5話:真価


 ──魔獣【大鬼オーガ 

 それは、多くの英雄譚の中でも恐怖の象徴として万人から恐れられてきた魔獣。


 強固な盾をも貫く一本角に、血に飢えた獣の双眸。

 浅黒い色の厚皮を限界まで膨張させている隆起した筋肉。

 虎をも素手で握り殺す、暴力の化身。


 僕みたいに特別な力も何もないような子供が出会ったりなんかしたら最後。

 当然、死ぬ。


『グるァ────────ッ!!』


「あ、ひ」


 限界まで引き伸ばされていた一瞬が、その雄叫び一つによってぶち破られた。

 僕は息の仕方も忘れ、みっともなくへたり込んだ。

 視界を一瞬真っ黒に染め上げる程の恐怖と口の中に広がる涙の味だけが僕を支配する。


「ひっ……ひぁ」


 嗚咽ともとれる乾いた悲鳴を漏らしながら、僕は両手の力だけで後退る。

 目の前でそんな体たらくを晒す格好の獲物をこの怪物が見逃すはずもない。


 怪物は狂喜の笑みを貼り付けた顔をこちらに向けると、一歩また一歩と、赤黒い血管の浮かび上がった両足で死の旋律を刻み始めた。


 もう、だめだ。

 逃げなきゃ、とか。

 助けを呼ばなきゃ、とか。

 そんな選択肢はとうに破砕していた。

 ただ泣き叫びたくなるくらいの死の予感だけが明瞭に感じられる。


「ぁぁ、ぁ」


 僕は、こんな状況に身を置く原因となったベルお姉さんを少し呪った。

 しかし、それが八つ当たりだと言うことも、同時に分かっていた。


 主役えいゆう という存在は、ずっと端役として生きてきた僕にとって身の丈の合わないものだということを心の中で理解していた。

 その上で滑稽な夢を抱き、縋り付いたベルお姉さんの手を取ったのは、僕だ。

 それでも、僕は本当に主役になりたかったんだ。


 そしてベルお姉さんとの約束を果たしたかった。

 でも、もうこの先、英雄に憧れることさえ叶わない。


 死んでしまうから。


『ヴウッ、フッ、フッ』


 眼前まで迫った大鬼。その右手に握られている赤く染まった棍棒が無慈悲に振り上げられる。


 僕は一瞬先の死を悟った。

 覚悟なんてできていない。

 できるはずがない。

 僕はただ洪水のように涙を流す双眸を限界まで瞠った。


 そして。

 そして。


『──きっと、やり遂げてね』


 その言葉が脳裏をよぎった。


「ッ」


 それは、電撃のように身体中を駆け巡った。


 僕は棍棒が振り下ろされる寸前、腰から上の可動できる部分全てを駆使し、棍棒のによる危害が及ぶ範囲から転がり出る。

 僕は衝撃に後押しされるように飛ばされた。


「ぅ、ぁ」


 身体中のあらゆる場所に痛みが生まれる。

 立ち上がりたくない。

 このまま楽になりたい。


 だめだ。

 変わらないと。

 強くならないと。


 これからもただキッカケを待っているだけでは、いつまでも端役のままだ。

 変わる、変わりたい。

 僕は今、変わりたい。


「あ、ああああああああああッッ!」


 その雄叫びは、決して誇り高いものじゃない。

 力の伴っていない見栄や虚栄に塗れた雄叫び。


『ぐるァァァァァああ!!』


 再び迫り来る死の一撃。

 それに対して僕はちっぽけな拳を握って前進する。


「ああああああああああッッ!」


 それは魂の叫びだった。

 今の僕の全てだった。

 彼我の距離はすぐになくなる。


 そして。

 そして──



 コマ落としのように眼前に現れた純白が、一秒先には僕の命を刈り取ろうとしていたその一撃を弾き返した。



