第4話
梓がおよそ一ヶ月ぶりに登校してきた日の下校時、圭太は下駄箱に一通の便箋が入っているのを見つけた。
『大切な話があります。七時に五丁目の廃工場で待っています。一人で来てください』とだけ書いてあった。
「うおおお!」
その丁寧できれいな字から、圭太は女子からのラブレターであると確信した。実際のものを見たことはないし、根拠もないがそうに違いないと確信した。
ついに自分にも青春がやってきたのだと興奮した。一人で騒ぐ彼に注がれる周りの生徒の奇異の視線には目もくれず、丁寧に便箋を鞄にしまうと、一直線に家まで走って帰った。
家に着くと、以前友人に勧められて買ったまま、封を開けていないワックスを取り出し、念入りに髪をセットした。眉毛も以前床屋で教わったとおりにカットした。
そうやって鏡の前で奮闘していたら、待ち合わせの一時間前になっていた。自宅から廃工場までは三十分ほどかかる。そろそろ出発しなければならない。
圭太は手持ちの中で一番洒落ていると思っている服を着込むと、最後に鏡の前で全身のチェックをして玄関に直行した。
「ちょっと出かけてくる!」
「圭太さん。夕食は?」
「後で食べる! とっといて!」
家族とちょっとしたやりとりをする頃には靴を履き終わっており、そのまま玄関を開けて廃工場に向かって歩き出した。道中、相手はいったい誰なんだろうと様々に想像を巡らせた。
行き慣れない場所だったので少し迷ってしまい、廃工場の入り口付近の駐車場に到着したのは、待ち合わせの十分前だった。変な汗をかいてないか、髪型は崩れていないかなどを気にしながら待っていると、遠くから足音が聞こえてきた。
圭太がそちらを振り向くと、そこにはジャージ姿の梓がいた。
それを見た圭太の頭の中に疑問符が並んだ。
(差出人は桜井さんなのか? とすると桜井さんが告白? 俺接点あったっけ? いやまさかやっぱり桜井さんはあっちゃんだった? いやまてそもそもジャージっておしゃれ着だったっけ? 告白……にジャージ? まさか告白じゃない? 告白……じゃない……?)
そう考え、圭太は少ししょげた。
「ありがとう。来てくれたのね」
「お、おう……!」
しょげてはいたがなんとか返事をした。
「あの手紙は桜井さんが?」
「そう。悪いけど、ちょっと着いてきてもらえる?」
そういって梓は圭太に背を向けると、廃工場の中に入っていった。圭太は言われるがまま、梓の後ろに着いていった。
廃工場の中は工作機械が取り除かれ、ちょっとした広場のようになっていた。奥の方にはドラム缶が無造作に転がっている。
全体を見渡せる位置まで来たとき、圭太は立ち止まった。梓はかまわず奥まで歩き続けていった。
「な、なあ、桜井、これって……?」
圭太が見たものは、様々な種類のトレーニングウェアを着た十人以上の男たちだった。全員がストレッチなどをしており、これから運動する準備をしていた。
梓は奥に置かれた無数にあるドラム缶の一つに座ると、圭太に声をかけた。
「ここにいる人たちはみんな格闘家よ。総合格闘技、柔道、ムエタイ、実戦空手、古流武術、いろいろいるわ。今からこの人たちと、軽くスパーリングをして欲しいの」
「すまん意味が分からん! なぜ俺はそんな目に遭わなくちゃならないんだ!」
圭太が廃工場の入り口で叫んでいると、背後から強く突き飛ばされ、廃工場の中心まで押し出された。後ろにも男が居たようだった。
「え、ちょ、まじで? いや、えっと、まじで?」
「唐突にごめんなさい。でも必要なことだから。大丈夫、死人が出るようなことは絶対にさせないから」
「いや意味がわからん! なぜになにゆえ俺が戦わなければならぬのか!」
「ごめんなさい、今は説明出来ない。あとで謝礼も払うから」
「謝礼?」
「私に提供出来るものなら何でも。数百万くらいまでなら何とかなると思う」
「何でも……ねえ」
「もちろん怪我をさせるようなことはしないようにみんなに注意してあるけれど、万が一怪我をした場合の備えもしてある」
梓のその言葉に合わせるように、奥の扉から白衣の人物が数人出てきた。
「なんか桜井さんすげえな。こんなに色々な人用意して。そこまでしてでも俺がスパーリング? か? をする必要があるのか」
「それだけの意味が、必要がある」
梓が語気を強めて断言した。
