第13話
六月の終わり、期末テストの時期が近づいてきていた。
「ねえけーくん、期末テスト大丈夫なの?」
いつもの地下室での訓練の後、梓が聞いてきた。
「おう! 大丈夫だ!」
圭太はなんのためらいもなく答えた。
「え……? 大丈夫って……中間テスト全教科赤点だったんでしょ? しかも全部一桁」
梓がこいつはなにを言っているんだといったような顔で圭太の顔を覗いた。
「おう! 期末テストもなにやったってどうせ全部赤点だ! 今更どうしようもない! だから大丈夫だ!」
圭太は既に薬が切れている。そのため、梓の心音に気づくことは出来なかった。
梓が一瞬で圭太の脇をすり抜けながら圭太の頭をスパーンと叩いた。ぐらりと圭太が倒れる。
どさっとしりもちをついたところで圭太がわめいた。
「なにすんだ! 俺の頭が悪くなったらどうしてくれる!」
梓が振り向いた。
「既に悪いわよ! なに考えてんの! 普通は赤点どうにかしようとするところでしょう!」
圭太は勝ち誇ったような顔で語る。
「俺は既に留年を覚悟しているからな!」
梓はしりもちをついた圭太の脇を一瞬ですり抜けながら再度スパーンと頭を叩いた。
「あっちゃんは俺をバカにするつもりか!」
「既にバカよ! まだ六月終わってないじゃない! この段階であきらめるとかほんとなに考えてんのよ!」
そして梓は言いにくそうにうつむきながらぼそぼそと口を開いた。
「そこはほら、成績優秀な人に教えを請うとかあるじゃない……」
そういうと梓はうつむいたまま横を向いた。
「んん! その手があったか! しかし俺に勉強を教えられるほどの人間が果たしているのか?」
圭太は腕を組んで首を傾げていたが、ふと何かに思い至った。
「そうか! あっちゃんに教わればいいんだな! 戦闘訓練とかで色々教えてもらってるから、俺に教えられるだろうし! 小学生の頃は俺と大差なかったし!」
梓は腕を組んでそっぽを向いた。
「そ、そこまで言うなら仕方がないわね! 教えてあげようじゃないの!」
「おう! 頼むあっちゃん勉強教えてくれ! 今から俺の家こいよ!」
「い、今から? ずいぶん急ね」
「そりゃあそれだけ俺がヤバいってことだ」
「自覚してんじゃないの! ……もういい、わかったわ。一旦家帰ったらけーくんの家に行くから」
「おう!」
二人は地下室を後にした。
帰り道、口頭で圭太の理解度を確認していた梓は、圭太が高一の内容すら危ういことに絶望していた。
家が近くなると、梓が「汗かいたし、シャワー浴びてから行くからちょっと遅れる」と言ってマンションの中に入っていった。
圭太は自分の家の玄関を開けた。「ただいまー」と言うが返事がない。そのまま靴を脱ぎ、二階の自室に向かう。
「さて」
圭太は一人つぶやいて、部屋の片づけを始めた。さすがに全く掃除せずに他人を部屋にあげるほど圭太も無神経ではない。
とはいえ、そこまで念入りに掃除をしているわけではなく、あくまでおおざっぱに、人が入れるほどのスペースを確保するための物の移動をしているだけだ。
片づけも終わりが見えてきた頃に、家のチャイムが鳴った。
「どちら様ですか?」
先に玄関で対応した圭太の母親の問いかけに梓が答える。
「桜井と言います。圭太君に用があって」
二階の階段から圭太が頭を出した。
「お! あっちゃん来たな! ってうお!」
圭太は梓の姿に驚いた。いつものジャージ姿ではなく、以前購入した、活発な印象の服だった。首にはネックレスがゆらいでいる。
「まあいいや! あがってあがって!」
「し、失礼します……」
梓は持ってきていた鞄を両手で抱え、少し上目遣い気味に出迎えた母親に会釈した。
その時、梓は違和感を覚えた。
母親の顔は全くの無関心だった。そこには、息子に会いにやってきた少女を微笑ましく思うような表情も、見知らぬ人物に対する警戒心も、こんな時間に尋ねてくる人物を不快に思う気持ちもなく、ただただ、無関心という表情をしていた。心音にもなにも変化がない。