「っ」


『ッッ!?』


 純白は音も立てずに地面へと降り立つ。

 眼前にあるのは、あの大鬼の巨体を退けたとは到底信じられないほど華奢な背中。

 穢れを知らない雪の妖精を思わせる後ろ姿。

 気品と気高さを備えた淑女の佇まい。


 ──【淑姫】


 僕はこの時、彼女が──シティさんがそう呼ばれている意味を本当の意味で理解することができた気がした。


「シティ、さん」


 その姿を目にして、見栄や虚栄によって形取られていた僕の仮初めの勇気は一瞬で瓦解した。体を包み込む脱力感に従うまま、僕は膝から崩れ落ちる。


「どう、して」


 助けてくれたのか。

 そう口にしようとした僕にシティさんは一瞬だけその金の瞳を向けると、小さな口を開いた。


「人の英雄としての真価が最も色濃く表れる瞬間。

 それは、弱者の立場にありながら圧倒的な理不尽と対峙したとき」


「……え」


「師匠がよく口にしてる言葉です。

 精霊の恩恵も、他者から伝えられる技も、何も手にしていない状態。

 何の力も享受していないからこそ、その人の真価は色濃く現れる、と。

 だから師匠は、こんな無茶をさせる」


 シティさんは、労うようにそんな言葉を紡ぐ。


「わたしも最初、今のアナタと同じようにここに放り込まれました。

 その時、わたしは師匠本人から真価を見定められていた。でも今回は、師匠はわたしをここに残して去った。

 ──それはつまり」


 巨体を起こす怪物。

 そちらに向き直り、シティさんは言った。


「わたしがアナタを見定めろ、ということ。

 気に食わないのなら、実際に自分の目で見て確かめろ、と。わたしはそう受け取りました。……そして、見させてもらいました。アナタの真価」


 そして短剣を構える。


「まあ……まあまあですね」


 そう言って、シティさんは飛び出した。

 そこからは流麗と表現するに相応しい剣舞の花が視界いっぱいに咲く。

 まるで、お返しとばかりに僕に“真価”というものを見せつけるように、シティさんは舞った。


 縦。横。斜め。

 大鬼の巨体には次々と赤黒い線が刻まれてゆく。

 しかし、シティさんの止まない手数に対抗するは強靭な肉体。短剣によって刻まれる浅い傷などものともせず、怪物は前進する。


 僕はこの物語の一頁のような光景を見逃すまいと目を限界まで見開いていた。

 そして不意に、気付く。

 攻防を繰り広げる二人を中心に、神秘的な色を宿す発光体が浮かび上がり始めていることに。


 もしかして、これは。


「精霊……」


 精霊。

 それは世界中のどこにでもいる存在。

 英雄譚の“綴り手”。


 精霊は常に新しい主役えいゆう を探している。


 物語の匂いがする場所に、精霊は集う。

 主役えいゆう の器に惹かれ、精霊は集う。

 そんな精霊の姿は、通常であれば人の目に映ることはない。

 しかし、集う精霊の数が飽和状態に達すると、こうして発光体となって姿を顕す。


「可視化できるほどの精霊が、こんなに」


 僕は初めて見るそんな光景に、呆然としていた。

 精霊までもがシティさんの物語を祝福しようとここへと集っている。僕は胸の高鳴りを抑えることができずに、再びその激戦へと視線を戻した。


 そして、違和感を覚える。


「っ、はっ、はっ!」


 激しく荒れる息。

 先ほどに比べ、今のシティさんの動きには精細さが欠けているような気がした。

 苦しそうにその顔を歪ませ、短剣を振るう。


 いつから?

