第三話 もう行ってもいいですか
「そ、それは……そもそも文系と理系との違いがわからないといけないわね。文系をざくっと人間の内面にかかわるもの、理系をそうでないものとして分ければ、心理学は文系ということになるわ」
と、西山助教は理性を取り戻したような顔で言った。
「なるほど、勉強になります」
蓮台寺も見かけ上、冷静さを取り戻していた。
いっしゅん、間が空いた。
「って、そんなことはどうでもいいの。どうしてあんなことをしたのか聞いているんです。めんどうなことになりますよ」
今度は西山助教が蓮台寺から目をそらした。キレたことを反省したのだろうか。
「ですから、持ち込み不可なのを忘れてたんです」
と、蓮台寺。
「ふつうは、忘れません。その証拠に、ほかのみんなは持ち込んでなかったでしょう」
「そんなの、ぼくにはわかりません。他人の机の上など見ていないので」
蓮台寺は、実際には試験中に注意されたときに隣の人の机を見ていたが、そのことを認めたくはなかった。いささか場違いな意地だった。西山助教は、若干、気圧されたようだった。
そう、他人の机の上は見ない。それが蓮台寺のテストの
「ともかく、のちほど学生委員会から呼び出しがかかるでしょう。すぐに連絡のつく連絡先をここに書きなさい。そうしたら、行っていいわ」
西山助教は、机の上にあったメモ用紙を蓮台寺に渡した。蓮台寺は、携帯端末の電話番号を殴り書きすると、西山助教に渡した。なんだかもう、丁寧に書く気はしなかった。
「きみ、態度を少し改めないと、知らないわよ」
そう言って、西山助教は書きなぐられた電話番号を見つつ、蓮台寺を小部屋から追い払った。小部屋の外ではやはり事務職員が何人か座って作業していたが、何も見ていないのていだ。
まだ、試験時間中である。試験時間は九十分。テストを終えた連中が教室から出てくるのには、まだ一時間近くある。
蓮台寺は、ゾンビのように、ふらふらと、テストの行われている建物から離れて、構内にあるよく行くコンビニに向かった。
これまで、大きなミスをしないで「品行方正」に生きてきたつもりだった。すべてのテストで自分にとっての「最高」点をとってきた。蓮台寺にとって、ミスとは実力を出し切れないこと。すなわち失点・減点である。不正行為など、実力以前の大きなミスだ。
蓮台寺は、実力について独特の考え方とこだわりをもっていた。
蓮台寺の考える実力に、記憶力は入っていない。蓮台寺に言わせれば、記憶力を「鍛える」ことなどできないからだ。記憶力で成績の良し悪しを決めるなど、ナンセンスであり、知識を生かす理解力や論理的な思考力を貶める悪しき慣行である。
むろん、悪しき慣行に囚われた凡人にあえてそう説明するようなことは、蓮台寺はしていない。
つまり、蓮台寺の実力とは、カンニングペーパーを作成することをも含む。ただし、他人の答案は盗み見ない。それは、蓮台寺の実力とは関係がないからだ。カンニングペーパーの「持ち込み」は、蓮台寺にとっては真っ当な「テスト対策」だった。
蓮台寺のカンニングペーパーは、もはやアートだった。なにしろ、蓮台寺は自分で開発した特殊な記号を用いて、本来なら数語では表せない情報をほんの一、二字の記号の組み合わせで表現する。仮に見とがめられても、蓮台寺以外には、まず意味のある文字には読めない。模様にしか見えない。そのうえ、周囲がカンニングを疑わないように、ふだんから勉強しているふうを装い、いかにも秀才ぜんとした振る舞いを心掛けていた。
大学共通入学テストでは、試験時間が短く、カンニングペーパーを使ってゆっくりじっくりと解けないため、カンニングは最初からしなかった。そのため、大学共通入学テストで「足きり」を超えられなかったところは受けていない。大学共通入学テストで十分に稼得できなかった点は、二次試験で存分にカバーした。
その結果が、蓮台寺の今の学生という身分である。本人は知らないが、ほぼ首席に近い入試成績だ。
それなのに。
「持ち込み可」のテストが、あまりに多かったゆえに。
いくらでも「教科書への書き込み」が可能であったがゆえに。ふつうの言葉でだらだらとメモっていても何の見咎めもなかったために。
それまでテストになれば当然張りつめていたはずの緊張の糸が、弛緩しきっていたに違いなかった。
「持ち込み不可」のテストに教科書を持ち込むというケアレスミス。
退学はいくらなんでも行き過ぎとしても、どうなるのだろうか? 前例を知らないため、蓮台寺にはわからない。
蓮台寺は、気が付くとコンビニ入っては出、入っては出を三回は繰り返していた。
我にかえると、蓮台寺はコンビニ併設の自習スポットの近くにいた。見渡すと、商品棚の置かれたスペースから離れた一角に配置されたいくつかテーブルで、何人かの学生が次のテスト勉強らしきものをしているのが見えた。
とくに何か買うものを探しているわけでもない蓮台寺は、何気なく、手近なテーブルの上を見た。
そのテーブルには、誰もいなかった。だが、そのテーブルの上には、心理学の教科書とノートが何冊か積み重なり、最新の薄型軽量ノートパソコンが置いてある。椅子は、誰かがとんでもない勢いで立ち上がったみたいに、テーブルから離れたところに飛んでいた。
蓮台寺は、風で飛ばないように教科書で押さえられている紙に目を取られた。それは、さっきの「心理学原論」のテストの問題用紙だった。まだ、試験は始まったばかりのはずだ。西山助教に捕まっていた時間も含めて、三十分くらいしか経っていないはず。もう書き上げて、提出して、誰かがここで自己採点でもしているというのか。
「きみも、『心理学原論』のテスト、受けてたの?」
うしろから声がした。蓮台寺が振り返ると、蓮台寺よりも少し背が低い女子が立っていた。黒髪ロングのストレート。女子にしては背が高めだ。口調は柔らかだが、自信に満ちていてどこか威圧的だ。委員長? いや、大学には学生の「自治会」はあっても「委員会」みたいなものはない、はずだ。それとも、知らないだけか。ただ、彼女を見たとき、蓮台寺の脳裏に「委員長」ということばが浮かんだのは事実だった。
その女子は、まじまじと蓮台寺を見ると、ふと気が付いたかのように言った。
「あ、もしかして、教科書持ち込んじゃったっていう彼? それがきみ?」
「教科書持ち込んじゃった」というあたりで、コンビニにいたほかの学生たちが一斉に蓮台寺たちのほうを見た。そんな気がして、蓮台寺は慌てた。いきなり「前科」を口に出された蓮台寺は、小声で抗議するしかなかった。これ以上目立ちたくはなかった。
「もう行ってもいいですか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます