閑話 初体験

「セリ、どうした? 顔色が悪いな」

「う……ごめん、ちょっと酔ったかも……」

「キュウン」


 王都へ向かう馬車の中、私は自分の荷物を膝に抱えてぐったりしていた。

 モルデンを出てまだ一時間だっていうのに、すでに馬車に酔ってしまったようなのだ。

 二頭の馬が幌のかかった荷台を引く乗合馬車は、乗客は座席の代わりに板貼りの荷台に直に座る。

 初めての馬車にはしゃいだ私は、外の景色を見ようと荷台の一番うしろを陣取ったんだけど、どうもそれがよくなかったみたいだ。


「あー、ここは車輪の真上だからな。揺れが大きいんだ。大丈夫か?」

「うん……」


 そもそも車輪は木だし、路面だって舗装されてない土の道。容赦ない下からの衝撃に、お尻もそうだけど脳みそもシェイクされてるみたい。ゴムのタイヤとかサスペンションとか、いかに偉大な発明だったのかが身に染みてわかった。

 でも、それ以上にダメージが大きいのが、馬車の中に漂うなんともいえない皮の匂いだったりする。

 恐らくなにかの皮を縫い合わせて作られた幌は、色からするとまだ新品に近い。だから匂いも生々しくて……うう、昔から鞣したばかりの皮の匂いって苦手なんだよね……

 

「水でも飲むか? それとも横になるか?」

「ううん、今はいい。水を飲んだら余計に気持ち悪くなりそう」


 口と鼻を手で押さえた私を、アイザックとカーバンクルが心配そうに覗きこむ。

 本当は、今すぐにでも馬車から降りてしまいたい。この匂いからも、激しい揺れからも、一刻も早く解放されたい。

 だけど、こんな場所で馬車から降りても自分が困るだけだ。それに馬車を止めたりしたら、他の人に迷惑をかけてしまう。……うん。そんなの駄目だ。


 下を向いて、ぎゅっと抱えた膝に額をつける。そしてこれ以上匂いを嗅がなくてすむように、口で浅く呼吸を繰り返す。

 そうやってひたすら気持ち悪さをやり過ごしていると、唐突に隣に座っていたアイザックが私を抱き寄せた。


「下を向いてると余計に気持ち悪くなるだろう。おら、我慢してねえで俺に寄りかかれ」

「……ん」


 大きく開いたアイザックの足の間に座らされて、うしろから伸びた腕が力の入らない身体を支えてくれる。

 普段だったら人前で恥ずかしいって怒るところだけど、今はそんな気力もない。されるがままに身体を預けると、長い指が私の頬をそっと撫でた。


「ったく、こんな真っ白な顔色になるまで我慢しやがって。無理すんな。なんだったら馬車を降りるか?」

「でも……こんなところで降りたら……」

「なあセリ、俺らは別に急ぐ旅をしてるわけじゃねえんだ。そんなこと気にすんな」

「……うん」


 もしこれが一人旅だったら、ずっと気持ち悪いのを我慢しなきゃいけなかったんだ……。それを考えると、誰かと、ううん、アイザックがいてくれて本当によかった。

 収まりのいい場所を探してもぞもぞと頭を動かしていた私は、見つけたシャツの隙間に顔をいれて逞しい胸に顔を埋めた。


「お、おい、セリ、なにしてんだ」

「んー……こうしてると、ちょっと楽かも」

「はあ?」

「アイザックの匂い……安心する……」


 仄かに香るシトラスの香りがほっとする。……そういえば柑橘系って、リラックス効果があったっけ。だからかな、アイザックの匂いってなんだか落ちつくんだよね……

 そんなことを考えながら、私は深く息を吸い込んで目を閉じた。


「眠れるようなら少し眠っとけ。そのほうが楽だ」

「……うん。ありがとうね……」


 やがて聞こえてきたのはトクトクという心臓の音。そして訪れたのは優しい微睡み──

 遠くでアイザックの低い声が聞こえた気もするけど、私はしばしの眠りに身を任せることにした。



「……おい、ジロジロ見てんじゃねえぞ」

「は、はい! すみません!」


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