第二十九話 自分の乗るバスくらい自分でわかるわよ、三百人に一人のバカ!

 「先生」など、そう呼べと世間一般にいわれているだけの特定の人間層を指し示す名称にすぎないとしか、蓮台寺は思っていない。問題は、そうした人間層に問題のある人間が少なくないという事実だ。

「それでもムカつくから、柴田のクソは柴田のクソね」

 円香は、そんな蓮台寺のこだわりなど一顧だにしない。

「わかりました、先輩」

 蓮台寺は引き下がるしかない。円香は小っちゃくて妹みたいでも先輩だ。

「よろしい。で、与那からはそれから何か連絡はあったの?」

 蓮台寺の手元には、さっき受け取ったメッセージしかない。

「『もう大丈夫』みたいなメッセージはありました。どうなんでしょう」

「ほんっとにもう、きみは三百人に一人のおバカさんなだけあるわね。与那が『大丈夫』ってのは『ごきげんよう』くらいの意味よ。わかってるでしょ。ほかには?」

 円香は、軽蔑したような目で蓮台寺を見た。

「ほかにはって……それだけですよ。『もう大丈夫。ありがとう』って短いメッセージだけでした」

 つまり「ごきげんよう。ありがとう」という意味か。

 すると、円香は椅子から、ずずい、と身を乗り出してきた。

「『ありがとう』って来たの!? それは少し進歩かもね。与那って『ごめん』って言ってばかりだから。少しは他人のことに関心がもてるようになってきたのね」

 蓮台寺は、円香の言葉より、円香が椅子の背もたれに体重をかけすぎていることが気になった。背の高い蓮台寺の椅子に背の低い円香が座っていること自体、バランス的な意味で不安だった。

 その瞬間。円香は椅子ごと前のめりになって。

 蓮台寺は反射的に円香を抱きとめた。さいわい、足は動かないほど痺れてはいなかった。ただ、抱きとめるためには円香の体にしっかりと密着する必要があった。

 むぎゅ。蓮台寺の鼻腔をそこはかとないバニラの香りがくすぐる。そして、無言の時間が流れる。顔と顔とがくっつきあっていた。

 蓮台寺は、罵倒を覚悟したが、円香は何も言わなかった。ゆっくりと円香を椅子に座り直させる。円香も無言でそれに従う。

「わ、わたしとしたことが、危なかったわ」

と、円香は顔を真っ赤にしてしどろもどろになった。蓮台寺はなんだか拍子抜けした。と同時に、なんとなくその様子をかわいらしいと思った。

 円香は、そそくさと身支度を整えると、立ち上がった。

「というわけで。何でもいいから、与那の関心を柴田から逸らすのよ。わかった?」

 ピンとこない蓮台寺。どうやって、与那の目を柴田から逸らせというのか。はあ、と気の抜けた返事しかできない。

「で、柴田を追い込むのよ。わかった?」

 あの集団カンニング計画のことか。はあ、とこれも気の抜けた返事を返しておく。

「それじゃ、わたしは終バスで帰るわね」

 円香は、玄関に向かった。

 蓮台寺は、玄関まで見送った。靴を履く円香を見ていると、円香は、何をぼさっと見てるの、と言ってきた。

「あの、お気をつけて」

と、蓮台寺。すると、円香は少し怒った調子で言った。

「バス停まで送るでしょ、ふつー。女子が夜に帰るって言ってんのよ。おバカさんはこれだからもう」

「え、ぼく、円香さんがどのバスに乗るか知りませんよ」

 蓮台寺は素でそう答えた。蓮台寺のなかでは、円香の乗るバスがどれかわからないから、バス停もわからない、というシンプルな理屈だった。

 今度こそ円香は怒った。

「自分の乗るバスくらい自分でわかるわよ、三百人に一人のバカ!」

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