21話:孵化
「昨日は散々な目にあいましたね」
「は、はい」
翌朝、僕は闘技場の広間でシティさんとそんな会話を交わしていた。
散々な目とはもちろん泥酔した師匠に付き合わされたことだ。
シティさんは「まさかアイルの前でもあんな風になるなんて」と頭を抱えていた。
「まあ、師匠をあそこまで変えてしまった【黒い男】とやらに、わたしも興味が尽きないのですけど」
『オレだァァ!』
「あ、あはは」
凄く胃が痛かった。
受付を済ませ、控え室へと移動する。
今日の出番は僕が一番最初。
シティさんはその三時間後といった感じになった。
「じゃあ、アイルの闘いは観客席から見ることにします」
シティさんは僕にそう言った。
しっかり見られてしまうということで、僕は特に気持ちを引き締める。
「そういえば」
と。
突然シティさんは真剣な空気を纏い、僕の方に視線を向けてきた。
僕は咄嗟に背筋をピンと伸ばし、その視線を受け止める。
「は、はい?」
「聞きました。
昨日の《深度》測定について」
僕はハッとなる。
そうだ。
シティさんは【氷霊】のギルドの一員なんだ。僕が昨日【氷霊】のギルドで測定してもらった《深度》の情報を耳にしていても、なんらおかしくない。
「この短期間で《深度》六〇〇〇超え。
わたしだって最近九〇〇〇を超えたばかりだというのに、アナタは」
シティさんはその両手をグッと握りしめ、そんなことを口にした。
そして続けてなにかを話そうとしているシティさんに、なにか嫌な予感を覚える。
「それに、何か不思議な力を隠していますね」
ひェ!
「観客の目は騙せても、わたしの目は騙せませんよ」
追い詰めるように距離を一気に縮めてくるシティさん。
対する僕は顔を紅潮させて後ずさることしかできなかった。
不思議な力。
それは、十中八九【
昨日試し撃ちした〖纏雷〗が見られていた。
きっとそうだ。
完全に油断していた僕の失敗だ。
「何か言ったらどうです?」
「……」
おそらくシティさんは引かないだろう。
今回ばかりは「どうしても聞き出してやる」といった意思が瞳から伝わってくる。
どうしよう。
僕が上手い誤魔化しを思いつくとも思えない。
僕は止まりかける思考を限界まで回して答えを探した。
そしてハッとなって口を開く。
「け、決闘!」
「はい?」
「決闘です!
覚えてますか、あの約束!」
──いつか強くなったら、わたしとちゃんと決闘してほしい。
それはいつかの提案。
僕に宛てられた、好敵手からの宣戦布告。
あの精霊樹の下でシティさんと交わした約束。
「もし、シティさんが僕に勝ったら、なんでも質問に答えます」
その言葉を聞いた瞬間、至近距離にあったシティさんの瞳の中に大きな火が灯った。
そして耳を打つギリィといった奥歯が擦れ合う音。
「どれだけ成長が目覚ましいとは言え、わたしとアイルの間には二〇〇〇以上の《深度》の差があります。
それが分かって、その提案をしているんですか?」
「は、はいっ」
僕のその返事でシティさんの瞳の中にある炎は更に激しく燃え上がった。
燃え上がらせてしまった。
僕は今、返事をすることで薪を焼べてしまったのだと悟る。
「つまり──もうわたしに勝てる、と。
その不思議な力さえあれば、期待なんてものに縛られているわたし程度には負けないと、そう言っていると受け取って良いんですね?」
「い、いやいやいや!」
「もう遅いです。
そう受け取りました」
そう言って、シティさんは一歩下がる。
僕は追及から解放されたことに安堵する暇もなく、シティさんから人差し指を叩きつけられた。
「いいでしょう、乗ってあげます。
それじゃあ明日の早朝、中央広場にて。
異論はありませんね?」
「えっと、その」
「アナタからの提案ですもんね?」
「は、はいィ!」
『おもしれェェ!!』
半泣きになりながら答える僕。
そんな僕を見て「それでは」とシティさんは踵を返した。
「あ、そういえば忘れてました。
これ、今朝【氷霊】のギルドで会った師匠からのお届け物です」
「え、わっ!」
いきなり投げ渡される皮袋。
僕は反射的に避けそうになる身体をその場に留め、その皮袋を受け取った。
中にはなんだか硬い感触。
「昨日迷惑をかけたお詫びだそうです。
確かに渡しました。それでは」
バタン、と閉まるドア。
僕は呆気にとられたようにそのドアを眺めた後、渡された皮袋へと視線を落とした。
そして恐る恐る中身を確かめてみる。
「これ、は」
拳ほどの大きさの綺麗に透き通った結晶。
それは──もし僕の間違いじゃなければ──【収納結晶】と呼ばれるものだった。
きっと僕が何年もの間楽に暮らせるほどの価値を宿している結晶。
「ど、どどどうしよう」
『もらッとけもらッとけェ!
お詫びッてんで貰ッたモンだァ!