 まさに、精霊たちの姿が目に見え始めてから。


 一体どうして。


 そんな疑問を抱くと同時に、遂に大鬼が横から繰り出した拳がシティさんの腹部へと抉り込まれた。

 ミシミシという音がここまで響いてくる。


「ッあ゛!」


「シティさん!」


 大鬼はその右手の確かな感覚に笑みをこぼした。そして、追い打ちをかけようと左手の棍棒を振り上げる。


 次の瞬間、これまでで一番の量の鮮血が二人を中心に飛び散った。


『──ッ、ァァァァァァァああ!?!?』


「調子に、のらないでください、っ」


 ぼとり、と音を立てて地面に落ちる大鬼の右腕。

 肉を切らせて骨を断つ。

 シティさんは腹部への一撃をもらう代わりに大鬼の腕を斬り落とした。


「っ」


 すると、シティさんは右腕の切断面を左手で抑える大鬼に背を向け、こちらへ向かって走り出した。


「はあ、はあ、立ってください。

 大鬼の戦意が戻る前に逃げます!」


「え、うあ!」


 シティさんは僕の腕を引いて無理矢理立ち上がらせると、もう片方の手で腹部を抑えながら剣の都の方に向かって走り出した。


 逃げる。

 それが、シティさんの下した決断だった。


=====


「はあっ、はあっ」


「はあっ、ひいっ、ひいっ」


 休むことなく走り続けた僕とシティさん。


 大鬼が追ってきていないか。

 別の魔獣が襲いかかってこないか。

 そんな不安に駆られながら走った。

 そしてようやくたどり着いた剣の都の外壁の門の前に、その人は立っていた。


「やっ、お帰り」


「はあっ、ふう……ベル、お姉さん」


「お疲れ様、アイルちゃん。待ってたよ」


「はあ、はあ、師匠」


「シティちゃん。待ってなかったよ」


 いつも通り冗談を口にするベルお姉さんの様子を見て、僕たちは地面へとへたり込んでしまった。

 そして先に息を整えたシティさんの方が口を開く。


「それで、師匠……今回はいつからどこまでが・ ・ ・ ・ ・ ・ だったんですか」


 シティさんの口から出たのは、そんな問い。僕にはその問いの意味がよく理解できなかった。


 しかし、ベルお姉さんはその質問に不思議そうな反応をすることなく答えた。


「うーん、実を言うと、最初から?」


「……最初とは」


「ギルドでアイルちゃんと再会したとき」


「っ、じゃあ」


「まあ、うん。

 アイルちゃんを弟子にしたことでシティが反対すること。

 ムキになって付いてくること。

 そして二人が一緒に帰ってくること。

 全部思ってた通りだったかなぁ。

 それに、二人が仲良くなることもね」


 あっけらかんとベルお姉さんはそう口にした。


「一緒に戻っては、来ましたが……別に、仲良くは」


 顔中汗でびっしょりにしながら途切れ途切れ言葉を紡いでいたシティさんは、最後まで言い終わることなく前のめりに倒れこんだ。

 それをベルお姉さんが優しく抱きとめる。


「あらー、内臓の傷が少し酷いみたいだね。

 魔獣の血も浴びてて衛生的にも良くない。

 すぐにギルドの医務室に連れて行かないと。

 アイルちゃんも付いて来て」


「う、うん!」


 ベルお姉さんの後を追い、僕は走り出した。


=====


「それで、どうだった?

