【修正中】CHAPTER/14

インフレイムによる本部襲撃から72時間。


談話室一面を覆った血液が徐々に酸化し、部屋中は言いようのない鉄臭さが満ちている。

カスケードとラロックスに襲われるも一命をとりとめた双子は――――応急処置の痕跡が残っており、「生かされていた」と捉えることも可能だが――――今も消耗しきって眠っている。

そんな彼らを目覚めさせてしまわないよう騒音に気を払いつつ、現時点で活動できるメンバーがだらだらと談話室の掃除をしている。

「あなたは無理しなくていいのよ。傷も十分に治っていないのに」

本来は武器として使う磁場操作ユニットで塵や埃を浮かせ、子供向けアニメの魔女のように指先ひとつで片づけながら、ホノメは不安げに気遣った。

「いや、横になっていると落ち着かなくてね」

軽やかに浮遊する彼女を横目に、フォックスは談話室と隣接するキッチンのカウンターに頬杖をついた。


水と洗剤の泡に乾いて固まった血が溶け戻り、鮮血のような色で床を流れていく。

「なあ。やっぱり何もかも知ってるんだろ」

退屈を持て余したから、中身のない雑談でも始めよう、そんな雰囲気でナナシが口を開いた。

……俺様も色々と隠してた分際で言えた口じゃねえけど。

彼は身長よりも少し短いモップの柄に手のひらと顎を乗せて、傷んだ前髪を掻き上げる。

「あんたは俺様が目覚めるのを待ってたし、ギガとカスケードがカチ会った時だってそうだ。ロックのことだって、本当は分かっていたんじゃねえかとすら思う」

苛烈な拷問から生還したロックの肉体には、再生の痕跡があった。

再生を司る細胞過分裂ユニットを持つのはギガだけであり、ロックの折れた脊髄を支えるようにはりめぐらされた筋繊維は、つまり「異常」。

再生跡がありながら彼の両手足の腱は無残に千切れ、雷撃ではあり得ない内傷が全身に残っている。

それはナナシが暴走したときの内傷と酷似しており、言うなれば「暴走を途中で阻止した」ことを物語る痕跡だった。

どこかぼんやりと覚束ない表情のタタラを顎で指し、ナナシは続ける。

「前に、こいつから聞いたぜ。ラクーンドッグを殺すのはあんたで、傭兵業はオマケ。エニグラドールは『苦悩するために存在する』と」

フォックスは視線を伏せ、乾いた息で自虐的に笑った。

「確かにあんたは変わり者だ。けど、こんなご時世だぜ。金も資材もねえ、おかげでエニグラドールは皆どこか欠けてる。酔狂で8体もヒューマノイド抱えてる訳じゃねえんだろ」

「さあ、酔狂でないと断言できるかどうか」

「笑わせんな。苦痛の理由くらい教えてくれたって罰はねえさ」

フォックスは躊躇うように痩せこけた頬を撫ぜながら、観念したのか、あるいは機が熟したという様子で口を開いた。


「そうだな………今から『60年前』の話だ」







* * *

【7/12/2150】

いつが開戦か、確かな日付を誰ひとり知らなかった。

「眠っている間にやってきて、サンタクロースみたいに戦争を置いていったのさ」

ヘルメットに穴が開いたままの男が言っていた。



【7/18/2150】

中東・某国との紛争ラインで、拠点奪還任務を完了した。


半年の間に、エコー小隊の兵士が死んだ。

一度だけ彼に火を借りたことがある。

名前は知らない。

* * *




西暦2150年、第三次世界大戦が勃発した。

俗に「終末」と呼ばれた核戦争は、開戦からおよそ10年に渡って世界各地の主要都市を滅ぼすことになる。

だが、戦時法に倣って戦いを始めた当初は、誰もがこの世には「正当な」紛争が存在すると考えていた。

事の発端は、発電に用いる石油、石炭、ガス、メタンハイドレートから、電子機器に必要不可欠なレアメタル等の資源を保有する発展途上国が、次から次へと高度経済成長期を迎えたことだった。

第二次世界大戦以降、人類の発展を先導したアメリカ、ヨーロッパ諸国、東亜連合の勢いは徐々に衰え、入れ替わるようにロシアや中国が後進国を引き連れて世界を席巻した。

経済成長とともに生活水準が高まり、資源を独占する新たな列強国と、異議を唱え対立する旧・列強諸国の溝は深まるばかりだった。

そして大不況から組織構造の改革を求め、社会体制が革命とすら呼べる変貌を遂げた、当時の東亜連合によって戦争の火ぶたは切られた。


昔から人類は、ガラス製のフラスコの中で撃ち合いをしていたのさ。

遠い過去から現在までの時間が層となって重なり、空気に霞んだその向こうを思い出すような顔つきで、フォックスは呟いた。

「弾丸が人間に当たっている間は、まだ良かった。あの戦争では核兵器がフラスコに傷をつけた。そこから宇宙が漏れ出して、やっと手遅れだということに気づいたんだ」

第三次世界大戦が「終末」と呼ばれる所以には、大戦中に用いられた核兵器の総数も含まれている。

東亜連合―――以前は日本と呼ばれていた国が世界で唯一、実戦投入された核兵器で被爆した1945年以来、それはあくまで「抑止力」としてのみ存在する概念のような扱いを受けてきた。