返す方が失礼だろァ!』
それも、そうか。
僕はその【収納結晶】を皮袋の中に戻し、バッグの中にしまった。
それと同時に、案内人からの呼び出しがかかる。
僕は短剣を持ち上げると、闘技場の入口に向かって駆け出した。
=====
多くの視線に囲まれ、僕は闘技場の中心に立つ。
僕の惨めな敗北を望むような声や視線が一斉に降りかかってくる。
だけど今日は、いつもと違って身体が軽かった。
それは、昨日の師匠の言葉が心の中にいてくれているから。
「命を懸ける、覚悟」
──もしもの時は、勇気なんて置いて逃げること。
逃げてもいい。
ただ、走ることだけはやめない。
そうしていれば、勇気なんてものは後から勝手に付いてくる。
この言葉が僕を支えてくれている。
だから僕が挫けることはない。
この言葉によって心の中が澄みきっている限り、必ず。
きっと。
『────ヴヴゥ』
「え?」
檻の奥で聞こえたそのたった一つの唸り声に、全身の皮膚が一気に粟立った。
あ。
いや。
違う。
これは違う。
間違いだ。
誰かそう言って。
無理矢理ほじくり返される記憶。
それは、まるで心臓の内側を大量の百足に這いずり回られているような怖気。
それは、ようやく固まった瘡蓋を力一杯剥がされたような衝撃。
それは、僕にとっての恐怖の象徴。
澄みきっていた心の中に黒い雫が滴り落ちる。それは瞬く間に身体の隅々へと伝播していき、僕を恐怖で染め上げた。
あれだけ軽かった身体が、今は鉛のように重い。
そして僕は、檻の奥から顔を出すその絶望を見た。
「ひっ」
忘れられない。
忘れるはずがない。
隻腕の【
それはあの日、なんの力も持たなかった僕の前に立ち塞がってきた存在。
一度、僕の根幹にあった英雄への憧れといったものを粉々に打ち砕いた存在。
今目の前にいるのは、あの時に対峙した【大鬼】そのものだ。
『オイ! 大将ァ!
どうしたッてんだァ!』
五臓六腑が竦みあがっていた。
ぐわんぐわんと視界は歪み、イゼの声もどこか遠くに感じられる。
檻から放たれた【大鬼】は僕という獲物を視界に捉えるや否や、足音で無慈悲な旋律を奏で始めた。
一歩。また一歩と。
それは狂気な笑みを浮かべながら、動けない僕の元へと近づいてくる。
逃げろ。
逃げろ。
逃げろ。
僕の声で、師匠の声で。
その言葉は何度も繰り返される。
──ああ、だめだ。
──からだ、動かないや。
高く振り上げられる拳。
僕は一瞬先の『死』を悟った。
そして、純白の後ろ姿を見た。
=====
気付けば身体が勝手に駆け出していた。
懊悩を置き去って。
迷いを置き去って。
躊躇を置き去って。
理性を置き去って。
恐怖を置き去って。
期待を置き去って。
なにもかも。
全部全部。
全部全部全部全部置き去って。
他の闘技者の闘いへの介入は、ここ【闘技場】で最も厳しく禁じられていることだ。
だけど、知ったことか。
きっと、ここで介入しなくては、アイルは何もできずに殺されてしまうだろう。
この数か月間燻り続けていたアイルの中の“恐怖”という感情が、きっとこの再会をもって爆発してしまったのだ。
これは予感じゃない、確信。
アイルは死ぬ。
それだけは、させてなるものか。
交わしたばかりの決闘の約束。
それを果たすために。
わたしだけだ。
あの【大鬼】がアイルにとっての恐怖の象徴であることを知っているのは。
わたしだけだ。
この大勢の中で、これからアイルの歩む未来に期待を抱いている者は。
わたしだけだ。
あそこにいる因縁と、真っ向から向き合うことができるのは。
わたしだけだ。
アイルを助けられるのは。
「わたし、だけだッ!!」
これはまるで、わたしが殻を破るためだけに
わたしが殻を破るために必要となるもの全てが、そこには揃っていた。
あとはそれを、わたしがわたしの意志で拾い上げるだけ。
ここでわたしは、わたし自身を苦しめていた『弱い自分』と決別する。
視線なんて。
期待なんて。
もう、どうだっていい。
わたしが信じるのは、もうわたしだけだ。
「あああァ!!」
『ガ──ァ!?』
着地。
闘技場へと落雷のように降り立ったわたしは、アイルに『死』を振る舞おうとしていたその魔獣の拳を力一杯振り払った。
魔獣は少し後ずさると、わたしの顔を視界に映して憤怒の表情を露わにする。
当然だ。
その片腕を奪った相手との再会なのだから。
「はっ、はっ、ふうーっ」
疑問、不審、困惑。
観客から向けられるのは、これまで向けられていたものとは全く異なった視線。
賞賛や期待とは程遠い視線。
だからどうした。
わたしは今、前だけを見ていた。
「そこを退きなさい、
わたしを縛っていた鎖を引き千切る。
今ならなんだってできそうな気がした。
「〝わたしが通る〟」
それは魂の髄から上がったことば。
今のわたしの全てを表したことば。
強くなったわたしの証明そのもの。
その明確な輪郭を帯びたその〝
=====
闘技場を満たす金の粒子。
──それは、新たな【ギフト】誕生を祝う光。
「
一人の少女が導き出したその魂の証明を目にして。
一人の少女によって紡がれたその昇華した〝
闘技場という舞台を見下ろしていた銀の英雄──ベルシェリア・セントレスタは、微かな笑みと共にそんな言葉を零した。
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