第二十四話 もう大丈夫。ありがとう
蓮台寺には、記憶の限り、授業に遅刻したことはない。遅刻者に同情はしなかった。最初から来ないという選択肢もあったろうに、と思うくらいだ。
とはいえ、蓮台寺はこうも思った。これが、授業に厳格だということなのだろうか。黙って出ていこうとする学生に、そこまで言うべきものなのだろうか。
蓮台寺が釈然としないものを感じていると、柴田教授は、遅刻学生が退出したのを最寄りの教室最後方の扉まで見送ってから、教壇へと戻っていった。
そのとき、柴田教授が与那のほうに少し目をやったのに蓮台寺は気付いた。
授業はその後、何事もなかったかのように進行していく。そのあいだに、何人かの学生があてられていた。
とてもではないが、百五十人全員をあてるのは無理だ。週に二コマあるといっても全体では十五コマ。残りの一コマはテストだ。一コマの授業で十人もあてていたら、教授のしゃべる時間などない。そのはずなのに、与那がすでに二回あてられているというのは確かにおかしい。蓮台寺は不審に思っていた。今回もあてられるなら、それは与那が狙われているということにほかならない。
蓮台寺がそんなことを考えながらもノートをまめにとっていると、いつのまにか授業も残り二十分となっていた。
「名立与那さんはいますか」
と、唐突に柴田教授は与那の名前を呼んだ。蓮台寺ははっとして与那のほうを見た。
与那は強張りつつ、片手で口を押えていた。
蓮台寺は、何かしなければ、と思った。
「先週はいなかったので、今週は挽回のチャンスをあげようと思うのですが」
出席自体は、教室に入室する際に学生証のデータをカードリーダーに読み込ませており、後から教員はチェック可能だ。だが、ほかにも欠席した学生はいるはずだ。なぜ、与那だけあてるのだろうか。確かにおかしい。
蓮台寺が訝しく思いながら柴田教授から与那のほうに目を戻すと、与那は両手で口を押えていた。
周りの学生は、与那の様子がおかしいことに気づいている。もっとも、教室は広い。気づいているといっても数人くらいだ。事態が飲み込めずに様子をみているか、あるいは先週のことを知っていても、何もしないか。学生のなかには怜子に情報提供した者も混じっているはずだが、動きはない。傍観者にすぎないのだ。
「名立さんの顔をさっき見たような気がするのですが」
と言いつつ、柴田教授は蓮台寺たちのほうへと歩いてきた。
百五十人近くもいる授業で、そこまで一人に粘着するのはおかしい。みな、なんとなく気づいているはずだ。
与那が小さく、うっ、というのが聞こえた。まずい。これ以上、与那を悪いふうに目立たせては、与那は本当に「日本文学Ⅱ」の授業の履修を放棄をせざるをえなくなる。かくなるうえは。
「先生!」
蓮台寺は、これ以上ないくらい高く手を上げた。柴田教授はそれを見て、立ち止まった。
「突然、なんだね、きみは」
蓮台寺が一年生だとは気付かない。
「名立さんが連続であてられている気がします。授業への貢献が成績評価になるのなら、ほかの履修者に対して不公平ではないでしょうか」
蓮台寺は、思わず立ち上がっていた。
「あてられて答えられれば数点、得点を与えている。だが、不十分であれば零点だ。あてなかったからといって、減点することはない。そんなに不公平ではないと思うが」
柴田はよどみなく答えた。こうした質問を受けることはこれまでもあったのだろう。しかし、蓮台寺は食い下がる。
「いえ、それでも不公平です。あてられれば加点の機会が得られるのですから、あてられたときとあてられなかったときを比べれば不公平なのは明らかです」
蓮台寺は、そう言いながらも、退きどきを考えていた。教授と学生とが言い争っても勝ち目はない。
柴田教授は、呆れたような表情をしながら言った。
「あてないと発言しないだろう、きみたちは。質問のある者は挙手するように、と言っても挙手する者はいないじゃないか。百五十人近くいても」
当然、担当教員は履修者の総数を知っている。しかし、そう言った後で、柴田は、しまった、という顔をした。蓮台寺は挙手するように言われなくても手を挙げていたことに気づいたのだ。
もちろん、それは蓮台寺にもわかっていた。だが、そんな細かいことを追求しても、柴田教授の機嫌を損ねるだけだ。むしろ、不規則発言は「授業の妨げ」と言われても仕方がない。そこで、蓮台寺は一計を案じた。
「ありがとうございます、先生。許可もなく発言させていただいたことに感謝します。ぼくのように、もしかしたら、発言したい学生がほかにもいるかもしれません。これからは挙手を求めていただけませんか? お願いします」
と、蓮台寺は頭を深々と下げた。芝居がかってはいたが、授業に真摯に貢献したいので、あえて衷心から苦言を呈したていだ。
柴田教授は、蓮台寺の真意を測りかねていたようだったが、百五十人近くの目がある。蓮台寺の言い分を一方的に無視することもできないと判断したようだった。
「わかった。きみはなかなか主体性のある学生のようだな。よろしい。きみに免じて、挙手を求めることにしよう。きっと、名立くんもそれでいいだろう」
柴田教授は、これ以上、与那に粘着すると、さすがにはっきりと不審がられると思って踏みとどまったのかもしれなかった。
「ところできみ、学籍番号と名前は? 得点が欲しいのだろう」
そうだった。それまで柴田教授は手元の名簿から学生をあてていたため、学籍番号や名前を確認する必要がなかったのだ。蓮台寺は聞かれることを想定していなかった。
「いえ。ぼくは得点欲しさに発言したわけではありません。あくまで、他の参加者に機会を与えるべきと申し上げたかっただけです」
「ほう……名前は言いたくない、と。まあいい。殊勝な心掛けだな」
柴田教授は少し怪訝に思ったようだが、他の学生の前であからさまに不信をあらわすことも避けたいようだった。この場合、蓮台寺は遅刻学生とは異なる。それなのに、学籍番号を無理に聞き出そうとするのは、他の学生に対してあまりいい格好とはいえないとでも思ったのかもしれない。
柴田教授が挙手を求めると、何人かの手が上がった。蓮台寺はそれを見て、ほっと胸をなでおろした。もし、この流れで誰も手を上げなければ、元の木阿弥だ。それみたことか、と柴田教授は、自分の好きな学生を名簿から好き勝手にあてるというやり方を変えなかっただろう。いつまでこの状態が続くかはわからないが、さすがに来週は大丈夫なはずだ、と蓮台寺は思った。
来期の「日本文学Ⅰ」の授業で、蓮台寺が一年生ながら授業に潜り込んでいたことはすぐにバレるだろうが、熱心さゆえに予習したくて潜り込んでいたといえばOKのはずだ。
与那のほうを見ると、与那は、口に手を当てたまま、蓮台寺のほうを見ていた。その表情は、なんともいえない不思議な表情だったが、驚いているようにも見えた。
いくつかの質疑応答が終わったころ、ちょうど授業の終了時刻となった。柴田教授は、質問のある者は研究室にあらためて来るように言い置き、教室から退出した。
蓮台寺は、もたもたしていると誰かが話しかけてきかねないので、そそくさと教室を出た。目立ってしまったことを後悔したが、どうせ二年生以上の先輩方だ。顔を知られているということもあるまい、すぐに忘れるだろう、と思い直した。与那のことが気になりはしたが、気にしてはいられない。
しばらくあとで、蓮台寺が与那に、来週は来られないですがノートは大丈夫ですか、とメッセージを送ると、だいぶ後で与那から返事があった。
「もう大丈夫。ありがとう」
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