第七話 きみが三百人に一人のおバカさん?
西山助教の言ったことの意味がわからず蓮台寺がその場に呆けていると、その後ろの扉から、学生委員会の教員たちがぞろぞろと出てきた。教員たちは、蓮台寺を気にしつつ、西山助教に軽く会釈して、それぞれ思い思いの方向に散っていく。
それを見送ったあと、西山助教は少し気マズそうに言った。
「別に蓮台寺くんがそんなことしそうっていうんじゃなくて……えっと、ユカイな投稿っていうのは、例えばね、こう『オレたち出席停止楽しんじゃってまーす』みたいな写真をアップしたりとかなんだけど」
慣れてそうにない手つきでダブルピースをキメる西山助教。蓮台寺は、見たくないものを見てしまった、と思った。
「先生、ほんっっっとうにすみませんでした!」
とにかく謝って、立ち去るしかない。
「あら、前とは違ってずいぶんと殊勝な心掛けね。わたしは、きみがカンニングしようとしたなんてもう思ってないわ。だって、カンニングにしてはお粗末すぎるものね」
だったら、なんで見逃さなかった? こっそり注意するだけで済ませてくれなかった? と、蓮台寺は頭を下げたまま、怒りを抑えるために深呼吸した。
「でももう、時間が結構経ってたからね。テストをあれ以上受けさせるわけにはいかなかったの」
本当にそうか? それまでの解答を無効にして、それ以降の解答は続けさせることもできたんじゃないか? 蓮台寺は黙って聞くのに精いっぱいだった。
「不正行為は不正行為だからね。そこはきちんとしないと」
頭デッカチかこのBBAは! と蓮台寺は内心毒づいた。だが、ここでキレることはできない。なにしろ、さっき後ろの扉の向こうで叱られたばかりなのだ。
蓮台寺が立ち去るタイミングを見計らっていると、その機先を制し、西山助教が蓮台寺についてこいと促した。廊下で話していると、目立つのでよくないというのだ。
話が話だけに、蓮台寺に異存はなかった。だが、ほかにもっと話があるとでも、いうのだろうか。もっとも、教師にそういわれれば、叱られたばかりの学生である蓮台寺はついて行くしかない。
廊下を少し歩いて階段を上り、行きついた先は二階の西山助教の研究室だった。といっても個人の研究室ではない。何人かの助教で共用している少し広めの研究室だ。
研究室に入ると、デスクが六台置いてあった。しかし、誰もいなかった。
「お茶くらい淹れるわ」
そう言って、西山助教は蓮台寺に座るように促した。その席は、西山助教のデスクの隣だった。西山助教のデスクは、お菓子の袋がディスプレイされているほかは、実に殺風景なものだった。だが、ほかのデスクも似たようなものだった。あまり使われていないのだろうか。おやつ部屋かここは。と、蓮台寺は思った。
「なんで来てもらったかというと」
西山助教はネコさんの柄の入ったマグカップをもっていた。そして、イヌさんの柄の入ったマグカップを蓮台寺の前に置いた。入っていたのはペットボトルから入れられたであろう、ただのお茶のようだった。「淹れる」という言葉が宙に浮いていた。
西山助教が椅子に腰かけると、胸元がぱっくり開いた。いったいなぜ、このBBAはいつもこんなブラウスを着ているのだろうか、と蓮台寺は思った。
加藤教授の授業に西山助教が手伝いに来ると、男子学生はエグいエグいと喜んだものだったが、蓮台寺にはそれをありがたがる気持ちがよくわからなかった。まあ、見る分にはいいのかもしれない。蓮台寺も、見るのはやぶさかでない。ありがたがったり、騒いだりする必要を感じないだけだ。
「蓮台寺くんにはドロップアウトしてほしくないの」
胸元を隠そうともしない西山助教は、マグカップを両手に包んで言った。蓮台寺がお茶に口をつけると、ひんやりと冷たかった。
「不正行為で懲戒を受けたあと、そのまま大学からいなくなっちゃう人って、わりにいるのよ」
よくわかる。実際、蓮台寺もそうなりそうだった。たまたま、奇妙な先輩に奇妙な引き止められ方をされたにすぎない。だが、そんな話を西山助教にするわけにはいかない。
