第29話 イシスの涙
部屋に戻ったアイザックは私をソファに座らせて、履いている靴を慎重に脱がした。
「痛かったら言えよ」
「うん。でも、これくらい自分でやるから……」
「じっとしてろ」
恐らく靴の底を無意識で庇いながら歩いてたんだと思う。
擦れた踝は赤く腫れ、かかとはうっすら血が滲んでいるのが靴下の上からでもわかる。
実際に傷を見てしまうとますます痛みが酷くなってくる気がして、私はぎゅっと手に力を入れた。
「……一度傷を洗ったほうがいいだろう」
眉根を寄せて顔を顰めたアイザックは立ち上がり、しばらくするとお湯を張った桶を持って戻ってきた。そしてソファの前に座り込み、慎重に私の足をお湯に浸けた。
「湯が傷にしみるかもしれねえが、ちょっと我慢してくれ」
「うん、大丈夫」
「キュウーン…」
私の足を見つめるアイザックの顔は、真剣そのものだ。それはもう慎重に、お湯の中で靴下を脱がしていく。床に下りたカーバンクルもその動きをじっと見守る。
やがて血で張り付いていた靴下が全部脱げると、痛みに強ばっていた身体から力が抜けたのわかった。
「これは……痛そうだな」
じっと見つめるアイザックにつられて自分の足に視線を移す。踝とかかと以外も、小指の脇もすっかり皮がめくれて赤くなっているのが見えた。
「セリ、これはいつからだ? 昨日の依頼からか?」
「え? う、うん多分そうだと思う」
「お前なあ……」
アイザックは呆れたように首をふった。
「昨日は危険の少ない依頼だったし、俺が一緒だった。だが、それでもいつなにが起こるかわかんねえんだ。この足の状態で魔物に襲われて、お前は逃げ切れる自信はあんのか?」
「それは……ごめんなさい」
「これに懲りたら装備はちゃんと揃えろ。あとな、自分の体調はキチンと管理して、怪我をしたらすぐに治療しろ」
「はい」
怒ったように眉間に深い皺を寄せたアイザックは、立ち上がるといつものピンクの液体が入った小瓶を手に戻ってきた。
「こういう時こそイシスの涙の出番だな。セリ、足を出せ」
「え? イシスの涙……?」
険しい表情のまま私の前に屈み、慎重に瓶の中身を足に垂らす。傷口にピンクの液体がかかった瞬間、刺すような刺激にビクンと身体が竦んだ。
「んっ……」
「痛いか?」
「う、ううん、大丈夫。……あのさ、ちょっと聞きたいんだけど」
「ああ? なんだ?」
「えっと……イシスの涙って、なに?」
「イシスの涙? こいつのことか?」
アイザックはごくありきたりなもののように、手の中の小瓶を振ってみせた。
「前に言わなかったか? 王都のご婦人方に流行ってるってよ。まあ、何本もハイポーションを使って作ってるらしいから、効果は確かだと思うぞ。しっかし、そんなもんを毎日顔に塗るっつうんだから、お貴族様の考えることは俺ら庶民には……って、おい、どうした?」
……待って。だってイシスの涙って、すごく貴重で高価だって聞いた。
それに、アイザックはそれを探し回ってたって、好きな人にあげたんだって。
それって、カトレアさんのことじゃなかったの……?
突然黙り込んだ私を訝しむように、アイザックは眉根を寄せて見上げた。
「セリ、どうした。そんなに痛いならもうやめておくか?」
「違うの……あの、あのね」
「なんだ?」
「アイザックには、昔からずっと好きな人がいるって、聞いたの」
「はあ?」
「アイザックが誰ともパーティを組まないのは、その人が好きだからって。モルデンに来るのは、その人に会うためだって」
「……それで?」
「……それで、その相手がカトレアさんなんじゃないかって、そう聞いて……」
「お前はそれを信じたのか」
「……うん。だから邪魔しちゃいけないと思って」
頷くとアイザックは深く溜息を吐いた。そして立ち上がってソファに座り、自分の膝の上に私をのせた。
「セリ、よく聞け。俺が怒ってんのは、一人で夜の街を歩き回ったのと、あとは怪我をしたことだ」
大きな手が子供をあやすように、優しく頭を撫でる。
「あんな時間まで店に来ないで、待ってた俺とカトレアが心配するのはわかってただろう?」
「……うん。ごめんなさい」
「それ以外は別に怒ってない。むしろ俺のほうが悪かったと思ってる」
「え?」
「さっきセリの言ったことは、半分正解だ。俺がよくモルデンに来る理由は、確かにカトレアだ。俺が誰とも組まねえのも、カトレアに関係することだ」
「そうなの?」
「ただ、理由はセリが考えてるような色っぽいもんじゃねえ」
それから教えてくれたのは、私の知らないアイザックの過去だった。
アイザックには以前、お互いを相棒と呼び合う相手がいたんだそうだ。
それはまだ駆け出しの頃の話だ。ひょんな縁から共同で依頼を受けた相手とすっかり意気投合したアイザックは、その男と一緒に依頼を受けるようになる。
