第五話 いやー。学生運動なんていまどき流行らないよー
蓮台寺の傷心を置き去りにして授業は終わった。がやがやと教室を出ていく学生たち。亜有利はもちろんのこと、蓮台寺に声をかける学生は誰もいなかった。
露骨すぎる。蓮台寺は涙が出そうだった。カンニングがバレたといえばバレたが、いつもしているそれ(蓮台寺の定義によれば、凡人の思いつかないだけでむしろ正しいテストの受け方なのだが)ではなく、うっかりミスであって、蓮台寺からすればカンニングともいえない代物なのだ。
蓮台寺は、誰もいなくなった教室にひとり残っていた。
さいわい、その教室では次の授業は行われないようで、誰も入って来はしなかった。五・六時間目は少人数クラスの授業が多く、今、蓮台寺がいるような講義室はあまり使われない。
下宿に帰ろう。どうせ留年だ。みんなが自分を忘れる時間はある。いや、そもそも順風満帆の今までの生活が破綻したのだ。いっそ、どこまでも墜ちてしまおうか。でも、どうやって? そんなふうに蓮台寺が考え始めたとき、突然、開けっ放しになっていた教室の扉のほうから声がした。
「きみ、たそがれてるね!」
蓮台寺が声のしたほうを向くと、そこにいたのは黒髪ロングストレート委員長女子だった。やはり芝居がかっている。蓮台寺は、例のテストの当日に、この女子と偶然会ったことを思い出した。だが、正直なところ、今は誰にもかまってほしくはなかった。無言で席を立つ。
「おっと、きみに用があるんだよ、わたしは」
教室の中に入り扉を閉めると、つかつかと蓮台寺のほうに歩み寄る委員長女子。蓮台寺の正面から近づいてくるので、にわかには避けられない。
「いったいなんなんですか、あんたは」
どこで知ったか知らないが、蓮台寺をカンニング男と見込んでやってきたに違いない。どうせカンニングについて興味本位に聞こうとするのだろう。誰かはまったくわからないが。露骨にイラついて見せる蓮台寺を、その女子は気にするふうではない。むしろ、蓮台寺の目を見て言った。
「わたしは
「先輩じゃないですか……」
蓮台寺は、先輩と後輩の上下関係を気にするほうだ。
「それって部活ですか?」
蓮台寺は与那が何を言っているのかまるで想像もつかなかった。
「『学修』の『しゅう』は『習う』じゃなくて『修める』ほうだからね」
与那は、細かいことを気にした。
「そんなことをぼくは聞いていません」
いくら先輩でも、今の蓮台寺は気にしていられない。
「それに何の部活だか知りませんが、参加する気はありません」
蓮台寺は、ふだんなら、先輩相手にそこまではっきりと物を言うことはない。だが、半ばヤケ気味になっていた。学校から排除されるなら、そこでの上下関係など気にしてどうする? その場からすぐにでも立ち去りたかった。もう、大学にいたくなかった。だが、目の前には与那が立ちはだかっていた。
「まあまあ、話だけでも聞きなって。この教室、今日はもう誰も使わないからさ。ゆっくりお話しできるよ」
そう言うと、与那は近くの椅子に腰を下ろした。そして、蓮台寺の前で、ゆっくりと足を組む。何気ない仕草だが、どこか男子の目を引くように計算されているような、やはり芝居がかった仕草だった。
あらためて見ると、与那はモデルのようなスタイルに、アイドルにでもいそうな顔立ちだった。アニメや漫画に出てくるような、美貌とカリスマを備えた委員長。唐突な出現の仕方と、芝居がかったせりふ回しに注意がそらされてしまい、蓮台寺はそのことに今までまったく気が付かなかった。
いずれにしても、これから先の蓮台寺の学生生活で、話しかけてくれる女子がどれだけいるのか。今の蓮台寺には消極的な想像しかできない。これから与那がする話も、どうせ色気のない話だろう。そもそも女子から色気のある話を蓮台寺は聞いた覚えがない。しかし、今、蓮台寺の目の前にあるのは貴重な女子との会話の機会だ。
蓮台寺は与那の足から目を遠ざけると、その向かいに座った。
「ねえ、わたし、まだきみのお名前聞いてないよ」
と、与那は手を組みながら言った。
「……蓮台寺です。蓮台寺伊都」
ふーん、と言って、与那は窓の外を見た。窓からは木々の緑が見える。6月初旬。外はもう暑い。
