第三十話 まさか、希望という名の船に連れていかれるんじゃないでしょうね?

 目当てのバス停は大学の近くではあったが、蓮台寺の下宿からは十五分程度かかった。

 大学の近くとはいえ、夜は暗く物騒だ。なにより、少子高齢化の進む地方の大学は、唯一、若者の集まる場所と言っていい。夜でも若い女子が歩くことのある場所として誰でも知っている。

 バス停に向かい、バスを待つ間の三十分、二人の間に交わされた会話と言えば、蓮台寺の「バス停がわからない」発言に対する、ほんっとにバカというか、フザケてんの!? という円香の罵倒を除けば、高校時代の他愛もない話だった。

 円香は読書部だったこと、蓮台寺はクイズ部だったこと。どちらも、全国大会出場といった武勇伝からは縁遠い。

 円香は与那のことも話した。明るく、教師からも生徒からも好かれ、望まれて生徒会長になり、地元の名家出身で、あだ名は「プリンセス」。そんなあだ名を、与那は笑って受け入れていたという。

 円香は、バスに乗り込むとき、少し複雑な表情を見せた。ほっとしたような、少し落ち込んでいるような。

 円香を見送ったあと、蓮台寺は、頭を悩ませながら帰路についた。

 いったいどうすれば、彼女たちの復讐を遂げさせ、与那を柴田から引き離し、自分のGPAを上げることができるのか。学部内には汚名が轟いてしまった。圧倒的GPAでもってすすぐしかないのだ。大学のスクールカーストの最底辺から這い上がるには。

 それにしても、と蓮台寺は思った。今日の柴田の授業で、与那は柴田から少ししは目を逸らすことができたのだろうか? 授業の最後に見せた、与那の驚きの表情は、何に向けられたものだったのか?

 「なんでもしてあげる」という与那のことばに思わず「大学での学修を効率よく進める委員会」に引き込まれてしまったのは確かだが、事態を知れば知るほど、「なんでもしてあげる」ということばを鵜呑みにするわけにはいかないように、蓮台寺には思えてきた。

 その真意がどこにあるにせよ、蓮台寺は、与那に恩を返さなければならないという思いに今や駆られていた。与那の言ったことは間違いではなかった。

 与那は実際に蓮台寺を孤立から、ドロップアウトから救った。「大学での学修を効率よく進める委員会」のみんなは、蓮台寺を救ってくれた。あるいは、オトコとして見ていないからといって好き放題に振舞っているだけかもしれないが。

 もっとも、与那の企みをどうするかは、蓮台寺には別の話だ。


 七月第一週日曜日。蓮台寺は、その日から一週間の出席停止だ。過ごし方はいつもと一緒。下宿でごろごろするだけ。動くと腹が減る。金はない。

 実家からの仕送りで、家賃と最低限の生活費はまかなえていた。それ以上のお金は、奨学金でまかなっている。もっとも、奨学金という名の借金だ。就職すれば返すことになるが、月額で返す予定の金額を考えれば、就職してからも遊ぶ金には事欠きそうだ。

 遊ぶ金が必要ならバイトするほかないが、面倒くさいので遊ばずに家にいる、というわけだ。

 早朝から起き出した蓮台寺が昨晩にスーパーの安売りで買ったパンを片手に、高校生のときに中古で買い集めた漫画を手に取ろうとしたとき、携帯端末から着信音が鳴り響いた。

 メールか、と思い蓮台寺が携帯端末を手に取った瞬間。電話だったことに気づいた。茉莉からだ。蓮台寺はキョースケの一件以来、キョースケが蓮台寺の目の前に現れるといったような緊急事態のために電話番号を交換していたことを思い出した。

「よお。ひまそうだな」

 早朝から電話しておいて見ていたかのようなことを言う茉莉に、蓮台寺はいかにも億劫そうに、なんすか、と言うのが精いっぱいだった。

「今日、なんか予定あるのか?」

 そんなの、あるわけない。蓮台寺はげんなりした。

 しかし。デートのお誘いなのだろうか。蓮台寺は心の中で正座した。怜子の言葉が頭に浮かぶ。茉莉は、蓮台寺のことを気に入っていた、と。

「べ、別にないですけど」

「そりゃよかった。直江津駅に集合。九時な」

 その一言で、電話は切られた。

 東能生駅から直江津駅までは、普通電車で二十五分程度だが、次の電車に乗らなければ、九時には間に合わない。

 蓮台寺は慌てて綿パンにシャツ(おしゃれしようにもそれしかない)に着替え、パンを片手に下宿を飛び出した。


 蓮台寺は、九時少し前に直江津駅に到着した。パンは電車のなかで完食した。

 携帯端末には、茉莉から「西口まで来るように」との指示がメールで入っていた。

 西口にはロータリーがあり、そこに白いバンが停車していた。そのバンの近くで茉莉が大きく手を振っている。そばには男がいるようだった。なんだか嫌な予感を感じつつ、蓮台寺はバンに近づいていく。

「おお、さすが伊都くん、時間通り。マジメだな!」

 茉莉が満面の笑みで蓮台寺の背中をはたく。蓮台寺は、もう動じなくなっていた。

「なんなんすか、このモヤシは」

と、あからさまな敵意を見せつつ、茉莉の近くにいた男が言った。男、といっても蓮台寺と同じくらいの年頃だ。蓮台寺よりも頭一つくらい背が低いが、がっしりとした体つきだ。

「モヤシだが、ただのモヤシじゃねー。ヘンタイモヤシだぜ」

 茉莉の言葉は何もフォローになっていない。

角間かくま、せっかく来てもらったのにそんなこと言うもんじゃねー」

 運転席のウィンドウが開き、なかから精悍な顔つきの青年が顔を出した。理知的な印象を蓮台寺は受けた。角間という背の低い男とは対照的だ。

「そいじゃま、助っ人も来たし、行きまっか」

と、茉莉は、もはやこれ以上の説明はいらないとばかりにバンに乗り込んだ。あとから角間が乗り込む。

 蓮台寺がぐずぐずしていると、茉莉が早く乗り込め、と手で催促した。

 蓮台寺がバンのスライドドアからなかに入ると、バンの後方には座席が二列、三列と並んでおり、その奥にはさらに荷物を置くスペースがあることがわかった。そこには、バケツや雑巾といった掃除用の器材が置いてあるようだった。蓮台寺の鼻腔を洗剤のにおいがくすぐった。

 後方の三列シートにはさっき険悪なムードを醸し出そうとした角間が座って蓮台寺を睨んでいる。

 さりとて、二列目には茉莉が座っており、密着する形で座ることははばかられた。

 助手席に乗り込もうかと、開いていたスライドドアから蓮台寺が出ようとすると。

「おめー、逃げんのかよ!?」

 そう言うと、茉莉は蓮台寺の腕をつかんで、隣に無理やり座らせた。

 密着した茉莉にどぎまぎしているのか、それとも、蓮台寺が座らされると同時に外からスライドドアが閉められ閉じ込められたことにどぎまぎしているのか。蓮台寺は混乱した。

「まさか、希望エスポワールという名の船に連れていかれるんじゃないでしょうね?」




 

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