「ふーむ……」
圭太は腕を組んで工場の天井を見上げた。口がぽっかりと空いていて、少々間抜けな様子ではあった。
そして視線を梓に向け、その目をよくよく観察した。何かを探るように。
「うん、まあ、じゃあやるか。桜井さんの理由は知らんが、俺の方には理由ができた。今できた。ならやってやろうじゃないか」
そう言いながら圭太は準備運動をする。
「ありがとう。心から感謝するわ」
「いいっていいって。一応俺も小さい頃に護身術っぽいのやらされてたからな。多少は戦えると思う。えっと、それで、誰からやるの? 最初は軽めがいいんだけど」
「全員同時」
「うん?」
そう言って梓は手を振り上げ、圭太に向かって手を振り下ろした。それを合図に、十人以上の男たちは圭太に向かって突進していった。
「まてまてまてまて!」
圭太の一番近くにいた男が上段回し蹴りを放ってきた。圭太は一瞬、立ち止まって受け流すことを考えたが、身体が止まってしまっている間に他の男たちに攻撃される可能性が高いと判断し、できる限り人の少ない後方に転がりながら距離をとった。
「洒落になんねえ!」
次に近い男は低い体勢でタックルの構えをとっていた。
その背後には両手を開いた柔道のような構えをとった男が控えていた。もしタックルに引っかかれば、そのまま寝技で落とされると圭太は判断した。後転した直後で後ろ方向に勢いが残っている今、敵に背を向けて逃げることも考えたが、背中を向ける時間で距離を詰められ、背中を向いた時点で捕らわれてしまった場合、最悪の状態になる。そう考え、圭太はタックルの構えをとっている男に向かって踏み込んだ。
「だああああ!」
圭太はタックルを構えている男を踏み台にし、柔道の構えをとっている男の両肩に両手をのせて前方宙返りをし、男たちの背後に回転受け身をとりながら着地した。
「どんなもんだちくしょうがああ! 囲まれなけりゃ何とかなるんだよちくしょうがあああ! あといきなり全員とかふざけんなこらああ!」
その様子を見て梓が男達に指示を出す。
「全員で追いかけてないで。包囲して連携を意識して」
「え、いやそれをやられるともうどうしようも……」
男たちは梓の指示に従うように、圭太を囲むように散開していった。
「桜井いいいい! 余計なこと言いやがってええええ!」
「ごめんなさい。でも必要なことなの」
「必要ならしょうが無い! のか!? どうなんだ!?」
圭太と梓が話している間にも男たちは圭太を取り囲み、じりじりと距離を詰めている。
「なあ桜井、降参てアリ?」
「ごめんなさい」
「いやまあ、そんなに謝るなよ……」
そう言って圭太は壁際まで後退すると、全身から無駄な力を抜き、自然体になった。壁際に移動することで男たちがすべて視界に入るようにし、習っていた護身術で教えられたとおり、無駄な力を一切排除し、最小限の力で立つ構えをとった。
最初に飛んできたのはボクシンググローブをつけたボクサーのジャブだった。
圭太はわずかに上体を右にずらし、飛んできたジャブに左手を添えると、そのまま右手を相手の腕にあてがい、ボクサーを投げ飛ばした。
圭太のその動きを見た瞬間、男たちの気配が変わった。『高校生相手だから』『怪我をさせるなと言われているから』そういった枷が緩くなっていくのを、圭太は感じた。
「あ、やばい」
圭太は男達の危険度が増したことを悟った。
次にきたのはどうやら柔道家のようだった。しきりに圭太の服を掴もうとしてきていた。圭太は捕まれたら終わりだと、自然体を崩さずに、相手の手をかわし続けた。そこに視界の端で横合いからタックルの姿勢をとる男の姿をとらえた。
(やべっ)
とっさにタックル潰しの姿勢をとったが、間に合わず、タックルに足下をすくわれ、地面にたたきつけられた。そこに別の男が全体重をかけた踏みつけを圭太の顔面めがけて振り下ろした。
「ちょ!」
タックルで圭太を倒し、圭太の上に馬乗りになった男は、圭太のわき腹に強烈なフックを何度もたたき込んだ。がら空きになった圭太の両足には鋭い蹴りが何度もたたき込まれた。相変わらず顔面への踏みつけは続いていた。何度か圭太の頭を男の靴がかすめていった。
「ストップストップ! やりすぎ! やりすぎよ!」
梓のその声を聞いて、男たちは圭太を解放し、圭太から距離をとった。