「単刀直入に聞くけど、蓮台寺くんはテストに疑問をもってない?」
テストに疑問、と聞いて蓮台寺は心臓がいっしゅん張り裂けそうになった。蓮台寺の「テストの正義」はバレていない、記憶力を試すテストは間違っているという信念は、誰にも話したことはないはずだ。黙っていると、与那は続けた。
「だって、ほら、ここの学部のテストさー。だいたい持ち込みOKだよね。ようするに、何でも書き込んでいいってわけでしょ。それって、教師たちの胸先三寸で点数を付けられてるってことじゃない?」
違う。ふだん蓮台寺の考えていることとは真逆だ。蓮台寺は、テストでは記憶力ではなく思考力を試されるべきだと信じていた。それを見透かしたように与那は続けた。
「持ち込みOKにして、思考力を試すって言ってもさー。思考力は授業で教えてもらってなくない? 授業で教えてもらうのは、専門的な知識とか、専門的な理解の仕方で、思考力そのものじゃないよね」
記憶力でもない。
「その、専門的な知識や理解を聞くために、『持ち込み可』にしているんじゃないんですか」
記憶力を試さないために。
「持ち込んじゃうと、結局、答案がノートや教科書のカットアンドペーストになっちゃうって思わない?」
与那は、にっこりとほほ笑んだ。
「でさ、そういうのでいいんだったら、いったい何の学びをテストしてんだって感じだし、それじゃよくないんだったら、なんで持ち込みさせてんだって話じゃない?」
詭弁だ。専門的な知識・理解を活用する能力をテストしている、あるいは、ノートや教科書の引き写しの部分には配点しないという方法はありうる。と、蓮台寺は思った。
「いや、わかるよ。専門的な知識・理解の応用の仕方に配点して、カットアンドペーストの部分には配点してないんじゃないかって。そういうことでしょ。でも、問題はそこじゃないの」
与那はそう言うと、蓮台寺の目を見た。
「問題は、どう採点しているのかわからないってことなの」
確かに、採点基準の公表という制度は、能生大学人文学部にはなかった。
「仮に採点基準が公表されたとしても、持ち込みOKのテストの採点基準よ。記憶力は試してないわけだから、ノートや教科書に書いてあることをそのまま引き写しただけじゃだめなはずよね。となると、あらかじめはっきりとはわからない、よね」
与那は畳みかける。
「『持ち込み不可』だったら、記憶力が試されてるっていうのは明らかだし、結局、わたしたちって、そういう勉強をこれまでやってきたわけじゃん。でも、持ち込み可能だったら、誰でも何でも書けるわけでしょ。採点基準だって、後からいくらでも作れるんじゃないかしら」
蓮台寺は、与那の言わんとしていることがまだよくわからなかった。ようするに「持ち込み不可」の試験を増やすよう、教員たちに掛け合おうとでもいうのだろうか。
「じゃあ、先輩は今の人文学部のテストの仕方はおかしいっていうんですか。すべて『持ち込み不可』にすべきだ、と」
そうすれば、蓮台寺には目立つチャンスが増える。なにしろ蓮台寺にはこれまで培ってきたカンニング技法があるのだ。一年留年して、みんなが蓮台寺のカンニング事件を忘れたころ。あるいは学年が変わって、誰も蓮台寺の大失態を知らないということになれば、テストで目立つことができるかもしれない。蓮台寺のテストの正義は誰にもバレない。
いずれにしても、そんな要望を学部にしてみたところで、蓮台寺には通るようには思えなかった。学部は非常に保守的のように思えたからだ。なにしろ、持ち込み不可を失念していただけという蓮台寺の主張は、一顧だにされていない。もっとも、正式な懲戒処分の決定の前には、正式な事情聴取がある。懲戒処分の見込みを蓮台寺に伝える電話で、学生委員会の教員はそう言っていた。とはいえ、すでに「見込み」はついているのだ。ようするに、決めつけられている。実際、一期のテストは全部無効になると聞いた。蓮台寺は学部に不信感すら抱いていた。
そんなことを蓮台寺が考えていると、しばらく蓮台寺の様子を見ていた与那は、手を振りながら言った。
「いやー。学生運動なんていまどき流行らないよー」
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