(非)模範的夫婦生活

@seizansou

本文

 俺が二十二歳を迎えた次の二月、政府からの指示で、同じ歳のユリカという女と結婚した。

 指示があった次の週から、政府指定の住居に俺とユリカの二人で住むことになった。

 マンションの一室で、大人二人が住むには多少狭かった。

「よろしく」

 初めて聞いたユリカの声は少し低めだった。


 同棲し始めてからもう数年経ったが、子供には恵まれなかった。

 このままでは、条例で規定された期間を超過してしまう。

 広場での処刑はよく見に行くが、子供を作らない非生産的市民が処刑されるのは何度も見てきている。

 このままではまずい。

 ユリカもそれはわかっているようで、二人でいるときの言葉の無い時間がひどく重く、息苦しく感じられる。

 それが日を追う毎に悪化しているように思われた。

 ユリカと二人きりになった時の居間は、ひどくストレスの溜まる空間だった。


 そんな時、俺は日記に自分の思いを吐き出す。

 その内容が危険思想に当たることは理解している。

 だから、危険思想だと取り締まられないように、保管場所には充分に気をつけている。

 まあ、そもそも俺もユリカも相手の部屋には入らないから、そこまで心配する必要も無いのだが。

 

 その日記には日頃の愚痴も書くが、俺が密かに心惹かれている、職場のカナのことを書くことがほとんどだ。

 ユリカに対して恋愛感情はない。

 それはきっとユリカも同じだろう。

 俺たちの間に恋愛感情は無い。

 愛のない結婚があるところには、結婚のない愛がある、という言葉を聞いたことがある。

 まさにそれなのだろう。

 俺はカナに対して恋愛感情を抱いている。

 勢いで書き綴った内容を翌日読み返すと、情熱ばかりが先走って語彙も文章も稚拙な何かが書き殴られていることが大半だ。

 あまりの恥ずかしさに破り捨てたくなるような衝動に駆られるが、実行はしない。

 もしゴミに出したそれらが思想警察の目にでも止まれば、俺は思想犯として連行されてしまうだろう。

 政府の計画に沿わない恋愛感情を持つことは禁止されているのだから。

 俺が恋愛感情を持つことが許されているのはユリカだけなのだから。


 職場はとにかく慌ただしい。

 俺は育児施設に勤めているが、一人あたり十数人もの幼児や子供の面倒を見なければならない。

 とはいえ、文句など言うはずも無い。

 これは政府が計画した最適で最善、効率的で理想的な配属なのだ。

 古い時代には、生んだ家族が子供を育てていたそうだが、なんと雑、なんと非効率であろうか。

 人間の成長にとって最も重要な、幼児期の生育の面倒を素人が見るなど、現代の効率化された社会システムを思えば、想像するだけでも恐ろしい。

 まあ一応、その時代にも、育児施設は存在はしていたらしい。

 だが、数は圧倒的に不足していたそうだ。

 感覚的ではあるが、その事態にも多少は想像が及ぶところもある。

 何しろ、子供、特に幼児というのは大抵予想外のことをしでかす。

 計画性とは対極の存在ではないかと常々思う。

 非常事態が常態化しているのが育児施設というものだ。

 だからこそ、人手はいくらあっても足りない。

 だが、俺がここに配属されたと言うことは、政府が俺に、この過酷な業務をこなすのに充分な能力があると判断したからなのだろう。

 俺には大勢の子供達の面倒を見る能力があるはずで、そんな能力が無い、などということを考えるのは、反政府的思考、つまりは危険思想として取り締まられてしまう恐れがある。


 そんな慌ただしく、過酷な職場ではあるが、俺の心が満たされ、安らかになる時間がある。

 それが職員同士の定例報告会の時間だ。

 そこには、俺の心に安らぎと安定、そして情熱を呼び起こす、カナが列席するからだ。

 カナの容姿は、好いている俺が言うのも何だが、そこまでの美人というわけではない。

 俺もなぜ好きになったのか、はっきりとその理由が言えるわけではない。

 あえて挙げるなら、子供達の面倒をかいがいしく見るその姿や、同僚への気配りなどなのだろうか。

 きっとそういった、いわゆる人柄という奴に俺は惹かれたのだと思う。


 ああ、カナの報告の番が来た。

 他の人間にどう聞こえているかはわからないが、俺にとってその声は天上の音楽だ。

 いつまでも聞いていたい、もっと聞いていたい。そう思う。

 しかし幸せな時間というものは得てして短い。

 あっという間にカナの報告が終わってしまった。

 名残惜しさや、姿を消していたはずの過酷な現実が一斉に押し寄せてくる。

 しかしもちろん俺はそんな心の動きを表情に出すことはない。

 俺が結婚していることを職場の人間は知っている。

 つまり、俺が恋愛感情を抱いていいのは俺の妻であるユリカだけだ。

 だから、俺がユリカ以外の人間に恋愛感情を持っていることを悟られるわけにはいかないのだ。

 そして、何人かの報告の後、定例報告会は終了した。




 その日の朝は屋外スピーカーのアナウンスで目を覚ました。

 朝の処刑が実施されるとの内容だった。

 ユリカとの重苦しい朝食を手早く終えると、身支度を整えて俺は広場の処刑場前に急いだ。

 どういう罪で処刑されるのかは処刑執行前に処刑場で発表される。

 罪人の処刑を目に収めるのは市民の模範的行動の一つだ。

 それに、処刑される罪状を知ることは自身の身を守ることにも繋がる。


 日が昇って間もない朝もやの中、すでに多くの人間が処刑場に詰めかけていた。

 当然のことだが、雑談をする者はいない。

 人が集まる場所において、模範的市民はむやみに私語を口にしないからだ。

 処刑場の絞首台には、二人の人間が縄に首をくくられているようだった。

 あれは、男と、そして女だろう……か……!