「ありがとう入来君」
梓の言葉を受けながら圭太は立ち上がった。
「いやいや、まあおっかなかったけど無事怪我もしてないしこれでおわ」
「最初の確認はできたから、次の確認ね」
「おわりじゃない!?」
「そう。ここから先が、本当の目的。これだけの人間を揃えた理由。本番」
そう言って梓は圭太に歩み寄りながら、ポケットから細長い入れ物を取り出した。それを開けると、中には注射器があった。
「え、なにその注射器、え、なに? 危ない薬……?」
「依存性はないから。身体にも悪影響はない……と思う」
梓の最後の言葉は消え入りそうなほど小さな声だった。
「え? なに? いま『と思う』って言ってなかった? 言ったよね? 俺は過敏系男子だから聞き逃さないぞ?」
「ごめんなさい」
そう言いながら梓は圭太の左腕を掴み、袖をまくり上げた。
「いやいやいや、謝って済むものと済まないものがあると俺思うな!」
圭太はつかまれた左腕を引こうとするが、梓につかまれた腕は万力で締められたようにぴくりとも動かなかった。
「桜井さん!? 離して! いやまずいって、流石に薬はまずいって!」
「ごめんなさい、本当に……ごめんなさい」
圭太の耳に届いた梓の声は、消え入りそうで、とても悲しそうな声だった。
その声を聞いて、圭太は抵抗するのが申し訳ないような気分になり、おとなしくなった。
その隙に、ささっと注射器で薬剤が圭太に注入されていた。
「あ、俺、注射、苦手」
既に注入され、解放された腕を眺めながら、今更なことを圭太が呟いた。
「これ本当にヤバイ奴じゃないよね?」
「それは、あなた次第」
「へ?」
圭太が『どういうこと?』と言おうとした瞬間、異変が起きた。
圭太の心臓の鼓動がこれまでの数倍の速度で脈打ち始めた。口から吐く息は余りに高温なため、湯気になっていた。
「では次の段階です。皆さん、どうか『死なないように充分に注意して下さい』」
圭太は立ち上がり、中腰の姿勢でハアハアと湯気を吐いていた。
梓は圭太に耳打ちをした。
「入来君、自由に暴れてちょうだい。ただし、『殺さないでね』」
圭太は様々な異常を感じていた。色々な音が聞こえていた。右手側二番目にいる男の上着の衣擦れの音、左手側一番奥にいる男の血流の音、そしてここにいる全員の心音。
音だけではない、においも、かすかに流れる風の感触も異常に鮮明に感じ取ることができた。
そして、すべてがとてもゆっくりに見えた。
身体は異常に軽かった。圭太は試しに三十メートルほど先にいる男に正拳突きをしてみようと思った。普通に考えればそんな離れた距離にいる人間に突きが届くはずがない。しかし今の圭太には、一足で踏み込んで突きをするというのが明確にイメージできてしまっていた。
両足の蹴りと身体操作で重心を前に送りだした。靴と地面がこすれる音を出しながら両足が地面から離れる。周りの風景がゆっくりと流れる。周囲に視線を送ると、誰も圭太の姿を目で追えていない。圭太が居た場所を見ていた。ゆっくり、ゆっくりと景色が流れている。まだ地面に足は着いていなかった。
結局、目的の男のところにたどり着いても、地面に足は着かなかった。圭太は考えた。このまま突きを放ってもいいのだろうかと。嫌な予感がした。今の自分が突きを放てば、男を殺してしまうのではないかと。そこで、目的を腹ではなく服をかすめる程度に変更してみた。
服をかすめようとしたが、服にちょっとした抵抗感があった。まるで紙粘土で薄く作られたような、わずかに抵抗感はあるが、ちょっと力を入れれば崩れてしまうような感覚があった。
圭太は構わず服に突きを放ち、そして引いた。瞬間、破裂音が圭太の耳をつんざいた。服は圭太の拳の形にくっきりと穴を開けていた。
男の脇を通りすぎた後も地面に足が着くことはなく、結局圭太は工場の壁に足を着くことになった。
破裂音に反応するように男たちがゆっくりと音がした方向を向いていくのが見えた。その心音から、どうやら呆気にとられているらしいことがわかった。
圭太は考えていた。どうすればよいだろうかと。どうやら今の自分は強化されているらしいこと、本気で攻撃すれば、たやすく殺してしまうであろうこと、そして梓から殺すなといわれていること。しかも相手は大勢だ。一人を抑え込んで終わりというわけにはいかない。どうするべきか。
