第二十話 わたしたちの気が収まらないわ
彼氏のフリなんて誰も言ってないだろ……と内心思った蓮台寺だったが、声に出さないだけの心のキャパシティを何とか持ち合わせていた。
「そういうところは、前から意味わかんないよね」
と、円香はクスっと笑った。蓮台寺はそこに少し陰があるのを見逃さなかった。
そんなこんなで、その日はそこで解散となった。
といっても、東能生駅までは、みな一緒だ。
茉莉はバイトに行くと言ってそのまま電車に残り、与那と円香は、大学の図書館に行くと言って駅前で別れた。
残されたのは、蓮台寺と怜子だった。
「じゃあ、この辺でぼくも」
と言って、下宿に帰ろうとした蓮台寺を、意外にも怜子は引き止めた。
「ちょっと、話があるの」
大学の近くの喫茶店。お高めの価格設定のため、学生の利用は少ない。夕方ともなると、ごはんどきに喫茶店を利用する客もそうはいないのか、なお少ない。
怜子と差し向いで座ると、年齢は一コしか違わないし背は自分のほうが高いのに、蓮台寺は自分が小学生になったかのように錯覚した。
向かいに座るはクールなアウトフィットの大人の女性。それに対し蓮台寺はといえば、多少背が高い、どこにでもいる高校生に毛が生えた程度の男子でしかない。
そもそも、蓮台寺には妙齢の女性と二人きりで店に入るという経験がない。しかも、相手は現役読者モデルだ。緊張しないわけにはいかない。しかし、怜子の深刻そうな表情が、浮ついていた蓮台寺を現実に引き戻した。
「もう巻き込んじゃったから、事情を簡単に説明するわね」
怜子は事務的な口調だ。感情を意識的に抑えているようにも蓮台寺には思えた。
「声は小さくね。基本的なマナーでもあるわ」
さすが、「草」を飼っているだけのことはある、と蓮台寺は思った。しかし、いくら学生向けの価格設定ではないとはいえ、大学の近くの喫茶店には学生がいるものだ。仮に今いなくても、入ってこないとは限らない。目立たないか。そう蓮台寺が聞くと、怜子は、メニューを開きつつ答えた。
「あのね。わざわざ大学から遠くの、例えば駅前で会ってるほうが目立つでしょ。ここでなら、ただのクラスメイトで通用するわ」
そういうものだろうか。
怜子は、店員を呼び、コーヒーを頼んだ。蓮台寺はもたもたとメニューを広げた。
「早く選びなさい。ここはわたしのおごりよ」
逆に頼みにくい。蓮台寺は、結局、紅茶を頼んだ。
店員がいなくなると、怜子はふう、とため息をついた。店内には落ち着く間接照明が満ちている。
「柴田のことだけど」
怜子は、とくに声を落とした。怜子は、今度は「先生」とはつけなかった。「先生」とつけると、柴田教授のことだとわかってしまうからだろう。
「わたし、セクハラにあったの」
蓮台寺は、コップの水を飲もうとしてこぼした。
「たぶん、わたしたちのなかでは、わたしが一番その手のことには慣れてる。だから、こうして冷静に言えるんだけどね」
蓮台寺は、何も言えない。
「わたしは、まあ、読者モデルなんかやってると、いろいろあるわけ。でも、まさか大学教授が、ね」
蓮台寺がそのまま何も言えずにいると、コーヒーと紅茶が運ばれてきた。怜子は、コーヒーをブラックのまま、口につけた。
「でも、たまにそういう報道はありますよね」
蓮台寺は、なんとか会話を成立させようとした。
「まあね。でも、まさか自分の周りでそんなことがあるとは思わないんじゃない?」
怜子はコーヒーカップを置いた。
「とはいっても、わたしの場合は、ありがちといえばありがち。人文学部の友達に誘われたパーティに、なぜか柴田がいて、触られた」
蓮台寺は、黙って紅茶を飲むしかない。
「ショックだったわ。仕事でなら、そういうハラスメントはあると思ってた。だから心の準備もあるといえばある」
怜子は、淡々と話し続ける。
「わかる? 感じるのは怒りだけ。そんなことをして平気でいられる男にね」
蓮台寺には、わかるとは言えない。だが、理不尽なことに対する怒りはわかる。
「大学って学校だし、教授って先生なわけじゃない? 金持ちオヤジが金に物を言わせてセクハラするのは想定内だけど、しょせんはリーマンの教師がセクハラするなんて。身の程知らずもいいとこ。想定外だわ」
怜子は、思い出したのか、険のある顔つきになった。
蓮台寺は、おそるおそる聞いた。
「あの、もしかして、みなさんセクハラの被害者なんですか?」
怜子は、頷いた。
「与那たちとは、学校裏サイトで知り合った。知ってる? 『大学クラブ』ってサイト」
蓮台寺も、そのウェブサイトの名前は聞いたことがあった。「大学クラブ」。インターネット上の掲示板で、全国津々浦々の大学の授業や教授陣の情報が自由に書き込まれている。ヨイショも多いが、悪口も多い。そんな掲示板だ。授業やテストの攻略法、はたまたカンニングのしやすさまで書かれている。見ている学生は多そうだ。
「Sって、『大学クラブ』内だと評判上々なわけ。いっぱいいるのよ、クズの信者」
いつのまにか、柴田がイニシャルになっている。話題が核心に近づいているようだ。
「でもま、どれだけ持ち上げられてる教員でも、悪口の一つや二つはどこかに書いてあるものなの。探したら、セクハラの書き込みがあって。わたしも参加して、オフで会うことになって、みんな集まったってわけ」
怜子は、一息でそれだけ言うと、コーヒーに口をつけた。一方、蓮台寺は紅茶を飲み干していた。
「学内のハラスメント委員会には言ったんですか?」
いまどき、会社だろうが大学だろうが、セクハラが放任されるなんてことはないはずだ、蓮台寺はそう思った。
「あのね、伊都くん。『学内』のハラスメント委員会はどこまでも『学内』のハラスメント委員会よ。相手はしかも学部長。それに、他の教員だって事なかれ主義で黙殺するかもしれない。それになにより」
怜子は、そう言うと、残りのコーヒーを飲み干した。
「わたしたちの気が収まらないわ」
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