母親も会釈を返し、家の中へと戻っていった。
梓は小走りで階段を上り、圭太に聞いた。
「ちょっと、おばさん様子おかしくない? けーくん何かしたの?」
「いや? いつも通りだ」
「あれが普通の母親の対応なのかしら……私も両親いないからわかんないけど……」
「どーなんだろうな? 俺も今の親しか知らん。でも前にも言った気がするけど、なんか無関心って感じなんだよな。まあ、飯食わせてもらってるから感謝してるけど」
「ふーん……まあ、けーくんがそう言うなら別にいいけど……」
話しているうちに圭太の部屋に二人は着いていた。
圭太はテーブルを出してきて言った。
「ほれ! やろうやろう!」
「だいぶやる気ね……」
「俺はやると決めたらやる男だ!」
「長続きするといいんだけど……」
梓の懸念は杞憂だった。圭太は終始梓の言うことをよく聞き、わからないところは質問していった。
戦闘訓練のときもそうだったが、圭太は口で聞いてもさっぱり理解しないが、自分でやってみるとどんどんと吸収していった。
「けーくんはあれね、問題集とか買ってひたすらやり続ければ成績あがるわよ」
「それはできん!」
圭太は腕を組んで断言した。
「なんでよ」
「バイト代はすべて漫画かアニメに消えるからだ!」
梓は圭太の頭をスパーンとたたき終わっていた。
「だからけーくんはだめなのよ! 少しは学生としてまじめに努力しなさい!」
「別に努力する必要ねえだろ。成績よくする意味がねえからな! 俺はまあ、学校いかなくなったら、その辺の工事現場で働くぜ! 身体だけは頑丈だからな!」
「成績よくする意味がないって……両親とかにいわれないの? もっと成績良くしなさいって」
「言われん! ほっとかれてるからな! だからこれは完全に俺の問題だ!」
そこで梓が立ち上がって腕を組んで言い放った。
「違うわ! 少なくとも今は協力関係にある私の問題でもあるのよ! 赤点とって補修で任務に行けませんとか冗談じゃないわ!」
そして小声でぼそっと付け加えた。
「……それに幼なじみとしても放っておけないし……」
「ほうなるほど! それはいかん! ならば授業をまじめにうけよう!」
圭太は腕を組んで大仰にうなずいた。
「だがあっちゃん。いまさら授業をまじめに聞いてもさっぱりわからんのだが」
「乗りかかった船よ! いいじゃない教えてやろうじゃないの! 試験範囲と言わず、わからないところは徹底的に教え込んでやるわ!」
「さすがだあっちゃん! それでこその幼なじみだ!」
「あたぼうよ!」
梓も圭太に流されてよくわからないテンションになっていた。
「ところで今気づいたんだが飲み物がないな。とってくるぜ。麦茶でいいか?」
「ええ。ありがとう」
「わかった」
圭太は立ち上がって部屋を出た。
一人になった梓は何となく部屋を眺める。
圭太が言うように、漫画やアニメのBDが多い。部屋の大半が漫画で埋め尽くされている。
全く漫画を読まない梓にはどれがおもしろそうなのか、見当もつかない。特に手に取らずに眺めている。
眺めていると、足下にも一冊、漫画が置いてあるのを見つけた。
なんとなく読み始めてみる。これが意外におもしろかった。圭太が来るまでの時間つぶしに読んでいることにした。
読んでいるが一向に圭太が戻ってくる気配がない。
結局、一冊読み終わるまで圭太は戻ってこなかった。
さすがに不審に思い、家の中の心音に注意を向ける。家の中には二つの心音があった。しかし一つの心音に異常があった。心音が弱い。
梓は即座に立ち上がり、他人の家ではあったが、構わず階段を駆け下り、弱い心音のする方へ向かう。
そこには異様な光景が広がっていた。
まず圭太が倒れていた。白目をむいており、意識はなさそうだった。
そして、圭太の母親もそばにいた。そばにいて、テレビを見ながら取り込んだ洗濯物を畳んでいた。
