第四十五話 先生、さようなら

 柴田教授の顔が凍った。

「蓮台寺くん、ありがとう。でもそれじゃ、伝わらない」

 与那は蓮台寺のほうを見て、言った。

 与那が柴田教授の前でしゃべれるかどうかも怪しいと思っていた蓮台寺は、驚くしかなかった。

「何を言っているのかね、名立さん。きみがわたしをバカにするような態度をしたのは、わたしのせいだとでも言うのかね」

 柴田教授は、蓮台寺が先週の授業で見た、有無を言わせず相手を威圧する調子で言った。しかし、与那はもうひるまない。

「バカにしてはいません。……ですが、昨年、先生がわたしを押し倒したときから、顔を見るのもしゃべるのも、辛かったんです」

 押し倒した。はっきりと与那はそう言った。蓮台寺は、あらかじめ聞いていたこととはいえ、また聞くのが辛かった。セクハラの当事者がそのセクハラのことを思い出したり、説明したりするのは、それ自体が苦痛だ。与那の様子を見れば、蓮台寺にもそれがわかった。

「押し倒す? バカな。あれは合意だ。あの場にいた学生もそう証言するだろう」

 柴田教授は、懇親会に来た時点で「合意」があったと言いたいのだろう。そんなことはふつうは通らないが、その場にいた学生がそう主張すれば、別かもしれない。少なくとも、学部長を守ることで利益を得る者は、その主張に喜んで乗るだろう。

「いえ。わたしにあったのは、先生とお話しする合意だけです。今までずっと、どうしてわたしはあのとき先生と……二人だけになったのか、考えていました」

 「二人だけ」というところで、与那の声は震えた。

「きっと、わたしは先生に甘えたかったんだと思います。そこまではわたしの責任です。でも、その先は、先生の責任です」

 柴田教授の顔は真っ赤になっていた。蓮台寺がいなければ、どうなっていたかしれない。それでも柴田教授は平静を保ちつつ言った。

「ほう。わたしがきみを押し倒した証拠はあるのか」

 密室で行われるセクハラに、通常、証拠などはない。痴漢が現行犯でないと逮捕されないのと同じ理屈だ。

「押し倒したことが問題じゃないんです、先生」

 いや、ふつうそこが問題だろう、と思う蓮台寺だったが、与那の場合は、おそらくより深刻な問題がそこから生じたのだろう、とも思った。信じていた者に裏切られたという、心の傷だ。

「わたし、ずっと、先生が言ったことを聞くのがいいことだと思っていました。柴田先生だけじゃないです。ずっと前から」

 柴田教授は、押し倒したことが問題じゃないと聞いて少しは安心したのか、黙って与那の言葉を聞いている。

「先生が合意があったといえば、合意があったと。謝罪しろといえば、悪いことをしたのだと。そう思うのがいい生徒であり、学生だと。今まで、そう思おうとしてきました」

 合意の有無や物事の良し悪しは、先生が一方的に決めることではない。

「でも、今ははっきりと確信をもてます。合意はありませんでした。悪いこともしていません」

 それは、初対面のときに蓮台寺が感じた与那、言ってみれば、第一印象の通りの与那だった。外面と内面が一致した、本当の与那を蓮台寺は見た気がした。

「……証拠はないんだな」

 柴田教授の関心は、あくまで証拠の有無だ。与那の必死の告白にも、詫びるそぶりすらない。

「証拠のあるなしなんて、名立さんにわかるわけないじゃないですか、先生」

 蓮台寺が口を挟む。与那が本当の自分を取り戻したとしても、これ以上、柴田教授の研究室、相手のフィールドで戦いを続けるわけにはいかない。与那は限界のはずだ。

「セクハラがあったとしたら、その証拠の有無を被害者に聞くのは、それ自体、ハラスメントになるかと思います」

「セクハラがあったとしたら、だが」

 柴田教授は念を押す。

「名立さんが先週の授業で先生に応えなかったということについては、体調不良が理由だと名立さんも言っているわけですから、それ以上のことをここで話しても仕方がない気がします」

 蓮台寺はそう言って、立ち上がった。

「柴田先生、もういいですよね。名立さんも」

 蓮台寺は、与那にアイコンタクトした。与那もそれに気づき、頷く。言うべきことは言った。あとは相手の出方を待つべきだ。

「……わたしとしてはセクハラを疑われて不本意だが、この場は確かにそういう場ではない。帰っていいぞ」

 柴田教授は、顔を赤くしたまま言った。それでもまだ、気が収まらないようだ。

「名立さん、次に呼ばれたときは、一人で来るように。第三者がいると腹を割ってしゃべることができないからな」

 与那の顔から血の気が引いていく。

「女子学生に男子教員が一人で研究室に来るように言うのは、セクハラですよ、先生」

 すかさず蓮台寺が言った。

「この発言に関しては、ぼくが証人になります」

 今度は柴田教授が青ざめていく。

「バカな。文脈から判断したまえ」

「文脈? セクハラ疑惑についてお話されてましたよね。その文脈で被害者と目されている女子学生に加害者と申し立てられている男子教員がかけたことばですよ?」

 蓮台寺は冷静だ。

「……失言だ。取り消す」

 セクハラ発言を取り消すことができれば、被害者も発生しない。

「先生、少なくともこの発言は問題と思います。名立さんの体調がよくならないようなら、ぼくからしかるべくところで問題にさせていただきます。失礼します。名立さんも行きましょう」

 すると、与那は立ち上がって言った。

「先生、さようなら」


 

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