第二話 心理学って、なんで文系なんですか? 先生

 なんという間抜けなのだろう。蓮台寺は、まるで自分が自分ではないように思えた。

 周囲からは、ただ筆記用具のカリカリという音だけが聞こえる。蓮台寺たちのやりとりが聞こえていないわけはないだろう。

「ちょ、もう少し声を小さくって言いませんでしたか?」

 女性試験監督は蓮台寺を睨みつけた。

 蓮台寺は、ぼんやりと女性試験監督の顔を見続けていた。ふだんの授業では見かけないものの、配布物が多いときは手伝っていた女性のような気がする。同期の学生のなかには、「エグい身体だな~」などと言っていたヤツもいたことを思い出した。

 だが、蓮台寺にとって、20代後半の女性教師はBBAだ。まるで興味はない。しかし、その「エグい身体」が目の前にあるとなると、話は別だった。どうエグいのか、つい体が反応してしまう。

 いやいや。ふだんの自分は、こんなBBAを観察したりなどしない。これは、「逃避」だ。現実逃避。蓮台寺は、頭ではなく心でそれを理解した。

「西山先生、あまりここでしゃべるのはよくありませんから、いったん、彼を事務室まで連れて行ってくれませんか?」

 蓮台寺が状況にふさわしくない葛藤をしていると、男性教員が早口で言った。

 加藤俊幸かとうとしゆき教授。髪の毛はぼさぼさ、無精ひげ。フケだらけのシャツの襟。いかにも文系教員といったていのように蓮台寺には思えた。どうせ、授業以外は食っちゃ寝しているだけの社会不適合者に違いない。

 加藤教授は今度は蓮台寺に向かって小声で言った。

「あなたは、持ち込み不可ということを知らなかったというのですね。それが本当かどうかはともかく、もう試験が始まって20分は経っています。これ以降の受験は認めません。西山先生について退出してください」

 そう言うと、男性教員は教壇に戻っていった。ほかのみんなは試験中なのだ。他の学生が不届きなことをしないように見張り続けなければならない。

「わかりましたね。じゃあ、片づけて。試験用紙は全部置いたままで」

と、西山先生と呼ばれた女性試験監督が言った。

 そうだ、西山先生だった。髪の毛ぼさぼさの男性教員、加藤利幸教授の授業補助をしている西山梨恵にしやまりえ助教。

 加藤研究室は意外に人気で、ゼミ生や院生も多く出入りし、いつも誰かが授業の補助などの作業をしているのだが、西山助教の登場率は低かった。だが、どこかヨーロッパ的な印象に残る顔立ちと「エグい身体」で、男子学生のなかには色めき立つ者もいるようだった。

「ほら、早く!」

 ヒソヒソ声でせっつく西山助教。どうしても顔が近くなる。見たくもないBBAの胸元が目に入る。蓮台寺にはそれなりに座高もある。それに対し、西山助教は背が低い。そして、よりにもよって、西山助教は胸元が開きやすいタイプのブラウスを着ている。必然的に、蓮台寺の目は、エグい胸元へと吸い寄せられていく。

 見えてしまった。ブラウスの奥に潜むもの。

 いっしゅんの後、蓮台寺が目を上げると、西山助教と目が合った。冷たい目だ。何やらいっしゅん、不届きな学生に対するのよりも何か違ったゾクっとするものを蓮台寺は感じた。が、すぐにわれに返り、そそくさとカバンに筆記用具などをしまう。西山助教は無言だ。

 教室を出た。廊下は静まり返っていた。当然、まだテスト中だ。

 西山助教は、黙って歩いていた。追いかける蓮台寺。テストは、人文学講義棟の四階で行われており、事務室は一階だった。

 階段を下りる二人。もちろん、話すことなどない。

 事務室にたどり着くと、西山助教は、事務室の奥にある仕切られた小部屋に入っていった。何人かいる事務職員は、誰も顔すら上げない。自分の仕事に忙殺されているのだ。声をかけられるまで、その仕事から目を離すことはない。

 事務室奥のその小部屋は、いつもなら封筒に書類を入れたりする作業に使うところだった。西山助教についていく蓮台寺。

 蓮台寺が小部屋に入ると、小さな作業机と何脚かの椅子が見えた。

 西山助教は、その椅子に腰かけると、その向かいにある椅子を手で指示した。座る蓮台寺。

「見たわね」

 教室内とはうってかわって、感情を抑えているような調子で西山助教は言った。

 持ち込み不可のテストで教科書を見ていたのだから、それはまあ、そうだろう。と、蓮台寺は思った。そんなことより、これから自分はどんな懲戒処分を食らうのかが心配で、それだけだった。それで、はあ、まあ、とかなんとか言った。

「なに? それ。その間の抜けた返事!」

 西山助教は吐き捨てるように言い放つと、椅子から立ち上がり、蓮台寺に近づいてきた。座っている蓮台寺と立っている西山助教。蓮台寺は少し見上げるだけで目が当たった。近くで見ると、西山助教の顔は紅潮していた。

 学生に対する懲戒処分の相場なんて、蓮台寺には知る由もない。一介の助教でも、キレれば退学処分とかができたりするのか? するかもしれない。

 今まで、「品行方正」に生きてきた蓮台寺は、「退学」の汚名を考えて吐きそうになった。蓮台寺は、うつむいて、小声で、とりあえず謝った。もっとも、そんな自分とは別に、そこまでキレることだったのか、とヘンに冷静に分析している自分を感じてもいた。

「きみ、蓮台寺くん、かしら?」

 蓮台寺が黙ったまま目をそらしているあいだ、西山助教は、教室から出るときに机の上から回収した蓮台寺の学生証を見ていた。声には少なからぬ怒気が含まれている。

「ここで謝られてもしかたないんだけど。もっとほかに言うことはないの? あんなことをしといて!」

 あまりの剣幕に、蓮台寺の思考はトンだ。

「ほら、何か言いなさいよ!」

 西山助教はまくしたてた。この声、きっと外にも聞こえてるんだろうな……どこか遠くに自分がいるような気がする。その自分は、妙に落ち着いている。

 確かに、カンニングは悪いことだ。高校まで、そう習ってきた。

 だが、蓮台寺は思った。他人の答案を見たわけじゃない。他人の努力を盗んだわけじゃない。

「先生、いつも思ってたんですが……」

 話しているのは自分じゃないみたいだ。

「な、なによ……」

 それまではボソボソとつぶやくことしかしなかった蓮台寺が唐突に話し始めた様子に、西山助教はたじろいだ。

「心理学って、なんで文系なんですか? 先生」

 

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