「けーくん!」
ひとまず梓は圭太に駆け寄った。
「すみません! 圭太君の意識がないみたいなので救急車を呼んでもらえますか!?」
そこで初めて母親は表情を作った。『面倒臭い』という表情だった。母親が口を開いた。
「大丈夫ですよ。放っておけばすぐ戻ります」
母親は言いながら洗濯物を畳んでいた。
「なっ……」
しかし、確かに母親の言うとおり、心音が多少弱まっており、意識を失っている、それ以外の異常は見受けられなかった。
仕方なく、梓は圭太のそばに座って様子を見守った。
数分後、がはっという呼気と共に圭太が意識を取り戻した。
「けーくん!」
梓は圭太に顔を近づけて呼びかけた。
「あれ? あっちゃん? なんでいるんだ? えっと俺は……ああそうだ、俺んちで勉強しようってことになって、麦茶取りに来たんだった」
「そんなことはどうでもいいから! 何か異常はない? だいじょうぶ?」
「ん……おう。ちょっと頭がぼーっとするけど大丈夫だ。いつものことだ」
その言葉に梓が目を見開く。
「ちょ……いつものことってどういうこと!?」
そこで、母親が割り込んできた。
「すいません、うるさいんで圭太さんの部屋で話してもらえませんか? テレビの音が聞こえないんで」
そう言って母親はテレビの音量を上げた。
「おうわるいわるい。麦茶とったらすぐ上に行く」
梓はとっさに何か言おうとしたが、それを飲み込み母親を睨みつけるにとどめた。
圭太はふらふらとキッチンに向かい、コップ二つに麦茶を注ぐと、両手に一つずつ持ってきた。
「ほら、いこうぜあっちゃん」
梓は圭太に促されるまま、圭太の部屋に向かった。圭太もその後ろから自分の部屋に向かった。
圭太は麦茶をテーブルに置いた。
「さて再開するぞあっちゃん!」
それに対して考え込むように梓が答えた。
「けーくん、失神するのっていつもなの?」
「そうだな。けっこうあるぞ」
「いつから?」
間をおかずに梓が問う。
「んー。最近、かなあ」
「もっと詳しく。……もしかして、それって、注射を打った日、じゃない?」
梓が難しい顔をしている。圭太は顎に手を当てて考えていた。
「まあ、言われてみればそんな気もするなあ……」
梓が息を吐いた。
「……注射を使った訓練は止めましょう。失神と注射の関係は私も施設に聞いてみるわ……答えが帰ってくるか怪しいけど……。あれだけ強化されるんだもの、どこかにしわ寄せが来るのは不思議じゃない。失神するだけでも問題だけど、他にも副作用があるかもしれない……」
「うーん。あっちゃんが止めるってんなら止めるけど、別に俺なら平気だぞ? 生きてりゃいいんだ」
「今、生きてられても、もしかしたら……その……死ぬ、かもしれないじゃない。そんなことは出来ないわ」
「ふむ、まあ、わかった。注射は打たないでおくことにするか」
「そうね。そうしましょ。でも一応動きの訓練のためにも、注射無しでの訓練もしておきましょう」
「おう。わかった」
圭太は勉強を始めるべく、教科書やらノートやらをぺらぺらとめくっていた。
そこで梓がうつむいてつぶやいた。
「……ごめんなさい……」
「ん? なにがだ?」
「副作用のことちゃんと調べもせず、けーくんに注射たくさん打っちゃって……」
「ああ、気にすんな。あっちゃん助けるって約束したしな」
「それでも!」
梓は何かを言い掛けて口を閉ざした。
「……けーくんは人が良すぎるよ……」
「ん? そうか? 褒めるなよ、照れるじゃねえか」
圭太は後頭部をかいた。
「褒めてるんじゃない。おかしいの、人として……」
「んん? どういうことだ?」
「……いいわ。なんでもない! 勉強の続きしましょ。嫌と言うほど教えてあげるんだから、覚悟してよね!」
「おう! どんとこい!」
梓の個人授業は夜遅くまで続いた。
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