げることを恐れた臆病者を、人は勇者とみなした』トーマス・フラー


これが作者の考える英雄論です。

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