第三十三話 ついてきなさい。お姉さんがごちそうしてあげるわ
聞き覚えのあるような、ないような声。蓮台寺はどなたでしょうか、と尋ねた。
「怜子よ、怜子。大積怜子。あとで詳しく話すから、今すぐ上越妙高駅に来て! お願い」
怜子の声は、妙にくぐもって聞こえた。小声なのに加えて、おそらくトイレかどこかの小さな部屋でしゃべっているのだろう。
上越妙高駅は、蓮台寺が実家に帰るときに使う駅で、行き方はわかる。しかし、片道一時間近くかかる上に、交通費も痛手だ。蓮台寺がしばらく考え込んでいると、察したのか、電話の先にいる怜子が苛立ちもあらわに取引を申し出た。
「……ごはんおごるから!」
蓮台寺にはぜひもなかった。
日本海ひすいラインから直江津駅で妙高はねうまラインに乗り換えると、十四、五分で上越妙高駅に到着する。
上越妙高駅は比較的新しくできた新幹線の駅らしく近代的なデザインで、近くには広い駐車場と、開発を待つ空き地がある。それでも、駅の近くには土産物屋やこじゃれた飲食店がある。
怜子が指定したのは、そのうちの一つのコーヒーショップだった。
こじゃれたつくりのそのコーヒーショップは、平日の午後ということもあって、人気はほとんどなく、一組のカップルがいるだけだった。
そのカップルの女子のほうが、怜子だった。
怜子は、蓮台寺に気が付くと、満面の作り笑いで手を振った。
「伊都く~ん! こっちこっち」
このピンク色の声を出しているのはいったい誰なんだ、と思いながら蓮台寺が怜子に近づいていくと、男のほうが剣呑な表情で蓮台寺を睨みつけた。まるで身に覚えがない。
まさか、キョースケだろうか!? いや、仮にそうなら怜子と一緒というのが腑に落ちない。怜子が茉莉の元彼とかかわりがあるなど、想像を絶している。
「きみが、伊都くんかい?」
男は、眉やひげをきちんと切り整え、格好にも気を遣っているようだった。三十代、だろうか。はい、とわけもわからず返事をする蓮台寺。すると。
「急いで来たから、のどかわいたでしょ」
と言って、怜子がさっきまで自分が飲んでいたアイスコーヒーを蓮台寺に差し出してきた。
これはいったい、何のテストなんだ? と蓮台寺はいっしゅんいぶかしんだが、怜子の目の奥に何かただならぬものを感じ、おそるおそるストローに口をつけた。
「早く座って」
怜子は、自分の隣に置いていたバッグをどかす。蓮台寺は、ええい、ままよ、とばかりにどっかと腰を下ろし、しかも怜子に密着した。怜子の形の良い眉がぴくんとはねたのが、もし蓮台寺が怜子の顔を見ていたならわかっただろう。
「そういうわけで、もういいかしら?」
怜子は、向かいに座っている男性に向かって、ほほ笑みながら言った。
「わかりました。お邪魔してすみません」
そうぶっきらぼうに言うと、男性は千円札を一枚、机の上に置くと、それ以外は何も言わずに立ち去った。
「ふー。まだ運がよかったほうかしら……いつまでくっついてんのよ!」
怜子はお約束のように、肩で蓮台寺を突き放す。蓮台寺は、面倒くさそうに立ち上がると、怜子の向かいに座り直した。
「なんのテストなんですか、いったい」
思ったことが声に出ていた。
「きみが忠実な番犬かどうかというテスト」
怜子は平然と言い放った。
「ぼくの電話番号は、茉莉さんから?」
「ご名答。茉莉とわたしのあいだに秘密なんてないのよ」
いや、ぼくの電話番号はぼくの個人情報じゃないか、と蓮台寺が思ったが、怜子にそんなことを言うと機嫌を損ねそうなのでやめた。
「男性の方、帰っちゃいましたけど?」
「それが狙いよ。しつこいから。いつもなら茉莉に来てもらうんだけど、忙しいらしくってね。仕事の付き合いって、ほんと、だっる。お金も出ないのよ~。欲しいわ~お金~」
怜子はテーブルに突っ伏した。どちらが本当の怜子なのか。人を寄せ付けない冷たさを感じさせる読者モデル。どこかフザケているが、気のいいオヤジ。
「すみませんね、そんななのにおごってもらったりして」
とはいえ、蓮台寺も、おごってもらえると聞いて来た以上、そこは譲れない。
「しょーがないわねー。稼いでるお姉さんがおごってあげるわよ……って、きみ、ヒモの素質あるんじゃない?」
蓮台寺は、ため息をつくと、セルフサービスの水を取りに席を立った。店員は奥に引っ込んでいるようで、カウンターには誰もいなかった。
