第58話

 余裕だと思った。

 人は切り替えが早くない。

 元から切り替えると決めていない限り反応はいつだって遅いものだ。

「偽物」

 その言葉が聞こえたタイミングでオレは左手を大きく上に挙げて、ガールフレンドに指示を出し逃げた。

 これで逃げ切れるそう思った。

 しかし、オレは侮っていた。非現実の存在をもっと考慮に入れるべきだった。

 男は飛んでオレたちの前に降り立つと、そのまま何かを初めた。

 異変に気づいたっと気にはもう遅く自分たちの体が少しずつ地面に沈んでいく、そんな情景が目に飛び込んできた。

 どれだけ抗っても抜け出せない。

「嘘だろ? 嘘だろ?」

「そんな、聞いてない。こんなことになるなんて」

 オレもガールフレンドも今何が起こっているのかわからず、ただ、抗おうとした。

 どうにか、底なし沼のようになってしまったコンクリートの道路から抜け出そうと必死になってもがいた。

「まだ、まだ、大丈夫。まだ、まだ、大丈夫だ」

「もう、無理だよ。もう体が、ほとんど」

「まだ、浸かりきってない。まだ、大丈夫だ」

 どれだけ、声では、口ではそう言っても現実は絶望的だ。

 自分でも驚くほどに目の前の恐怖が大きかった。

 親父の言葉に逆らおうとするほどの大きな恐怖だ。今までそんなことしなかった。考えもしなかった。

 だが、今の、目の前で起きていることのほうが何倍も恐ろしい。

 自分でも親父が極悪人が悪く言っても偽善者のレベルまで人が良くなったことが怖かった。

 そんなことは屁でもない。

 自分で自分の身にそれと同じかそれ以上に恐ろしいことが降りかかってきているのだ。

 とうに自分の視界は真っ黒になり、何も見えない。

 不思議なことに目に泥や石が入ることはないがそれでも遅々とした落下感は未だ体にかかっている。

 最後の指先が空気を触れる感覚がなくなったところで自分は全てを諦めた。

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