第三十五話 作戦会議よ

 怜子がいっしゅん驚いたような顔をしたが、円香のほうがもっと驚いた顔をしていた。

 怜子のアパートは、どこにでもある安アパートだ。なかのつくりもだいたい蓮台寺の下宿と同じ。つまり、玄関を入ってすぐが台所、風呂、トイレ、洗面台、そして主室への扉だ。玄関から入ってきた客は、まず台所を目にすることになる。

 台所で洗い物をしていた蓮台寺が思わず振り向くと、円香と目が合った。円香は、ジャージの怜子に目を向けると、静かに言った。

「お泊り会に呼んだの?」

「いきなりそこ? ふつう、どうして伊都くんが怜子の下宿にいるの、とか聞かない?」

 怜子が、ため息交じりに腕を組みながら言った。

「そんなに仲がいいとは思わなかったわ……」

 そう言って、円香は蓮台寺を睨んだ。蓮台寺には睨まれる心当たりがまったくなかったが、下手な言い訳は火に油を注ぐような気がして、止めていた手をまた動かし始めた。

 怜子はそんな円香の揶揄にも動じない。

「今日がお泊り会っての、すっかり忘れちゃってた。支度するから、ちょっと待ってて」

 そう言うと、怜子は主室に引っ込んでいった。かちゃかちゃ、と蓮台寺の洗う食器の音が響く。

 蓮台寺は、早く流しから離れようと、食器洗いを急ぐ。このまま円香を無視して食器洗いに逃げ続けることもできない。円香は、ショルダーバッグだけ肩から下ろすと、靴も脱がないまま、深くため息をついた。

 蓮台寺の食器洗いがひと段落ついた。

「きみも大変ね」

 円香は、今日の出来事のすべてを察したかのごとく言った。

「まあ、先輩ですからね」

 蓮台寺は、このときほど、先輩後輩との上下関係に感謝したことはない。後輩が先輩のために家事をすることだってあるだろう。なにしろ、主従関係のようなものだから。

 そのとき、主室の扉が開いた。出てきた怜子は……やはりジャージだった。大きなトートバッグをもっている。

「それで外に出るの?」

 円香が呆れたように言った。

「当り前よ。これから朝までカラオケなんでしょ。メイクは落としとかないと」

「いや、そこじゃなくて。ジャージで出るのってことなんだけど」

「おかしいかしら? 夏用のジャージよ?」

 蓮台寺は、そのとき、円香はほとんど化粧らしい化粧をしていないことに気づいた。しかし、ジャージではない。ガーリーなワンピースだ。

「……もういいわ。プロは大変ね」

「セミプロだけどね」

 どうもプロのモデルには、ふだんからメイク落としには気を遣わなければならず、着る服にもいろいろな制限があるようだった。

 チーン、と音がした。怜子の携帯端末からだ。

「茉莉が来たみたいね。伊都くんも来る?」

 お泊り会と言うのが朝までカラオケ会なのはそれまでの会話からわかってはいたが、蓮台寺は、先輩女子たちとカラオケに行くとどうなるか、空恐ろしすぎた。

「すみません、せっかくのお誘いなんですが、お金がなくて……」

「あら。わたしもないわよ。交遊費はそれでもどこかに残しておくものよ?」

 怜子は、どこからともなく取り出したスポーツシューズを履き始めた。円香は、扉を開けて、出ていく用意をした。

「いやー、ほんとにないんですよ」

 そう言いながら、蓮台寺も帰り支度を整えた。

「ふーん。もう八千円使い切ったんだ」

 怜子はそっけなく言った。

 バイト代八千円。そこから本日の電車代差し引き約六千円。蓮台寺の家計情報がだだもれになっていた。茉莉=怜子間の情報共有の速度を、蓮台寺は甘く見ていた。蓮台寺は戦慄した。

 円香は何も言わず、扉から外に出る。怜子もそのあとに続く。当然、青ざめた蓮台寺もだ。

 三人が外に出ると、見たことのある白いバンがアパートの前に路駐していた。

 運転席から顔を出したのは茉莉だ。

「ありゃ、伊都くんも来るなんて聞いてなかったが?」

「それがね、誘ったんだけど、お金がないんだって―」

と、怜子が荷物を真っ先にバンに乗せながら言った。

「そうなん? そりゃ残念だなー。しょうがないなー。みんな事情はそれぞれだしなー」

 茉莉は棒読みのように言った。

 なんだろう、これは。言葉では強く誘われてはいないのに、断れない雰囲気。蓮台寺は腹をくくった。

「そこまで言われたら、ぼくも男です。行きます」

「よく言った!」

 茉莉はガハハと笑った。

「流されやすいだけじゃない」

と、バンの座席の中列、先に乗り込んでいた怜子の隣に座った円香がぼそりと言った。それを聞いた怜子は、肩をすくめた。

「別にいいじゃない、それでも」

 それから怜子は、その後ろの列の座席に座った蓮台寺に向かって言った。

「作戦会議よ」



 


 

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