 俺は衝撃のあまり、模範的市民であるにもかかわらず、叫びだしそうになった。

 絞首台の縄にくくられていた女がカナだったからだ。

 なぜ!

 叫びたい、叫びだして中止させたい。だが模範的市民であれば処刑の中断など絶対に行ってはならない。

 なぜ!

 おれはその答えが処刑人によって告知されるのを待った。模範的市民である俺は静かに、身体の震えを抑えながら待った。


 一体どれだけ待ったのだろうか。

 ふと、手の感覚がなくなっていることに気づいた。

 どうやら拳を強く握りしめすぎていたらしい。

 手に血液がまわっておらず、白くなっていた。

 広場に着いたときには集団の外側にいた俺だったが、その後増えた市民達が更に外側を埋めて、気づけば俺がいる位置は、集団の真ん中あたりになっていた。


「告げる!」

 処刑人の声が広場に響いた。

 これから述べられるであろう内容を聞き逃すまいと、俺は全身でその音を聞き取るかのように構えた。

「告げる! この者らは配偶者がいるにもかかわらず、政府の規定する時間外に交流していた! これは政府が選定した配偶者への裏切り行為であり、そしてなにより政府の定める条例に違反するものである! よってこの者ら、反政府活動を行ったものとして絞首刑とする!」

 その告知を理解するまでにいくらか時間を要した。

 ようやっと理解したとき、俺は憎悪――いや嫉妬なのかも知れない――の目でもって男を見た。

 思えばこれが初めて男を視界に入れた瞬間なのかも知れない。

 だがよく見るまでも無かった。

 それは職場の同僚だった。

 カナは俺なんかには目もくれず、同僚のあの男とすでに恋仲だったのだ。

「異議のあるものはあるか!」

 処刑人が叫ぶ。

 周囲の模範的市民達は拳を振り上げて、「異議無し! 異議無し!」と繰り返している。

 俺は自分でも何を考えて、何を思っているのか、判然としなかった。

 ただ、俺は拳を挙げ、そして「異議無し」と呟いた。




 気づけば、カナが処刑されて数日が経っていた。

 俺は心の安定を失ってしまっていた。

 俺がそんな有様だったからなのだろうか。

 ユリカとの間にはいつまで経っても子供ができなかった。

 ユリカと過ごす空間は、息苦しいを通り越して、実際に呼吸が浅くなっていた。

 精神的なプレッシャーが肉体に作用していたのかも知れない。

 そのせいだろうか、子供を産まなければならない期限が迫っているにもかかわらず、俺とユリカは互いを避け合い、同じ場所にいることはほとんどなくなっていた。


 カナの処刑の日以来、日記も開かなくなっていた。

 愚痴を書くこともできたのだろうが、それ以上に、愛していた人のことを書けないという事実が、俺を日記から遠ざけたのかも知れない。


 カナの処刑から数週間が過ぎたある日。

 その日に規定された分の業務を終わらせ、帰宅後に珍しくユリカと一緒に夕食をとっていた時だった。

 玄関のチャイムが鳴った。

「出てきてくれない?」

 ユリカの重苦しい声が俺に向けられた。

 俺は席を立ち、玄関を開けた。

「思想警察です。サトウ コウイチさんですね? あなたには我々に同行する義務があります」

 そう言うと、玄関口に立つ思想警察は俺に手錠をかけた。

「ど、どういうことですか?」

 奥から出てきたもう一人の思想警察が手に一冊の本を持っていた。

 ひどく見慣れたものだった。

 それは、それは。

「貴方の日記です。配偶者がいるにもかかわらず、他の異性に恋愛感情を抱いていましたね。危険思想の罪で連行します」

 その日記には処刑されたカナへの想いが恥ずかしげも無くぶちまけられていた。

 何も言い訳ができない。

 だがなぜ。

 そう思った次の瞬間に、俺は間違いないと確信できる答えに辿り着いた。

 ユリカだ。

 このまま子供ができなければ、俺たち二人は非生産的市民として処刑されてしまう。

 そこで行動を起こしたのだ。

 俺を処刑させることで婚姻関係を解消し、子供を産まないことによる処刑を回避するために。

 配偶者が死ねば、また別の配偶者が政府から割り当てられる。

 そして子供を産まなければならない期間が延長され、猶予が生まれるのだ。

 ユリカは、己が生き残るために、俺を捨て石にしたのだ。

 俺はとっさに食卓に座るユリカを振り返った。

 連行されていく俺は一瞬しかユリカを視界に捉えることができなかった。

 だがその一瞬で充分だった。

 それほどまでに、ユリカの表情は印象的で、強く脳裏に張り付いた。


 濃いクマのできた眼は暗く、口元は引きつったようにつり上がっていた。


 俺はじきに死ぬのだろう。


 だが、彼女もそう遠くないうちに死ぬに違いない。

 俺の脳裏に張り付いたユリカの顔を思い浮かべて、確証のない確信を得た。

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