第三十九話 ね。汚れてるよね

「わたしも、人文学部は必要って言えれば、きっと楽しいんだろうなー」

 蓮台寺にも、そう言えるのだろうか。偏差値で選んだ学部に。

「蓮台寺くん、わたし、きみに言っておきたいことがあるんだ」

 蓮台寺が戸惑っていると、突然の告白予告だ。蓮台寺は、心臓が早鐘を打つ。

「初めて会ったとき、あの、学内のコンビニでね。わたし、きみのこと……」

 与那は、そう言って、蓮台寺を見つめた。蓮台寺は、目を合せられない。

「オカシイ人かと思っちゃった。だってそうよね? コンビニで何も買わずにふらふらしてるんだから」

 ひどすぎる。だが、確かに、あのときの蓮台寺は挙動不審極まりなかった。

「そのあと、亜有利ちゃんからきみのことを聞いて、ちょっと期待できるかもって思った。持ち込み可のテストじゃないのに、『うっかり』持ち込むなんて、並みのおマヌケさんじゃないけど、点数を取りたい気持ちはあるってことよね」

 亜有利や亜有利の交友関係にノートテイクを依頼する気はまったくなかった、ということが蓮台寺にはよくわかった。

「亜有利ちゃんはわたしの高校の後輩で、よく知ってるんだけど、なんていうか、いろいろと緩いコだから、頼りにならないし。かといって、一年生にほかに知り合いはいなかったから」

 亜有利も与那と同じ高校だったことに、蓮台寺は驚いた。だが、地方大学だ。地元出身の学生は多い。

「でも、驚いたよー。円香はきみのノートすごい褒めるし。茉莉も、きみこと、楽しそうに話すし」

 茉莉がどんな話をしたにせよ、リ・リベンジポルノの話なのは間違いないだろう。

「それに、怜子とまで仲良くなってて。わたし、びっくりした。このお泊り会、蓮台寺くんが参加するの、よく怜子が許したなって思うの」

 蓮台寺と怜子とは、あまりにも接点がなさすぎた。かたや読モ、すなわち読者モデル。かたや非モ、すなわち非モテ男子だ。だが、あれやこれやで、今では連絡先を交換している。というより、怜子からかかってきた電話の番号を蓮台寺が登録しただけだが。

「ごめんなさい。みんながきみのことをこんなに気に入るなんて、ぜんっぜん思ってなかった。きみのこと、ずっとバカにしてた」

 そんなことを告白されても困る、と蓮台寺は思ったが、口には出さなかった。無視されていると感じていたのは、気のせいではなかった。半ば予測していたことではある。だが、実際に聞くと辛いものがあった。

「でも、『なんでもしてあげる』って言ったのは本気なの」

 話が意外な方向に急展開した

「わたしみたいなのができることでいいなら、ね」

 蓮台寺は与那の顔を見た。そこに浮かぶのは、自嘲的な微笑み。

「『わたしみたいなの』、いったいどういうことですか」

 蓮台寺は聞かざるをえなかった。聞いてほしいようにも思えた。

 与那は、だよね、とつぶやいてから、一口、アイスコーヒーだった氷水を口に含んだ。

「柴田先生のセクハラの話、もう円香から聞いてるよね」

 蓮台寺には、嫌な予感しかしない。

「わたしね、柴田先生と仲良かったんだ。今でも、柴田先生はそう思ってるかもしれない」

 なるほど、それで柴田教授は授業で与那に粘着していたのか、と蓮台寺は納得した。

「柴田先生の『日本文学Ⅰ』は面白かったよ。きみも来期受けると思うけど」

 そのとき、蓮台寺が一年生で『日本文学Ⅱ』に潜り込んでいたことがバレるはずだ。それがどう転ぶかまでは予測できないものの、蓮台寺には不安要素だ。蓮台寺のそんな不安を与那は読んでいた。

「柴田先生は、授業に潜り込んでいた学生がいたくらいで怒らないよ。むしろ、喜ぶと思う。柴田先生、学生に絶望してるから。まだこんな学生いたんだーって」

 挙手を求めても学生は発言しない、という柴田教授の言葉は、学生の消極性に対する失望のあらわれだったようだ。

 それにしても、セクハラ教師に「先生」をつけるのは、確かに不愉快だ、と蓮台寺は思った。確かに怜子の言うとおりだ。しかし、その「先生」に問題があるのだから仕方がない、と蓮台寺は思った。

