第二十五話 そうね。じゃあ伊都くんちに案内してもらおうかしら

 与那のメッセージの真意は蓮台寺にはわからなかった。

 「ノートを一人できちんととる」のが「大丈夫」なのか、それとも蓮台寺の付き添いが来週以降なくても「大丈夫」なのか、わからない。そして、自分で「大丈夫」という人は「大丈夫」でない可能性がわりとあるものだ。

 蓮台寺の不安が掻き立てられた、その日の晩。

 蓮台寺が図書館での自習を終え、大学近くの牛丼屋のカウンターで並盛を食べていると。意外な人物が隣に座った。

 蓮台寺の座っているところからは店の入り口が見える。小学生がこんな時間に一人で来たのかなと蓮台寺が思っていたら、円香だった。

 しかも、円香はまっすぐ隣に来たので、蓮台寺は驚いた。女性がすぐ隣に座るのに慣れていない蓮台寺は、思わず身を逆方向に寄せてしまう。それを見て、少し眉を挙げる円香。でも何も言わない。

「ど、どうしたんですか。こんなところで」

 蓮台寺はしどろもどろだ。

 もっとも、与那と会って以来、女性と二人きりで話す機会は増えた。つい昨日も怜子と二人で喫茶店にいたくらいだ。一時は、田中俊以外の誰ともしゃべらずに大学生活を終えるものと蓮台寺は想像したものだったが、現実はずいぶんと違ってきた。むしろ田中俊と話す時間のほうがないくらいだ。しかし、かといって女性に慣れるかというと、話は別だ。

 円香は、そんな揺れる心の蓮台寺を気にするふうでもなく、メニューを開いた。そして、驚いたようにつぶやいた。

「こんなの、牛丼にかけるの!?」

 メニューには、トッピングとしてチーズやらオクラやらが載っている。

「もしかして、こういうの初めてですか?」

 蓮台寺は、緊張のせいか、軽口を叩いてしまう。円香は蓮台寺を軽く睨んだ。

「そういうの、やめてくれる? わたしが世間知らずみたいじゃない」

「すみません。でも、ぼくも、この春からですよ、牛丼屋に通うことになったのは。自宅通学だと、まず来る必要ないですよね」

と言って、蓮台寺はふと気が付いた。それではなぜ、円香はここにいるのか。

「バイトがたまたま遅くなったの!」

 円香は、顔を真っ赤にして蓮台寺の心を読んだ。

 バイトの一つもしないことには、その辺の苦労もわからないのかもしれない、と蓮台寺は素直に反省した。今のところ、親の仕送りだけでなんとかなっているが、最低限の生活費が供給されているだけだ。遊興費などの余裕は一切ない。虫のような生活、と田中俊に揶揄されたことがあるくらいだ。

 店員が注文を受けにやってきた。円香はまだ悩んでいるようだった。

「ふつうに牛丼頼めばいいんじゃないですかね」

と、蓮台寺が助け舟を出す。

「じゃあ、牛丼……プチで」

 円香はメニューをきちんと読んでいたようだった。素人はなかなか「プチ」のメリットには気が付かない。「プチ」はごはんの量が少ないため、比較的高たんぱく低カロリーのメニューになっているのだ。

「さっすが円香さん、意識高いっすね」

「もはやうるさい」

 もはや……? 「もはや」の使い方に若干の違和感を覚えつつも、これ以上テキトーなことを言ってしまうのはマズいと心で分かった蓮台寺。しかし、そううまくはいかなかった。

「牛丼、お好きなんですか?」

 話を逸らそうと、つい蓮台寺は意味不明なことを口走ってしまった。牛丼屋に入ってきた人間に聞くようなことではなかった。

「別に」

 円香は蓮台寺のほうに顔を向けすらしなかった。

 会話が途絶えてしまった。

 しばらくして、やってきた牛丼プチを円香はほおばり始めた。

 蓮台寺は、もう食べ終わりかけていたが、「食べ終えてさっさと出る」のが正解なのか、「円香が食べ終わるまで待つ」のが正解なのか、測りかねていた。もし円香と会ったのが偶然なら、前者が正解だろう。食べるときくらい静かに食べたいものだ。一方、もし円香が牛丼屋に来たのが偶然ではなく、蓮台寺を見かけたからだったら、後者が正解だろう。この場合、さっさと自分だけ食べて帰ると、拒絶のメッセージととられかねない。それも困る気がした。

 思案した結果、蓮台寺は確認することとした。

「円香さんがここに来たのって、ぼくと会うためですか?」

 円香は、ほおばっていた牛丼を盛大に噴き出した。ごほっごほっとむせている。顔は真っ赤だ。

「ごめんなさい、黙ってたほうがいいですね……」

 どうしたものかわからず慌てる蓮台寺。円香は飛び散ったごはんを紙ナプキンで拾いながら、燃えるような目で蓮台寺を睨んだ。

「きみ、ちょっと自意識過剰なんじゃないの?」

 確かに、そういうカッコイイ台詞にも聞こえる。それに気が付き、今度は蓮台寺が赤面した。

「前を通りかかったら、きみがいた。それだけよ」

 それって会いに来たってことでは、と蓮台寺はふんわりと思いつつも、もう口答えはしないでおこうと思った。

「ちょうど、今日のことを聞きたいって思ってたから、タイミングよかったわけ!」

 力説する円香。タイミングがよすぎる、とも蓮台寺は思った。

「食べ終わったら場所変えよう。ほら、ここってゆっくりお話しするようなかんじじゃないから」

 円香はそういうと、丼に向き直った。

 牛丼屋で長話は確かに難しい。それにしても、と蓮台寺は思った。牛丼屋ではゆっくり話ができそうにないことは、中に入らなくてもわかりそうなものだ。なぜ、メールやSNSのメッセージで済ませないのか。それくらいの連絡先は、前に図書館で「自習」したときに交換していたはずだ。あるいは、明日に学内の食堂で待ち合わせるなどの調整をしてもよかったはずだ。

 いずれにしても、今日の与那の様子をそんなに早く知りたいのなら、運任せというのはおかしな話だ。

「ほら行くよ」

 蓮台寺が思いを巡らせていると、円香は食べ終わったようだった。最近おごられ慣れ始めた蓮台寺だったが、円香にそんなそぶりは一切ない。それぞれ、会計を済ませる。

 大学近くの喫茶店は閉まっている時間帯だ。午後九時。七月に入ろうとする週だが、さすがに真っ暗だ。だが日中とは違い、涼しくて過ごしやすくはある。

「どうしましょうね。もう夜なんで、外でもいいんじゃないですか? その辺のコンビニで何か買って」

 蓮台寺がそう言うと、円香も同意した。

 二人して大学近くのコンビニに行くと、そこには学生らしい客が何人もいた。店員まで学生らしきバイトだ。

 能生大学東能生キャンパス全体で、人文学部、経済学部、教育学部、法学部、理工学部、農学部とあり、学生数はかなりのものだ。当然、その辺のバイトは学生、ということになりがちだ。

 蓮台寺はアイスコーヒーを、円香はアイスロイヤルミルクティーを買い、二人して店の外に出た。しかし、二人してドアの近くで立ち止まってしまう。蓮台寺に、行き先は思い浮かばない。

「あんまりドアの近くにいるとほかのお客さんの邪魔だから、ちょっと離れましょうか」

 蓮台寺は、ドアから少し離れるつもりで円香に話しかけた。円香は頷いた。

「そうね。じゃあ伊都くんちに案内してもらおうかしら」


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