第8話 背中の勲章
激しく咳き込みながらも、私は咄嗟に置いてあったタオルで身体を隠した。
「ケホケホッ、ア、アイザックなに? どうしたの?」
「クソッ、だから一人じゃ入らせたくなかったんだ」
「え?」
「ったく、風呂で溺れてんじゃねえよ。心配させやがって」
「え……? あ……」
よほど慌てたのか、湯船の中にしゃがんで私を抱きかかえるアイザックは、なぜか髪の毛までびしょ濡れ。しかもシャツやズボンはもちろん、腰の革ベルトに差しているナイフまで、すっかりお湯に浸かってしまっている。
「ごめんなさい。……心配、した?」
「お前なあ、そんなの当たり前だろう? 急に姿が見えなくなった時は心臓が止まるかと思ったぞ」
「ええっと……でも私、溺れてないよ?」
「は?」
「その、ちょっとお湯の中で考え事をしてて……。あと、広いお風呂が久しぶりで嬉しかったから、潜ったら気持ちいいかなって、つい」
「……潜る?」
「うん」
「……んだよそりゃ」
しばらくの間まじまじと私を見つめていたアイザックは、やがて空いた手で顔を覆い、天井に向かって大きく息を吐いた。
「……あー、なんだ、つまり俺の早とちりか。怒鳴っちまって悪かったな」
「ううん、私のほうこそごめん。潜ったりして紛らわしかったよね」
「いや、いいってことよ。セリが無事ならそれでいい」
「でも、ナイフも濡れちゃって……大切なものなんでしょう?」
「まあそうだが……役得と言えば役得だしな。セリ、お前もうちょっと肉をつけたほうがいいんじゃねえか」
「え? あっ、わあああああああああっ!!」
アイザックの指摘に、私は慌ててしゃがんで両手で胸を覆った。
そんな私の様子がおかしかったのか、背後でアイザックの押し殺したような笑い声が聞こえる。
「もうやだ! 見るな! 早く出てってよ! アイザックの馬鹿!!」
「ククッ、悪かった。だが、減るもんじゃねえしいいじゃねえか」
「そういう問題じゃないし! だいたい私は……」
「おいセリ、ちょっと待て。背中をよく見せろ」
突然バスルームに響いたのは、さっきまでのふざけた口調とは違う固い声。
急に張り詰めた空気に驚いてうしろを振り向くと、アイザックは怖いくらい真剣な目で私の背中を見つめていた。
「な、なに? どうしたの?」
「いいからじっとしてろ。セリ、背中に触るぞ」
ゆっくりとアイザックの指が右の肩甲骨の下辺りに触れ、線を引くように横に移動する。
まるで診察みたいな慎重な指の動きが、かえってくすぐったい。思わずビクンと震えたのを誤魔化すように、私はぎゅっと身体に力を入れた。
「痛いか?」
「ううん、痛くはない」
「これはどうだ?」
一旦離れた指が、今度は背骨に沿って下に移動する。そして背中の真ん中辺りで止まり、そこを確認するように上から押した。
「く、くすぐったいよ。なに? 一体どうしたの?」
「……怪我の痕が浮いてきてやがる。風呂で身体が温まったせいだな」
「怪我の痕?」
「ああ。覚えてねえだろうが、セリが倒れた時、お前の背中には毒針が刺さったままだった。背中に赤く浮いてきてんのは、恐らく毒針が埋まってた場所だな」
「痕って……目立つの?」
無言で私の背中を見つめるその表情は、怖いくらい真剣だ。私の質問に、アイザックはゆっくり首を振った。
「いや、大丈夫だ。ただ……もったいねえと思ってな」
「もったいない?」
「ああ。こんなに綺麗な肌に痕が残っちまってよ。……女なんだ。気になるだろう?」
アイザックのその言葉に、ビクンと肩が跳ねた。
「……いつ気がついたの? 私が女だって」
「背中の治療をした時に気が付いた。……セリ、すまない」
「すまないって……どうして?」
「あの時お前が女だって気が付いてもっと早くに処置してりゃあ、こんな傷痕は残らなかったんじゃねえかと思ってよ」
「それは違うよ。怪我をしたのは私の責任だし、そもそもアイザックとは偶然ギルドで会っただけで、知り合いでもなかったんだから」
あの時、私は採取に夢中になるあまり、普段なら立ち入らない森の奥まで足を踏み入れていた。
ちゃんと用心してれば、ううん、その前にポーションを持ってたら、少なくともこんな風に迷惑をかけなかったに違いない。
「この怪我は私の慢心が招いたっていうか、完全に自業自得だよ。アイザックが謝る必要なんてない。むしろ迷惑かけて謝らなきゃいけないのは、私のほうだから」
「セリ、だがよ」
「それにさ、身体が温まった時に浮いてくるってことは、普通にしてればわからないんでしょう? 背中なんて自分では見えないから気にならないし、ほら、冒険者の勲章みたいでカッコいいじゃん。だからアイザックも気にしないで……あっ」
その途端、アイザックは怒ったように強く私の肩を引き寄せた。
「……なにが勲章だ。無理しやがって」
「あ、アイザック……?」
閉じ込められた腕から感じるアイザックの体温が熱くて、なんだか居心地が悪い。濡れたシャツから透けて見える厚い胸板に、心臓がドキドキする。
「なあセリ、お前本当は冒険者みてえな荒事をする人間じゃねえだろう。こんなに華奢な身体で綺麗な肌してんだ。元々はどっかいいとこのお嬢さんなんじゃねえか?」
「……え?」
「お前、一体何者だ?」
低い声で囁かれた唐突な問いかけに、ギクリと身体が固まった。
でもそんな私の様子に構わず、アイザックは話を続ける。
「ここらの人間なら、普通はこんな風呂の使い方はおろか、見たことだってねえはずだ。それをお前は『広い風呂が久しぶりで嬉しい』と言ったな? つまりはこんな風呂を、普段から使うような家の出っつうことだろう?」
「それ……は、」
「そんなお嬢さんが、なんで一人でモルデンみてえな辺鄙な田舎にいる?」
ぴちゃん、ぴちゃんと、水滴が落ちる音が、静まりかえったバスルームに響く。その音を聞きながら、私は必死で自分の考えをまとめていた。
……どうしよう、私、怪しまれてるんだよね?