そこでふと、梓から『自由に暴れろ』と言われたことを思い出した。
圭太は自分の思考が赤黒く染まっていくのを感じた。
圭太の顔面が、口角が引き上げられた笑顔を作った。その口からはもうもうと湯気が上がっている。
人格が豹変してしまったような、ひどく凶悪な表情だった。
「好きに……やらせてもらうぞ……」
手始めに、最初に回し蹴りを打ってきた男のところに飛んだ。圭太が壁を蹴った音がした次の瞬間には、そいつのところにたどり着いており、そいつの腕をつかんで、飛んできた勢いのまま、ドラム缶が並べられている区画にそいつを投げた。
男を投げた後も、壁を蹴って飛んできた勢いは衰えることなく、そのまま直線的に飛んでいきそうになる。その勢いを殺すため、強引に地面に拳を突き立てて、飛んできた勢いを殺す。
そして、次は柔道家のところに飛んだ。間に二人、余計な人間が居たから腕を掴んで、ドラム缶が転がっている方面に投げておいた。投げた反動で柔道家への軌道がずれたため、地面を軽く蹴り軌道を修正する。
柔道家のところにたどり着くと、両足を地面に突き刺し、勢いを殺して柔道家の前に立った。相手の心音が聞こえた。完全に動揺していた。
柔道家はそれでも、果敢に圭太の襟と袖をとり、投げようとした。しかし、圭太はびくともしなかった。圭太が重くなったわけではない。柔道家が重心をずらそうとするのにあわせて重心を移動し、投げられないようにしているだけだった。柔道家が仕掛けてくる重心の移動はとてもゆっくりだったので、余裕を持って対応できた。
柔道家が肩で息をし始めると、襟も袖もまるで掴まれていないかのようにおもむろにしゃがみ込み、柔道家の片足を掴んで、ドラム缶の方に投げつけた。
次はタックルしてきた奴だ。心音でどこにいるかが手に取るようにわかった。対象の方を見もせずに、圭太は地面を蹴って後方に飛んだ。対象の男は動けていない。圭太は男の後ろまで飛んでくると、後ろ側の襟首をつかみ、まるでタックルさせるようにドラム缶の方へ頭から突っ込むように投げ飛ばした。
そうやって他の男たちも全員ドラム缶溜まりへ投げ込んでいくと、圭太は両腕を広げて高らかに宣言した。
「おらああ! 死ねええええ!」
「殺すなっていったでしょ『けーくん』!」
瞬間、圭太の思考が止まった。『けーくん』――それは幼なじみに呼ばれていたあだ名だった。
圭太が思考停止しているその隙に、梓は圭太を抑え込んだ。
重心を完全に抑えられてしまっているため、圭太は梓の抑え込みから逃れられなかった。
さらに、圭太ほどの力はないものの、梓の力は他の男たちのそれを上回っていた。
「うがあああああ! 離せえええええ!」
圭太はしばらくもだえていたが、次第に動きが緩慢になっていった。口からあふれていた湯気は消えていき、心臓の鼓動も徐々に収まっていった。
「……あ、痛、いたたたたたたた!」
圭太は全身の痛みに苦しみもだえていた。
その様子を見て、梓は圭太を解放した。しかし圭太はうずくまったまま、痛い痛いと連呼していた。
「いてえ! 全身くまなくいてえ! なんというかいてえ! いてえとしか言えねえ!」
「『制御が難しい』とは聞いていたけれど、ここまで凶暴化してしまうものだったのね……」
そう言って梓は考え込んでいたが、はっと気づいて男たちが投げ込まれたドラム缶溜まりの方に向かって叫んだ。
「みなさん対応ありがとうございました。報酬は別途支払われるかと思います。一応皆さん、帰る前にそちらの医師に診察を受けてもらって下さい」
梓の声を合図に、ドラム缶溜まりから痛そうにしながら男たちが立ち上がり、めいめいが廃工場の扉の奥に控える医師の元に向かっていった。
圭太は痛みにごろごろと転がっていたが、やがて収まってきたのかあぐらをかいて地面に座っていた。
何か言いたげな顔をして梓を見つめていた。
「本当に色々、ごめんなさい」
「ほんとだよもう」
梓は圭太に向かい合った。
「にしても驚いたぞ。桜井、やっぱりあっちゃんだったんじゃねえか」
「……本当はけーくんを巻き込みたくなかったんだけどね」
圭太に向かい合うようにして梓も腰をおろした。
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