第三十二話 緊急事態。ちょっと来て
「男運って言わないですよ、そんなの」
宴席で隣に座った男にまで運を使っていてはたまらないだろう、と蓮台寺は思った。
円香からセクハラの告白を受けたときは、円香の激情にあてられたのか、蓮台寺は何を言っていいものか、まったくわからなかった。しかし、今、目の前にいる茉莉は冷静さを保っているように見えた。そのおかげか、なんとか言葉を思いつくことができた。
「あっちからあたしの隣に座ってきたんだぜ。運じゃね?」
男運悪い説にこだわる茉莉。座っている茉莉の服装は、Tシャツにデニムとシンプルな動きやすいものだが、ただでさえ体のカーブがはっきり出るのに加えて、滝から風にのってやってくる湿気と汗とでぴったりと体にくっついている。蓮台寺は目のやり場に困った。
「運というか、一般的に言って、露出度の高い女性は変質者に狙われやすいって聞きますが」
言葉に出して、蓮台寺は自己嫌悪に陥った。それでは、まるで茉莉が悪いかのようではないか。
「露出してないけどなー。よく見てみ?」
そう言って、茉莉は隣に座っている蓮台寺に向き直った。茉莉は蓮台寺の失言を気にしていないふうだったが、蓮台寺はそれどころではない。茉莉はブラジャーをしていなかった。なぜそれがわかったかというと、胸の先端部分の細やかな形が詳細まではっきりと浮き出ていたからだ。
「ま、まあ、確かに。露出はしてない、かもしれませんけど」
別の問題がある、と蓮台寺は言わなかった。
「狙われないためには目立たないことくらいしかなくて……」
茉莉は眉をしかめた。蓮台寺はしどろもどろだ。
「目立つなっていわれてもな。目立ってるつもりもねーし」
茉莉は天を仰いだ。
そうは言うが、茉莉は目立つ。抜群のプロポーションにシンプルな装いは、体の曲線を最大限に活かす。ふつうの女性なら目立たない格好も、茉莉の場合は違ってくる。
いや、しかし。仮に露出度が高い格好をしていたとしても、だからといってセクハラ被害にあっていいわけはない。下心ばかりの男たちを引き寄せてしまうという茉莉の愚痴になんとか応対したい。蓮台寺は、そう思ってつい口走った。
「セクハラや痴漢をするほうが悪いんですから、茉莉さんは、露出度の高い格好をしてもいいんですよ」
茉莉は、びっくりしたような顔になって、それから笑った。そして、蓮台寺の背中をひっぱたいた。
「あたしにどんな服着てほしいんだよ!? バッカじゃねーの」
茉莉は立ち上がると、痛みに耐えている蓮台寺の頭をさらに小突いた。
「おめーはマジでおもしれーな。あたしにそんなこと言うヤツは初めてだわ。カレシでも言ったことねーし」
蓮台寺は、頭をさすりながら立ち上がった。突っ込みが痛い。
「いや、そういう意味では……」
と、言いながら、それ以外の意味には聞こえないと気づく蓮台寺。よく命が保っているな、と思わずにはいられない。
茉莉は、手を頭の後ろに組んで大きく伸びをすると、言った。
「そろそろ戻ろうぜ。仕事だ、仕事」
そう言いながら、茉莉は歩き出した。蓮台寺は、茉莉を追いかけようとしたが、もう一度、滝を見ようとふと振り返った。
すると、差し込んだ日の光が、滝から上がる水しぶきのなかに虹を作り出していた。
「茉莉さん、虹ですよ、虹!」
二つの滝と虹。神秘的で美しい光景に、蓮台寺は、つい、はしゃいでしまった。
「おいおい、虹くらいではしゃぐなよ。ガキか、おめーは」
茉莉は、滝にかかった虹を見てまぶしそうに眼を細めると、少し微笑んで、元来た道を戻り始めた。蓮台寺は、水しぶきで濡れた歩道に滑って転びそうになりながら、慌てて追いかけた。
ログハウスの掃除は、午後いっぱいかかった。中條や角間とは、すっかり打ち解けたわけではないが、それなりに話を交わした。中條も角間も、茉莉の実家の不動産屋の従業員であること。中條は二十二歳、角間も二十歳で蓮台寺の年上だということ。半日一緒にいたが、蓮台寺にわかったことは、それくらいだった。
「昔はバイクでよく遊んだよなー」
と、一通り掃除が終わり、ログハウス内の様子をチェックしていた茉莉が、みなのいる居間に戻るなり、言った。
「そうですね。結構遊んでましたよね。事故らなかったからよかったですけど」
と、中條。掃除道具を片づけ始めている。
「あのときから姐さんはおれのヒーローっすよ!」
角間は、居間のテーブルを磨きこみながら言った。
「角間、そこはもういい。片づけを手伝え」
てきぱきと指示を出す茉莉は、仕事に慣れている様子だった。蓮台寺は、そんな様子を居間の片隅に立って眺めていた。
「そこ。ぼーっとしてるくらいなら、そこのモップを車にもってけ。バイト代減らすぞ」
蓮台寺は、いくらもらえるかも聞いていないバイト代のために、そんな調子でその日の労働を終えた。
「税金は天引きしてるから」
帰路についたバンのなかで、蓮台寺は中條から八千円の入った封筒を渡された。半日で八千円とは高給のように蓮台寺には思えた。あるいは、移動の時間もバイト代に入っているのかもしれなかった。
バンの中では、疲れているのか、行きのときとは違い、みな言葉少なだった。すでに暗く、車窓もたいした見どころはない。蓮台寺の後ろの座席からは軽いいびきが聞こえてきたし、蓮台寺もうとうとしていた。
中條は、蓮台寺を大学の近くまで送ってくれた。バンを降りるとき、茉莉は申し訳程度に手を合わせた。
「急に呼び出して悪かったな。バイトくんが待ち合わせ場所に来なくてさ」
どうもそのバイトくんというのは、茉莉の実家の不動産屋で雇っているバイトらしい。熱があるとかでドタキャンしたらしかった。
「日曜日だから、あんまり出てこいとも言えなくてよ。おめーが来てくれよかった。ありがとう」
蓮台寺は、こちらこそバイト代を弾んでもらってありがたいです、と言いながら、茉莉の口調がいつになくやわらかいことに気づいた。
そして、バンは蓮台寺を降ろすと走り去っていった。
蓮台寺は、手元の八千円の感触を確認しながら思った。半日の仕事とはいえ、何年も使われていない家の大掃除はそれなりにハードだった。しかし、時給にして千円は超えている。しかも、弁当まで出た。茉莉の指示は的確で、決して働きにくくはなかった。
蓮台寺は、突然の収入を素直に喜びながら、下宿までの帰路についた。
月曜日。やはりすることはないので、下宿でごろごろしながら漫画を読み返していると、昼過ぎに、見知らぬ番号から電話がかかってきた。
「緊急事態。ちょっと来て」
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