 実際に魔獣を前にして戦うシティの姿は」


 傷を塞いでも気を失ったままのシティさんを医務室のベッドに寝かせたベルお姉さんは、部屋の外で僕にそう問いかけてきた。


「それはもうっ、すごいくらい、すごくて。

 えっと……攻撃は舞みたいに美しくて、僕の目には追えないくらい速くて。

 その、本当にすごかった」


 今ばかりは、あの情景を言い表すことのできない自分の語彙力の無さを恥ずかしいと思った。

 そんな僕の様子を見て、ベルお姉さんはその優しげな笑みを崩すことなく口を開く。


「うん、あの娘は特別なんだよ。

 でも──他に何か、感じなかった?」


「っ」


 全てを見透かされているようだった。


 僕の胸の中にあるたった一つの引っ掛かり。棘。

 口にしていいのか。

 そう躊躇する僕に、ベルお姉さんは視線で「大丈夫だよ」と言ってくれた気がした。

 それに後押しされ、僕は口を開く。


「途中から……多分、精霊の光が現れ始めてから、突然何かに縛り付けられているみたいに動きが悪くなったんだ。

 それこそ、こんな僕にも分かるくらいに」


「うん、そっかー」


 ベルお姉さんは僕のそんな答えを想像していたみたいに、大きく天を仰ぎ見た。

 そして「あーっ!」と髪の毛を掻き乱すと、


「……あの娘は、“期待に殺された才能”なんだ」


 そう、僕に聞こえるか聞こえないかくらいの大きさの声でぽつりと呟いた。

 そしてその呟きを皮切りに、ベルお姉さんは語り出す。


「この都に身を置くアイルちゃんならなんとなく気付いてると思うけど、あの娘、シティは今この都で誰からも期待されている存在なんだ。

 まだ、たったの十五歳の未発達で未完成な女の子なのに、みんなは【淑姫】なんて仰々しい名前までつけてさ」


 僕は黙ってその話を聞いていた。

 そんな話を僕にするのには、きっと何か理由があるからだと思ったから。


「本人は喜んでたよ、最初はね。

 少し前までは、ほんの少しでも功績で私に近づく度に、年相応な顔で笑ってた。

 でも、そんなあの娘は、あの娘自身を後押ししていた“期待”そのものに殺された。

 いや、今も殺され続けている」


「……」


「あの娘は、その過度な多くの期待を全部真正面から受け止めた。

 その全てに応えようとした。

 人々が期待する通りに。人々の期待を裏切らないように、って。

 そして気付くと──本当の自分が分からなくなっていた。

 そこにあったのは本当の自分じゃなくて、期待に作り上げられた自分だった」


「……そんな」


 僕はこの一か月間耳にしてきた【淑姫】という存在からは想像もできなかったその現実に、言葉を失うしかなかった。


「あの娘自身は気付いている。

 自分自身のあり方が間違っていることに。

 でも、人々はそれを否定しない。

 そのあり方が間違っていようと、期待を乗せて全てを肯定しようとしてくる。

 その歪みの中で、あの娘は壊れてしまった。

 あの娘の心の中には黒くて大きな染みができてしまった。

 そんなあの娘を人々は淑姫淑姫──って、全く凄い皮肉だよね」


「……」


「多くの期待しせん を向けられるほど、あの娘の力は縛りつけられていく。それは相手が人間だろうと精霊だろうと同じ。

 人々はそうやって苦しみながら成長してゆくあの娘を凄い凄いと褒め称える。

 本当はあの娘の才能はこんなものじゃないのに。

 だから──」


 そしてベルお姉さんは、僕の目を真っ直ぐに見て言った。


「そんな呪縛から解き放ってくれる存在が、あの娘には必要なんだ」


 それをできるのはキミだけだ、と言わんばかりに。

 思わず一瞬、息が止まる。


 僕? 僕がそんな役目を?


 僕が──……無理だ。

 そんな役目、僕には。


 僕はベルお姉さんの視線から逃れるように俯いて言った。


「どうして、僕にそんなこと。

 僕はシティさんよりずっと弱くて、なんの才能も持ってない。

 僕にそんな役目が務められるなんて、思えない」


「──それは、アイルちゃんがあの娘と正反対の存在だから」


 ベルお姉さんは迷うことなくそう答えた。


「ずっと、アイルちゃんみたいな子が現れるのを待ってた。

 誰からも“期待”され続ける【淑姫】と真反対にある才能。

 誰からも“期待”されていない、才能の原石」


「つ」


 あの日。

 一か月前に僕が何もかもを手放してしまったあの出来事が脳裏に蘇る。


 注がれる軽蔑の視線。

 真っ白になる脳内。

 喉からせり上がってきた吐瀉物の嫌な臭い。


 ──誰からも“期待”されていない。

 その一点においてのみで今の僕を上回ることのできる存在は、きっとここには存在しない。

 この顔に張り付いた『臆病者』の仮面は、一生外すことはできない。


「いい? アイルちゃん」


 俯く僕を見て、ベルお姉さんは口を開いた。


「人っていうのは、誰もが補い合って生きてる。支え合い、時にはぶつかり合い、その先に原石は玉へと磨かれていく。

 キミたちは正反対で、凸凹だ。

 きっとお互い、他の誰とよりも素直にぶつかり合える。

 あの娘の隣に居られるのは──アイルちゃんだけなんだよ」


「っ」


 その言葉は、僕の中の特に弱い部分へとストンと落ちてきた。

 そして、身体中に熱を持たせてゆく。


 ずっと、“端役”として生きてきた僕。

 誰からも期待を寄せられていない僕。

 そんな僕に生まれた、ひとつの価値。


 涙を堪えるみっともない顔を、僕は前に向けた。


「私を守れる主役えいゆう になる前に、あの娘を救ってあげて」


「っ、っ。うん」


 強くなろう。

 本当に変わるために。

 そして、助けを求める一人の少女の隣を歩いてあげられるように。


 そう誓った。

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