なんて言えばいい? どうやって誤魔化す?
それとも正直に、私が違う世界から来た人間だって打ち明けるべき……?
いつも考えてた。誰かに全て打ち明けたらどうなるだろうって。
ある日突然違う世界からやってきたことを全部話して、相談にのってもらえたらって。
でも、もし信じてもらえなかったら?
妄想癖のある、気味の悪い奴だって呆れられる?
逆に利用価値があるって思われたら?
──アイザックを信用しても、大丈夫なの……?
熱いお湯に浸かっているはずなのに、背筋がキンと冷たくなっていく。喉になにかが詰まったみたいに苦しくて、空気が上手く吸い込めない。
なんて言えばいいのかわからなくて黙っていると、私を抱きしめるアイザックの腕が緩んだのがわかった。
「……いけねえ、これ以上ここにいるとのぼせちまうな。そろそろ風呂から出るか」
アイザックは私を抱いたまま立ち上がり、置いてあったバスタオルで私を包んだ。そしてそのまま部屋を移動すると、ベッドの上に下ろした。
「なあセリ、俺はお前を困らせたいわけじゃねえんだ。だからそんな泣きそうな顔すんな」
「あ、あのね……私ね、」
「これ以上は無理に聞かねえから、安心しろ」
「う、うん……」
「ちょっとじっとしてろ」
アイザックはおもむろに私の髪を拭き始めた。
「え? あっ、ねえ、髪くらい自分で拭くから」
「ククッ、これは役得だから気にすんな。俺が全部世話してやるって言っただろ? しかしセリの服を用意すんのをすっかり忘れてたな。あー……女が着れそうな服はなんかあったか……?」
おどけたような態度や乱暴な言葉遣いとは裏腹に、私の髪を拭くアイザックの手つきはすごく優しい。
きっと私が困ってるのを察して、話題を逸らしてくれたんだろう。その気遣いが嬉しくて、逆に心がぐらぐらしてしまう。
「アイザック、あの、あのさ」
「ああ、なんだ?」
「えっと……」
頑張って口を開いても、上手く言葉が出てこない。
だって、なんて言えばいい?
私は日本から来ましたって、バイト先に行く途中に転んで気が付いたらここにいましたって、だからこの世界の人間じゃないんですって、そう話すの?
……なにもかも話して、アイザックに頼ってもいいの……?
何度も口を開いては閉じる私に気が付いたのか、うしろでアイザックがフッと笑った気配がした。
「セリ、無理すんな」
「無理、なんて……」
「俺はセリを追い詰めるためにこんな話してるんじゃねえんだ。それはわかるな?」
「……うん」
俯いてしまった私の髪を、アイザックはタオルで優しく拭き続ける。
「お前にも色々と事情があるのはわかってる。でなけりゃ男の振りなんぞしてねえだろう」
「うん」
「なあセリ、俺はこう見えてもAランクの冒険者だ。腕はいいし口も堅いし結構頼りになるぞ? それにいい男だろう? ……だからよ、いつかお前が俺を信用できるようになったら、そん時に話してくれればいい」
「……うん」
アイザックはぽんと私の頭を撫でた。
「よし、終わりだ。久しぶりの風呂で疲れただろう。夕飯までゆっくりしてろ」
「アイザック……あのね、あの……」
「なんだ?」
「……ありがとう」
「ククッ、いいってことよ。さっきも言ったろう? これは役得だって。だが、そうだな……」
私の頭を撫でていたアイザックの手が顎へと移動して、顎を掴んで上を向かせた。
「礼ならこっちをもらおうか」
「え……?」
驚いて開けたままの唇に降ってきたのは、軽く触れるだけの優しいキス。
一瞬なにをされたかわからなくて呆然とする私を見て、アイザックはニヤリと笑った。
「確かにもらったぜ」
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