第四十四話 でも、それは先生の責任です
柴田教授は、蓮台寺の出席停止にはたいして興味をもっていないようで、すぐに話題を変えた。
「名立さんと蓮台寺くんは、どういった関係なのかね? 名立さんがわたしのところに来た理由を知っているんだろう? 友達に聞かれたいこととは思えないが」
与那の表情が強張るのが蓮台寺にはわかった。
確かに、教員に名前を呼ばれたのに無視するのは、学生としては非行だ。だから、柴田教授が、授業中に与那が教員を無視したという理由で呼び出されたと他の教員が知ることになっても問題はない。その呼び出し自体が理由のない呼び出しでハラスメントだとはいえない。
ただ、学生のほうに無視する理由がある場合も、もちろんある。
学生を頭ごなしに怒鳴る教員は、学生の個々の事情に考えが及ばない。学生が授業や教員をバカにしたり、無視したりするのには、抗議の意味がある場合もある。遅刻や欠席すらそうだ。それに、学生は経済的事情でバイトを複数かけもちしていることもあるし、誰でも家族関係や人間関係で苦労が重なることもある。遅刻や欠席、居眠りのすべてを怠惰や自己管理不足などの一言で済ませる教員は、きっと苦労知らずで恵まれた環境にあったに違いない。
もっとも、与那が柴田教授を無視した理由は、そのどれでもなかった。
柴田教授は、蓮台寺に座るように促した。蓮台寺は、与那の隣の椅子を少し動かして、やや離れたところに並んで座った。与那は身じろぎした。
与那も蓮台寺も何も言わないでいると、柴田教授は冷ややかに言った。
「名立さん、きみは授業中にわたしがあてたにもかかわらず、無視した。なぜだ?」
与那は、硬直したまま、何も言わない。いや、言えない。ただ黙って、柴田教授を見ている。
柴田教授は、ため息をついた。
「謝罪してくれれば、水に流そうと思うのだが?」
謝罪。はたして柴田教授は、どんな謝罪を与那に求めているのだろうか。ここでいったん口頭で謝っても、あとになって誠意を示せという可能性は高い。それになにより、謝罪とは自分に非を認めることだ。
与那は目を伏せ、黙っている。黙っているのは同じだが、それまでの様子とは少し違うように蓮台寺には思えた。さっきまで与那は柴田教授を見ながら固まっていた。しかし、今は柴田教授を見ていない。まるで、表情を見せたくないかのようだ。
柴田教授は、そんな与那を見て少し苛立った様子で立ち上がった。
「何も言うことはないのか?」
柴田教授は長机の前まで来た。そして、今度は蓮台寺に向かって言った。
「名立さんが授業中にわたしを無視したことについて、きみはどう思う?」
蓮台寺は、先週の授業と同じような調子で、自分の主張を述べた。
「一般的に言って、学生が先生を無視するのは、よくないと思います。授業に対して消極的すぎますし、少人数クラスだと授業自体が成り立たないこともあるかもしれません」
柴田教授は、ほう、と驚いた顔をした。
「蓮台寺くん、きみはなかなかよく考えているようだ。カンニングする必要があるとは思えないな」
蓮台寺は、懲戒委員会に入っていなかったこの学部長を、少し見直しそうになった。だが、これは、見せかけだ。あるいは、同性に対してだけ見せる顔、なのかもしれない。いかにも公正な上位者といったそぶり。
「ですが、無視するのに理由があることもあると思います。よ……名立先輩は授業に消極的なタイプの人とは思えません。体調不良のように見えました」
体調不良。それが、蓮台寺の考えたこの一件の落としどころだ。柴田教授も、来たのが与那だけだったらどんなセクハラをしたかわからないが、蓮台寺がついてきてしまった以上は、この落としどころに乗り、いったんはこの場を収めたいはずだ。与那はその前に授業中に吐いているし、心因性の体調不良なのは間違いない。蓮台寺は嘘は言っていない。
「そうだな、確かに先週、名立さんは具合が悪そうにも見えた。そうなのかね? 名立さん?」
具合が悪そうに見えたのに、自室に謝罪に来るようにその授業後に与那に要求したというのなら、支離滅裂だ。蓮台寺は、柴田教授は真っ黒だと確信した。
話が与那に振られ、与那はさらに身体を硬直させた。そうです、の一言で済む、頼むからそう言ってくれ、と蓮台寺は心の中でつぶやいた。しかし、それは問題の先送りにすぎないことも気づいていた。
「……そうです」
与那は声を絞り出していた。
ただ、与那の言葉は、それでは終わらなかった。
与那は顔を上げた。その顔は、もはや無表情ではなかった。怒りに満ちていた。
「でも、それは先生の責任です」
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