「でね、『日本文学Ⅰ』のテスト、持ち込み可だったんだけど、わたしは八十点だったの。二十点、どこで落したのかわからなくて、柴田先生のところに行った」

「研究室で、二人きりになったんですか?」

 蓮台寺は被り気味に口を挟んだ。すると、与那はかぶりを振った。

「いいえ。授業のあと、教室でね。そうしたら、ゼミで飲み会をするから、そのときに説明するって言われた」

 ゼミとは、「一年生ゼミ」などと限定しない限り、ふつうは三・四年生の少人数クラスを指す。

「わたしはそのとき、なんで減点されたのかわからなくて不安だったんだけど、飲み会に誘われたから、柴田先生は怒ってないって思った」

 二十点、減点されたのに腹を立てるどころか、教師の期待に応えられなかったことを不安に思うなど、優等生にもほどがある。と、蓮台寺は呆れた。しかし、それが「プリンセス」与那の思考回路なのだろう。高校まで、そこにつけ込む教師がいなかっただけだ。

「だから、喜んで飲み会に行った。飲み会には、ゼミの人もいっぱいいるって話だったし」

 蓮台寺は、それなら不安に思うことはなくて当然だ、と思った。だが、それでは、いったい何が起こったというのか。

「わたしが『日本文学Ⅰ』の話題を持ち出したら、先生は、採点基準が間違ってたかも、なんて話をし始めたんだ」

「結局、採点ミスだったんですか?」

 与那は、またかぶりを振った。

「でも、すでに受講者全員の点数はつけ終わっているし、誤った採点基準でも、全員に適用されてるから、公平だっていうの。でも、先生がそのとき言った新しい採点基準なら、わたしの『日本文学Ⅰ』の点数は上がるはずだった」

 蓮台寺にはよくわからない理屈だ。全員に採点ミスを認めて点数をつけなおすことはできる、ということか。しかし、そうしなくても公平ゆえ問題はない、という。意味がわからない。

「わたし、柴田先生のこと……信頼してたから、『ありがとうございます』って言ったの。そしたら」

 与那は言葉を切った。そして、意を決したように蓮台寺の目を見た。

「急に……わたしに覆いかぶさってきたの」

 蓮台寺は、のどがからからになっていたことに気づいた。与那の目は、緊張のせいか赤くなっていた。このことを話すのに、よほどの決心が必要だったのだろう。

「……ほかの学生はどうしてたんですか?」

 蓮台寺は、なんとか言葉を絞り出した。

「気が付いたら、みんないなくなってた。その部屋には、そのとき、わたしと柴田先生だけだったんだ」

 なんということだ。ゼミ生もグルなのか。蓮台寺は背中に冷たい水がかかった気がした。確かに、事態は絶望的だ。もしセクハラされたと与那たちが訴え出ても、ゼミ生が一斉に柴田教授を庇えば、うやむやになるかもしれない。

「とんでもない話ですね」

 蓮台寺はそれだけ言うのが精いっぱいだ。

「わたし、びっくりして……慌てて飛び出したんだ」

 何もされなかったんですか、とは蓮台寺は聞けない。それは、もし何かされていた場合、与那にそのことを思い出させることになるし、それを蓮台寺に説明させることになるからだ。そんなことで、また与那を傷つける必要を蓮台寺は認めなかった。

「そうですか」

 蓮台寺は、それ以上は与那に何も言わせたくはなかった。

「そこまでは円香にも話したわ。円香はもう、顔真っ赤にして起こって……柴田先生の研究室に怒鳴り込みに行った」

 そう言って、与那は顔を伏せた。自分のせいで、円香がセクハラにあったと責めているのだろう。

「でもね、柴田先生に抱きつかれたってことはね、たいした問題じゃないんだ」

 蓮台寺に悪寒が走った。与那はいったい何を言おうとしているのか。抱きつかれたこと自体がセクハラのはずだ。

「GPAを上げるために、そのままでもいいかなって、いっしゅん、思ったんだ」

 与那はそう言って、いつもの作り笑いをした。

「ね。汚れてるよね」







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