「あのですね。ぼくの下宿からここまで、時間も電車代も結構かかりますよ。労働の対価と実費、払ってください」
そう言うと、蓮台寺は怜子の向かいに腰を下ろした。怜子は、そんな蓮台寺を軽く睨みつけた。
「さっき、あたしのコーヒー、飲んだじゃない」
間接キスだとでも言いたいのか。蓮台寺は今さら、顔が赤くなるのを感じた。
「このコーヒー、高いんだけどー」
怜子は、そのコーヒーを勢いよく飲み干しながら言った。怜子は間接キスなど気にしていないふうだ。
「一口千円もするんですか!?」
さすがに蓮台寺も突っ込みの声が大きめになった。
「そんなに怒らなくても。わたしの間接キスというプレミアつきだからね」
「唾液つきの間違いでしょう」
蓮台寺も引けない。なんとしてもおごってもらわなければならない。
「あーもう、わかった。とりあえずここは出ましょう」
そう言って、怜子はカウンターに行き、呼び鈴を鳴らすと、出てきた店員に会計を支払った。
「わたしも大学の近くに住んでるから、一緒に帰りましょう。大学の友達とたまたま出会って、一緒に帰る。よくあることよね」
たまたまでもないし、いったい誰に対して言い訳をしているのかまったくわからなかったが、蓮台寺もコーヒーショップのケーキなどをおごられても物足りないので、同意した。
怜子は完璧に整えられたメイクに、最先端とは言わないまでも十分に洒落た格好で、蓮台寺との格差は顕著だった。平日の下校時間の直前だ。電車には、蓮台寺たちのほか、ほとんど人はいない。気にすべき人の目はない。
「あの男性はいったい誰だったんですか?」
蓮台寺は、話すことも思いつかなかったので、さっきのコーヒーショップにいた男性について聞いてみた。
「あのカレねー。しばらく前から『とにかくお茶でも』って誘ってきててね。あ、東京のカメラマンなんだけど。気が付いたら一緒の新幹線に乗ってて。本人は押しが強いくらいにしか思ってないみたいだけど、正直、キモいわよね」
その車両には、怜子と蓮台寺しかいなかった。周囲に憚ることなく、怜子は赤裸々な話をし始めた。
「でも、セクハラとまでは思わないけどね。柴田がわたしに何したか言ったっけ?」
怜子は、気軽な調子で蓮台寺に語り掛けた。
「触ったとか触られたとかは、聞きました」
「どこを触ったと思う? クチビルよ、唇! もう少しで指を口に入れられるところだったわ」
怜子は、話していると怒りを思い出すようだった。
「顔なんて、ふつー、触らないじゃない? 恋人くらいのものよね。せいぜい。それを、アイツ。ありえないわ。ほんっとありえない」
口とはいえ、体内だ。他人の体内に自分の体を挿入する行為。無理やりにしていいことではない。
オッサンの指が口に突っ込まれる。蓮台寺は、想像しただけでぞっとした。もしそれが自分なら、筆舌に尽くしがたい嫌悪感を抱くことは容易に想像できた。
「柴田教授って、そんなにセクハラをしていて、よく問題にならないですね」
蓮台寺は、柴田教授のセクハラが今までに聞いた通りなら、さすがにやりすぎだろうと思った。
「そこなのよねー。泣き寝入りしている子たちが多いのかしら。わたしたちも、ぼーっとしてると、泣き寝入りと一緒よね」
怜子はため息をついた。
「そろそろテストの時期ね。問題を起こして柴田をやっつける。うまく行けばいいけど」
集団カンニングという大問題。いまいちその全貌がわからないが、計画は進んでいるのだろうか。
……問題を起こす? どういうことだ?
そんなことを蓮台寺が考えていると、東能生駅に到着した。
「で、ごはんはいつおごってもらえるんですか」
蓮台寺は電車を降り様に言った。
「ちっ。忘れてなかったか」
怜子はつかつかと改札を抜ける。蓮台寺はそれを追いかけた。
「先輩として、本当にそれでいいんですか!? 往復で二千円近くかかったんですよ!」
蓮台寺も必死だ。バイトもしない貧乏暮らしに電車で往復二時間の距離というより運賃を使わせたのだ。補償はしてもらわなければならない。
「わーかった!」
怜子は蓮台寺に向き直ると、言った。
「ついてきなさい。おねえさんがごちそうしてあげるわ」
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