35話

「え……あ……」

 平打さんがここにいるなら、あいつがここにいてもおかしくはない。

 なぜそのことを考えなかったんだ、俺!

「べ……別に……」

 営業だというのに情けない。

 苦手な人物を前にして、上手く話すこともできないなんて。

「あの文房具に興味ゼロの沖君がまさか、こんな所にいるとはな。ちょっとはあれに懲りた感じ?」

 嘲るように、俺を見る。

 お前だって大して興味ないくせに!

 ――と、言い返したいところだが、この状況下では無理だ。

 やめておいたほうが賢明だろう。

「何をやったって、人間そう簡単には変わらないだろうね。ま、せいぜい頑張れよ。大して売り上げもない店舗に左遷されたんだろ? それをきっかけに辞めるかなと思ってたけど、結構粘ってんのな」

 完全に俺のことをバカにしている。

 言いたい放題だ。

 平打さんと同じく、同期の磯川いそかわ……

 元々俺のことを見下しているような節はあったが、今回俺が左遷されたことで本性を表したな!

 さすがに腹が立つ。

 相手にするだけ時間の無駄だし、もう大人なんだからとこれまで無視してきた。

「おい、磯川……」

 けどもう、同じオフィスで仕事もしていない。

 こいつと数字で争うこともない。

 磯川の言う通り、俺は大した売り上げもない店舗に左遷されたんだ。

 守るものなんてないんだから、今日くらい言い返してやる!

 ――あと数秒のところで、俺はこの目の前にいる同期の男に食ってかかるつもりだった。

 それを留まらせたのは……自分の背後にいる志摩さんだ。

 志摩さんが、ただならぬ空気に怯え、俺の服をギュッと掴んだことにより我に返った。

 急に、夢から覚めたように。

 そうだ……志摩さんがいることを忘れていた。

 それに、ここはイベント会場だ。

 人が沢山いる。

 取引先のメーカーだっているんだ。

 そんな所で……言い争いだなんて……

 やっていいわけがない。

「ちょっとちょっと、誰だか知らねぇけど、沖君に失礼じゃないっすか!?」

そんな俺の気持ちとは裏腹に、忘れかけていたあいつが俺たちの間に入ってきた。

 長船!

 まさかのここで、助け船!?

「は? 誰……?」

 乱入してきた長船に、困惑した様子の磯川。

「大して売り上げもない店舗って、学園前店のことっすか? あんた、ハイドランジアの人でしょ? 自分の会社が持っている店のことをよくそんなふうに言えるな!」

「ちょっ……長船さん!?」

 せっかく俺が我慢したというのに、お前がキレたら全てが台無しになるじゃんか!

 大体、何で長船が怒っているんだ!?

 ――ああ、くそ!

 ややこしいことになった!

 誰でもいい。何でもいい。

 俺には人のケンカを止める甲斐性なんてないから、誰か何とかして――!

「――はい、そこまで!」

 俺の願いが通じたのか。

 何とかしてくれる人が奇跡的に現れた。

「お客様が見ているってことを忘れないように」

 店長!!

 あれだけハコベラとハイドランジアに近づきたくないって言ってたのに!

「いや、だって! この人が学園前店のことを悪く言うから! 悔しくないんですか!? 秋谷店……ぎゃああああーっ!」

「黙れ、長船」

 長船は店長に右手で頭をつかまれた。

 どれだけ強くつかまれたのか……断末魔のような悲鳴をあげる長船。

 店長……この人、取引先……

「今度はどちら様……」

 磯川は、もう関わりたくないといった表情で言う。

 どちら様……

 あなたがバカにした店の店長です。

 俺の今の上司です……

 正直に言ったらますますややこしくなりそうだな……

 何で休みの日に、上司と文具イベントに来てるんだって話になるし。

 返事に困っていると、見かねた店長が何食わぬ顔で口を開いた。

「どうも。いつもお世話になってマス。千晴クンのいとこです」

 ――って、オイ!!

「いとこ……?」

 なんて微妙な嘘を!

 店長ならきっと上手いこと言ってくれるだろうと思った俺が愚かだった!

「妹がどうしても行きたいって言うから、文房具メーカーに勤めている千晴クンについてきてもらったんですよ。なぁ、妹よ」

 勝手に妹にされてしまった志摩さん。

 もう後戻りはできない……

 店長の嘘に乗るしかない……

「ふーん……」と、磯川は納得したような興味がないような……どちらとでもとれるような声で言った。

「じゃなきゃあお前がこんな文房具のイベントに来るわけないもんな」とも言いたげだった。

「……そろそろ行こうか。この人たちの仕事の邪魔しちゃ悪いし」

 店長に促され、待ってましたとばかりに俺は頷いた。

 ちなみに、何か言いたそうな顔をしている長船のことはすっかり忘れ去っていた。

「それじゃあ、俺たちはこれで。愛想のないやつだけど、これからも千晴のことをよろしくお願いします」

 あくまで親戚を装うつもりなんだろう。

 軽く店長は頭を下げた。

 ――つか、俺のこと愛想がないと思っていたのか!

 否定はしないけど!

「けどまぁ、真面目だし。今の仕事のことも何だかんだ気に入っているみたいなんで、あんまり悪く言わないであげてくださいね」

 ……。

 どこから聞いていたのかは知らないけど、店長は俺を庇ってくれているようだった。

 身内からそんなふうに言われて、気まずくならないわけがない。

 磯川と目が合ったが、先にそらしたのはあいつのほうだった。

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