第三十四話 あ、円香。そういえば今日だったわね

 東能生駅から大学方面に歩いて十分といったところに、怜子の下宿はあった。蓮台寺と似たような木造のアパートだ。階段を上るときの音も似たようなものだ。

 「わたしんちに来る最初の男がきみとはね」

 怜子は、部屋の鍵を開けると、ヒールを脱ぎながら、残念そうに言った。

 そういわれても反応のしようのない蓮台寺が、一言、お邪魔しまーす、と言って入ると、中のつくりも似たようなものだと気づいた。しかし、蓮台寺の部屋とはずいぶんと違う。

 台所に山と積まれた洗っていない食器。コスメの類がやはり山盛りになっている洗面台。さすがに風呂までは見られないが、その様子も推して知るべし、だ。

 主室に入ると、蓮台寺は部屋の中のあまりに整理整頓されていない様子に圧倒された。雑誌や本、ノートパソコンが床に無造作に置かれている。部屋の真ん中にはテーブル。勉強机のようなものはない。

「ちょ、これ、セルフネグレクトじゃないですか」

「失礼な。ゴミはちゃんと捨ててるわよ」

 最低限にも程がある、と蓮台寺は思った。

「着替えるから、ちょっと部屋から出てなさい」

 そう言って、怜子は蓮台寺を部屋の外に追い出した。

 部屋のすぐ外は台所だ。洗ってない食器が気になる蓮台寺。これで、どうやって食事をつくっているのだろう。

「もういいわよ。その辺に座ってて」

 部屋から出てきたのは、グレーのジャージの上下を身に着けた怜子だった。メイクは完璧なだけに、異様なアンバランスさを感じる。先鋭的なファッション・モデルのようだ。

「メイク落としてくるわ」

 本来であれば、色気のある台詞なのかもしれない。しかし、端的に、オトコとして見られていないだけだと確信している蓮台寺は、緊張しないでいられた。

 蓮台寺がその辺に散らばっているファッション誌や参考書の類をまとめて座るスペースを作っていると、怜子が戻ってきた。すっぴんにジャージ。まるで別人のようだった。つけまつげといった装備を外すと女子はこうなるのか、と蓮台寺は素直に驚いた。

「知り合ってそんなに時間も経たないのに、失礼と言えば失礼かもね。まあ、別にきみにどう思われようが気にならないけど」

 はっきりとそう言われると、蓮台寺は何も言えない。

 怜子は手に袋ラーメンを持っていた。塩とみそ。

「どっち?」

 往復二千円程度の電車賃と往復二時間が袋ラーメン。先日、喫茶店でパフェをおごってもらったのはブラフだったというのか。

 蓮台寺が固まっていると、怜子は申し訳なさそうに言った。

「お金がないのよ。でもいいじゃん。『フォーマル=ハウト』の現役読者モデルお手製の袋ラーメンよ。二千円はするわ」

 その「フォーマル=ハウト」というのが蓮台寺にはよくわからない。さっき片づけたなかに何冊かあったようだが、女性向けファッション誌のようだった。

 蓮台寺は、つい昨日稼ぎ出した八千円の実に二十五パーセントが袋ラーメンになることにどうしても引っ掛かりがあったが、さりとて、お金がないという怜子に嘘はなさそうだった。

「わかりました。じゃあみそで」

 蓮台寺は観念した。

「はいはーい」

 怜子は、台所に戻っていった。

 こうなったら、袋ラーメンでもなんでも食べてカロリーにするしかない。蓮台寺はそう割り切り、雑誌の山のなかから「フォーマル=ハウト」を取り出すと、めくってみた。怜子の写真を探す。

「抜け感を残しつつ、適度なこなれ感も。それでいてコケティッシュ」

 「フォーマル=ハウト」五月号。百パーセントの力を出したと思われる怜子の写真に添えられたことばは、まるで外国語だった。読者モデルはさすがにきれいな人ばかりだった。なかでも怜子は蓮台寺には輝いて見えた。ある種のひいき目だろうか。

 怜子がラーメンを作り終えてテーブルに運んできた。つい、すっぴんの怜子をまじまじと見てしまう。

「何よ。何かムカつくわね」

 すっぴんはすっぴんで、自然な魅力を湛えているように蓮台寺は思ったが、もちろん、口に出して言うことはできない。つい合ってしまった目を慌てて逸らした。

 ラーメンの上には、大盛りの野菜炒めが載せられていた。あの台所でどうやって作ったのだろうか。蓮台寺は不思議に思った。いわゆる「家系」の盛り付けだが、なかなかどうして、うまそうだった。

「わたしの手作りというプレミア抜きでも八百円はするんじゃないかしら」

 そう言って、怜子は胸を張った。ジャージで体のラインは隠れてしまっているが、それでも、与那や茉莉とは比べ物にならないくらいにたっぷりとしたものが揺れたのがわかった蓮台寺は、慌てて目を逸らした。

 ラーメンに目を戻した蓮台寺は、怜子の調理スキルに感服しつつ、おそるおそる、一口、食べてみた。

「おいしいですね!」

 見た目だけではなかった。

「味付けは濃いめにするのがコツよ」

 怜子も機嫌よくラーメンをすすり始めた。

 はたから見れば、付き合って五年、結婚してさらに五年くらい経つ夫婦のように見えただろうが、誰も見る者はなかった。


「洗いものくらい、ぼくがしますよ」

と、蓮台寺は二人分の食器をもって立ち上がった。

 そういえば。台所には、いったいいつから放置されているのかわからないどんぶりの類が山積みのはずだった。しまった、と思った蓮台寺。だが、すでに遅い。

「ほんと? ありがとう。助かるわ」

と、うれしそうな怜子。蓮台寺は、礼儀としてそれくらいはしようと決心した。

 蓮台寺が食器を洗っていると、インターホンのチャイムが鳴った。

 怜子が、はいはーい、と玄関の扉を開けると、そこには円香がいた。

「あ、円香。そういえば、今日だったわね」

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