貧乏冒険者だった二人は狭い部屋で干し肉を囓り、ポーションもわけ、ギルドの昇級審査も一緒に受けた。そして気が付いた時には、二人はAランクの冒険者になっていたそうだ。
そんな苦楽を共に過ごした相手は、やがて結婚を機に引退を決意する。だけど、結婚資金を貯めるといって受けた討伐依頼の最中に大怪我を負い、帰らぬ人となってしまった──。
「……デュークっていってよ、俺なんかとは違って真面目ないい男だった」
アイザックはそこで息を吐き、私の頭に顎をのせた。
「カトレアは奴の連れ合いだ。あいつ、ああ見えて自分の拳一つで戦うタイプの、ちょっと有名な女冒険者だったんだ。そんなカトレアに一目惚れしたデュークが口説きに口説いて、ようやくくっついたっていうのによ。あんなにあっけなく死んじまいやがって」
「アイザック……」
「いつか冒険者なんて不安定な仕事から足を洗って、自分の店を持つっていうのが、あいつの口癖だった。デュークが死んだあと、カトレアはあいつの夢は自分が叶えるんだと、かなり無茶してあの店を開いたんだ。……まあ、だからつい気になってな。モルデンに来るたびに、顔を出してたってわけだ」
「そう、だったんだ」
「ククッ、カトレアにも言われたよ」
「え?」
「気を使って客を紹介しなくてもいい。余計なお世話だとさ。……なあ、セリ」
唐突に、ふっと熱い息が耳にかかる。ビクンと身体を竦めると、絡め取るように太い腕が私の身体を抱き寄せた。
「お前、俺とカトレアに嫉妬したのか?」
「……っ」
「あん時セリが飛び出したのは、俺とカトレアが喋ってんのを見て、嫉妬したからじゃねえのか? つまりよ、俺にちょっとは興味があるってことだよな?」
私はしばらく迷ってから、無言で頷いて返事をした。
「……あのね、すごく、楽しそうだったの」
「うん?」
「カトレアさんと話してる時のアイザックは、すごく楽しそうだった。お互い信頼してるんだろうなって、私よりずっと長い付き合いなんだろうなって、すぐわかったの。そんな時に、アイザックはカトレアさんが好きなんだって聞いて……」
それだけじゃない。アイザックの拠点が王都だって、私だけがそれを知らなかったのも、すごくショックだった。
私はアイザックにとってどういう存在なんだろう。大事なことを話せないほど子供だと思われてる? それとも同情と責任感で世話をしてるだけ?
──でも、私にだってアイザックに話せていないことがある。
私は意を決してアイザックの顔を見上げた。
「……アイザック。あのね、私、王都に行って調べたいことがあるんだ」
「調べたいこと?」
「うん。それで、もし私の調べてることに答えが出たら、その時は……アイザックに話したいことがあるの」
アイザックの瞳が一瞬戸惑ったように揺れる。私はそれを見逃さなかった。
「あの……王都になにかあるの?」
「いや、それなんだが……参ったな」
アイザックは天井を見上げ、困ったように自分の頭を掻いた。
「セリ、悪い。この間話してた指名依頼なんだがよ、結局受けることになっちまったんだ」
「指名依頼? あれ、断ったんじゃなかったの?」
「いやあ、まあ、断ったはずだったんだがなあ」
なぜか言いにくそうに語尾をぼかされて、私は首を傾げた。
「あー……つまりだな、王都には一緒に行けなくなった。あと一週間したら、俺は出発しないといけねえんだ」
「ふーん、そうなんだ。大変だね。出発ってどこに行くの?」
「は? そんだけか?」
「え? そんだけって?」
「いや、もっとこう、俺と会えなくなるのが寂しいとか、離れたくねえとかよ、そういうのはねえのかよ」
「えっ? アイザックと会えなくなるの!? すごい遠くに行くとか、もう戻って来れないとか、そういうやつ?」
「は? だってそりゃあ……」
「そっかー、指名依頼って大変なんだね。私はてっきりこの間のダンジョンの依頼みたいに、誰かと組んでやるんだと思ってた」
驚きのあまり声を上げた私に、アイザックも驚いたように目を瞠った。
「……いや、待てよ。確かに依頼を一人でやれとは言われてねえな。それに最悪、女連れでも王都までは一週間もありゃあ行ける距離だ。まずは一旦セリと王都に行って、それからモルデンに戻ってもギリギリ間に合うな。それに俺がしばらくモルデンを拠点すりゃあ……」
「アイザック? どうしたの?」
ブツブツとなにかを呟いていたアイザックは、顔を上げて私と目を合わせると、それはもう悪そうな笑みを顔に浮かべた。
「よし、セリ。時間がもったいねえ。明日になったら王都へ向けて出発すんぞ」
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