10話:【魔導書】イゼゼエル


「あった」


 表紙に不気味な紋様の刻まれたその書物は、約二週間前のあの日最後に目にした場所へとそのまま横たわっていた。

 僕はその書物へ一歩一歩ゆっくりと近付いて行く。


「歩いちゃダメ! 走る!」


「は、はいっ!」


 鍛錬の一環であった“走り”を疎かにしていた僕の背中を師匠の声が叩く。

 僕は慌てて歩くのをやめた。

 残りわずかな距離を駆け抜ける。

 そしてしゃがみ込み、恐る恐る出した手でその書物を持ち上げた。


「あ、あの、起きてますか?」


 後ろで少し離れて立っている師匠に聞こえないくらいの声で書物にそう話しかける。

 そして一秒、五秒、十秒。

 待っていても返事がくることはなかった。


 おかしい。

 あの日聞いたあの声は僕の聞き間違いだったのだろうか。


「アイルー? 気になるものってその書物のこと?」


 書物を手にしたまま固まっていた僕を不思議に思ったのか、師匠がそんな声をかけてくる。


「は、はい。そうです」


「ふーん、ちょっと私にも見せてくれる?」


「え、は、はい、どうぞ」


 僕は素直に師匠へとその書物を手渡した。

 師匠は「ふんふん、んー?」と声を漏らしながらその書物を観察し始めた。

 数秒ほど観察し、最後に頁をパラパラとめくり終えると、師匠はその書物を閉じて僕に返してきた。


「うーん、確かに不思議に思っちゃうかもね。

 白 の書物なんて珍しいし」


「全頁、空白ですか?」


「うん。なーんにも書いてなかったよ」


 そう、なんだ。

 僕は手に持つその書物に目を落とし、首を傾げた。


「ここにあるってことはどこかの【魔宮】か【英雄の古跡】、それか【精霊の遺跡】から掘り起こされた貴重なものなんだろうけどね。

 ま、ここにこのまま置いててもどうせ誰も持っていかないだろうから、欲しいアイルが持っていきなよ」


「え、いいんですか?」


 驚くほどあっさりとそう言う師匠に僕は思わず聞き返してしまった。


「いいよいいよー。

 どうせこの前はここにある武器をあげようとして連れてきてたんだし。

 それがその書物になっただけ」


 僕は素直に「ありがとうございます」と口にしてその書物を胸に抱え込んだ。

 少し埃っぽいにおいが鼻腔をくすぐってくる。


「じゃ、用があったのはそれだけー?

 もう良いなら出ちゃうよ?」


「あ、はい!」


=====


「あら珍しい。

 今日は部屋で読書ですか?」


 宿へと戻りカウンターを走って横切ろうとした僕に向けて、女将さんがそんな言葉をかけてきた。

 その視線は僕の抱える書物へと注がれている。


 僕はそんな女将さんに軽く応じて、急ぎ足で自分の部屋へと向かった。

 バタンとドアを締め、念のために鍵もかけておく。


「ふーっ」


 ようやく落ち着いて一つ息を吐いた。


 だけど本番はこれからだ。

 僕は気合を入れて、目線の高さまでその書物を持ち上げる。

 とにかく色々と話しかけてみよう。


「あの──」


『んッばァァァァァああああああッッ!!』


「ぎゃあぁぁぁぁぁ!!」


 ひっくり返った。

 床に打ち付けた腰に鈍痛が走る。

 そのままの勢いで床をのたうち回りたかったが、これ以上の物音は下の女将さんを不審がらせてしまうと思い我慢した。


『ぎャーーーーッぎャッはァァァァァあああ!!

 よォォォォォォくオレをあそこから持ち出してくれたなァおいッ!

 感謝するぜェェェッ!!!』


「う、うるさ」


 堰を切ったように喋りだす書物。

 僕はその勢いに思わず仰け反りそうになった。

 これまでの沈黙はなんだったのかという思いから頬がヒクヒクと震える。


『よォォォォォォく聞きやがれェ!

 世界に一冊しか存在しねェ【魔導書】イゼゼエル!

 それがオレのォ名だァァァァァ!』


「いぜ、ぜえる」


『そォォだ!

 イゼでもエルでも好きに呼びャあ良い!

 さァァて、それじャあてめェの名前も教えてもらおうか!

 よォォやく会えた【適格者】サンよォ?』


 にやぁ、という音が聞こえてきそうなほど嬉々としているその声に、僕はゴクリと唾を飲み込んだ。

 そして「怯むんじゃない」と心の中で自分に言い聞かせると、意を決して口を開いた。


「アイル。アイル・クローバー」


『アイルかァ、良ィ名だ。

 気張ってクソする時の掛け声にャあ不向きだが、オレァ気に入ったぜ。

 よろしくなァ、大将』


「えっと、よろしく……お願いします?」


『あァ、堅っ苦しい敬語はイイ。

 気楽にやろォぜェ?』


「あ、わ、分かった。

 よろしく、イゼ」


『ケッケッケ』


 書物と会話をしているというこの作り話フィクション のような状況に未だ慣れることができないまま、僕は片言の言葉を紡いでゆく。

 そんな中『さてェ』と、またイゼの方から話を投げかけてくる。


『まずァ今がいつでここがどこかから、詳ァァしく話を聞かせてもらおうかァ。

 ずッッと埃くせェ場所で眠ッてたオレには状況がサッパリでなァ』


 そして長い夜が始まった。


=====


『オイオイオイィ!