「でも、それくらいでせっかく合格した大学をやめちゃうなんて、もったいないわよね」
大学に行く価値があるなら、の話だ。と、蓮台寺は冷めた頭で思った。うっかりミスでこの扱いだ。成績評価に関係ないはずなのになぜかカウントされる「出席」。出席さえしていれば、隠れて漫画を読んでいても「出席」は「出席」。「持ち込み可」のテスト。勉強しなくても取れる単位。アンバランスすぎないか。
「だからね、わたしは許すわ」
なんの話をしているんだ、このBBAは、と蓮台寺は思った。すでに懲戒処分は決まっている。許すも許さないもないはずだ。だが、蓮台寺は言い返さなかった。心の声を外に出していいことはない。
「きみがわたしの胸を見てたこと」
「先生、女性から男性に対してでもセクハラは成立するのですよ」
心の声が外に出た。とたんに西山助教の顔が真っ赤になる。
「なによ! 見てないっていうの! 見てたんならきみがセクハラなんだからね!?」
胸元の大きくあいたブラウスを着てること自体がセクハラなんです、と指摘したかったが、この話を続けること自体が危険と蓮台寺は察知した。しかも、部屋には二人だけなのだ。どちらかといえば、蓮台寺のほうが危険にさらされている。そう、セクハラ冤罪という危険に。
「見、て、ま、せ、ん」
と、言いつつ、思いっきりはだけている胸元をつい凝視してしまう。確かに今日は暑い。そんなことを蓮台寺は思った。
「見てるじゃないの!」
今初めて気が付いたかのように、西山助教は胸元を手で隠した。
「先生、『認知的不協和』ってなんでしたっけ」
蓮台寺は落ち着き払って言った。
「え、そんなのフェスティンガーでも読みなさいよ」
「はい、わかりました。図書館で探します。ありがとうございました」
そう言って、蓮台寺は椅子から立ち上がると、扉の前まで行き、軽く会釈して部屋を出た。そして、急いで歩み去る。とにかく、あのBBAには頭を冷やしてもらう必要がある。できれば永遠に。
木曜日の午後。構内のコンビニの前で缶コーヒーをすすりながら、蓮台寺は昨晩来た与那からのSNSメッセージのことを思い出していた。
もう、二期の二週目に入っている。いったん懲戒処分が正式に通達されると、落ちるところまで落ちた気がして、かえってハレバレとした気持ちに蓮台寺はなっていた。授業では相変わらず田中俊以外誰も話しかけてこないが、慣れることはできそうだった。
それにしても、と蓮台寺は内心、嘆息していた。また「先輩」だ。めんどくさい。めんどくさいが、情報を集める必要がある。企みの全貌、関係者の。
みんなでカンニングし合える環境を作る、だと? カンニングも、自分の力で成し遂げてはじめて実力といえる。答案を見せ合うだと? 他人の力をあてにしてどうする。テストを無視して自由に勉強だと? 結局、カンニング用ノートづくりのためにノートテイキングに奔走させられているのは自分だ。蓮台寺は、引き受けはしたが、当初から感じていた違和感は消えず、むしろ大きくなり、与那の企みに憤りを感じはじめていた。
なんとかして、与那の邪悪な企みを阻止し、自分の力でテストを受けるという正義を行き渡らせなければならない。そう、「持ち込み不可」のテストばかりにするのだ。そのためには、「持ち込み可」のテストに問題があることを学部に思い知らせる必要がある。「持ち込み不可」のテストばかりになれば、蓮台寺の独壇場のはずだ。蓮台寺にはなにしろ彼にしか扱えない常人離れしたカンニング技法があるのだから。
ということは、つまり。与那の企みは事前に学部当局に通報されなければならない。与那は蓮台寺が手伝えば「なんでもしてあげる」と言ったが、しょせんSNSのメッセージだ。実際、与那はあれから話しかけてもこない。廊下ですれ違っても会釈すらしない。信用ならない。
そんなことを蓮台寺が考えていると、突然、横から鈴を鳴らすようなかわいらしい声がした。アニメ声とでもいうのか。
「きみが三百人に一人のおバカさん?」
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