 力尽きるにャあ早すぎんぜェ!?

 もッと話し相手になッてくれよ大将ォ!』


「でも、もう……限界、で」


 全然疲れた様子じゃないイゼに対して、もう気を失う寸前の僕。

 それも当然だ。


 今は一度も眠ることなく迎えた二回目の夜。

 もう丸一日も寝ずに僕はイゼの話し相手をさせられているのだ。


 今がいつか。

 ここはどこか。

 あれはどうなっているか。

 これはどうなっているか。

 アイツはどうなったのか。

 アイツはどうなったのか。

 アイツはどうなったのか。

 アイツはどうなったのか。


 イゼの口から出た殆どの名前は聞いたこともないようなもので、僕は正直に「分からない」と答えることしかできなかった。

 しかし、たまに僕が知っている名前に反応すると、イゼは活き活きとしてそのことについて話し始めた。


 そんなイゼが特に興味を示したのが、【英雄録】関連の話題だった。


『大将、今【英雄録】は何頁目まで埋まってる?』


 ──【英雄録】

 それは舞台上せかい で生まれた英雄譚の全てが記されている書物。

 未だ完成には至っていない世界最古の書物。


 あらゆる英雄譚が綴られた短編集。

 綴り手は、世界中に散らばった精霊たち。

 精霊たちは世界を舞台にして紡がれる僕たち人間の物語を常に観察している。

 そして、人々が紡いだ数々の輝かしい英雄譚が色褪せてしまわないよう、一冊の書物に記録として書き記すのだ。


 その書物こそが──【英雄録】と呼ばれるもの。


 この世界に生まれ落ちた人間なら誰もが知っている書物。子供から大人まで全ての人の憧れが詰まった結晶。


 原本は精霊たちの秘境にあるとされている。だから、僕たち人間が目にすることができるのは、その写本と呼ばれるもの。


 【英雄録】の頁の数だけ物語は存在する。

 その物語の数だけ主役えいゆう は存在する。


 僕は記憶を辿ってみる。

 一番最近目にした【英雄録】の写本の頁ページ 。一番新しい物語が綴られていた頁。


「えっと、一番新しい物語が……『【茨姫】と巌窟の人喰い蜥蜴』で、確か頁番号は【一四九八】だったと思う」


『うッッッッッッそだろマジかァ!!

 最後に目にした時から一〇〇〇頁以上も進んでやがる!!!』


 興奮気味にイゼはそう叫んだ。

 僕は背中に冷たい汗を感じる。

 最後に見た時から一〇〇〇頁以上?

 一〇〇〇頁の空白が埋まるのにどれだけの時間がかかるのか。


 そんなの僕には想像もできない。

 ただ理解できるのは、それには果てしない時間が必要であるということだけ。


「その、イゼは何歳なの?」


『あァ? 歳、トシか。

 数えちャいねえが、三〇〇〇は軽く越えてんじャねェかァ?』


「さ、さんぜん!?!?」


 僕は予想をはるかに上回ってきたその返答に、思わず卒倒しそうになった。

 三〇〇〇年以上前といったら、古代の英雄と呼ばれる伝説上の人物が何人も存在していた時代だ。

 それはまさに群雄割拠の英雄時代全盛期。


 その時代の、生き証人?

 もしかしたら、僕はとんでもない書物を手にしてしまったのかもしれない。


『まァイイ、それはイイんだ。

 問題はこれから。

 さァ大将よう、これからの話をしようやァ』


 そしてイゼはその話を切り出した。


『オレを必要としたッつうことはつまり、力を欲しがッてるッてことでイイんだよなァ?』


「っ」


 そう悪魔の契約を切り出すかのように話し出したイゼに、僕は思わず息を飲んでしまう。


 躊躇。不安。

 それらの感情が口を開けるという行為を拒ませようとしてくる。

 しかし、それらの感情は一瞬にして強さへの渇望に呑み込まれた。


 力が欲しい。もっともっと、強くなりたい。このままいつまでも足踏みしているわけには、いかない。

 脳裏をよぎるのは、銀と白の二つの背中。


「っ、っ」


 そして蘇る、シティさんの教え。

 ──常に自分に正直に。

 ──ありのままの自分を受け入れること。


 そうだ。

 僕は何より、もう自分自身に嘘をつきたくない。

 ありのままの“言葉”を口にしたい。

 魂からの言葉だけに、従いたい。


「……欲しい。

 まだ背中を遥か後ろから追いかけることしかできない僕が、あの人たちに並び立つことができるだけの強さが、欲しいっ」


 それは、確かに心からの言葉だった。


『あァ、良ィい子だ』


 僕の言葉にそう返すと、イゼは大きく息を吸い込むような音を出した。

 僕は咄嗟に身構える。


『これからオレとてめェは二人で一つだァ!

 だが覚悟しやがれ!

 どんな状況、どんな窮地でもオレがブレーキとして機能するこたァねェ!

 逆境上等ォ! オレと一緒に死に急ぎ人生楽しくやッてこうぜェ!!』


「お、おおー!」


『さあ、じャあ早速、でけェの一発ぶちかませる場所に案内しな!』


「え?」


 そんなイゼの一言に、僕は一抹の不安を覚えた。

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