太陽を遮り毒の雨を呼び、人も文化も焼き尽くし、国を単なる平地に均すことに何の意味があるのか、と。

配下に置いた国は手に入れた資源と同等、それを足先ひとつ踏み入ることのできない汚染された土に変えて、一体何のための争いか、と。

それらはあたかも全世界共通の認識であるかのように語られ、核兵器はあくまでお互いの牽制のために保持するだけだと主張された。

この主張そのものが、「倫理」や「常識」といった概念に頼っているだけの、不安定で曖昧な言い分であることからは目を背けた。

身に危険が迫った瞬間、人の手に銃があっても倫理は残らない。

核とて同じこと。




* * *

【7/21/2150】

サウスカロライナの夏は暑い。

帰省中に妹の髪を切った。

母が死んでから、少しやつれている。


2日後には東アジアの島国へ派遣される。

我々も前線に出向く。

妹には伝えずに行く。

* * *




「その頃、私は米軍に所属していた」

「『その頃』ってあんた、今は一体いくつなんだ。見た目通りの年齢とは言わねえだろうけど」

皮膚も筋肉も溶け落ち、金属骨格がむき出しになったままの腕を、ナナシが怪訝そうに顎で指す。

「80と少し。開戦当時は20代だったよ」

サイボーグ技術が発達したこの時代、生まれ持った性別や実年齢相応の外見を持たない人間は、スラムにもオリンポスにも数えきれないほど存在する。

いつかの地下闘技場で出会った戦士たちは、人間の形すら自ら望んで捨てていた。

そんなことを思い返しながら、タタラが囁くように問う。

「どうして義体に」

「戦時中、私はUSCYBERCOM―――いわゆる情報戦略部隊だった。前線に出るようなことはなかったが、防衛網を突破した敵国の戦闘機に拠点を空爆されたんだ。その時に片腕と両脚をなくした」

戦争といったって国民全員が戦闘員というわけではないから、この時に軍を抜けることもできた、と彼は続ける。

「けれど、祖国に妹を残していた。私は妹を養うためだけに生きていたし、必然的に軍が最も金を持っていた時代だから、選択肢はなかったよ。それが最初の義体化だ」

「最初の、ということは」

タタラが耳聡く言葉を拾い上げると、フォックスは静かに頷いた。

「この時は欠損した腕と脚を補っただけだ」

関節の皺や指紋に至るまで精巧に形作られた掌と、肉片がこびりついたままの鈍色の骨格を見比べる。

現在は空爆で失った片腕と両脚だけではなく、脳以外のすべてが人工物であると彼は語った。

「一生」として与えられた肉体だけでは成し遂げられないほどの、身に余る目的を得てしまったのだと。




* * *

【8/25/2150】

現在のデルタ小隊から配属が変わる。

急遽、帰国しなくてはならない。

中尉は「"いけすかない奴ら"が迎えに来る」と言った。

いつものエア・フォースではないらしい。


私物を探し回っている。

バックパックひとつが埋まらない。



【8/27/2150】

配属先は、妙な名前の部隊だ。

由来は語られなかった。

* * *




「ヘルメス」。

コードネームに神の名を持つその組織は、端的にいえば、裏切り者に引導を渡すべく結成された組織だった。

開戦してまもなくは手を取り合っていた過去の先進国のうち、最初に導火線へ炎を放ったはずの東亜連合が、躍進する新たな列強諸国に寝返ったことがきっかけだった。

ヘルメスは旧日本を除くG7各国を主体とし、さらに当時のNATO加盟国から人員を集めた特殊部隊として、東亜連合の制裁のために成立した。

「あの頃は、火薬よりも集積回路の方が力を持っていた。戦車やヘリにメディア媒体、医療機関にライフライン、兵士そのものまでもが、通信技術の広大な網に繋がった時代だ」

フォックスは人差し指と中指を立て、鋏を表現した。

「陸軍からヘルメスに引き抜かれた私は、その網をひそかに断ち切る役割を担っていた」

東亜連合の国民に紛れて隠密に行動するために、サイバーコマンドで培った情報戦略に加えて、彼が祖母から引いた日本人の血は有益だと評価されたのだ。

「要するに、スパイ」

「その通り」

「なんだか、フィクションみたい。あなたにそんな過去があるなんて」

ただ静かに聞いていたホノメが、話に間を求めるように溜息をついた。

「火の無い所に何とやら、とでも言おうかな。映画や小説は、全くの虚無から生まれるわけじゃない」

とはいえ、エニグラドールほどフィクションらしくもないだろう?と彼は肩をすくめ、そして続ける。

「ヘルメスに配属された私は、そこで様々な人間に出会ったよ。オリンポスの管理局長はオーウェンだが、彼の父のサイラスは私の上官だった。それから………カスケード。ラクーンドッグ。奴らもだ」




* * *

【9/3/2150】

サイバー技師に格闘訓練が義務付けられている。

陸軍に入隊して以来だ。

部隊では化石寸前のプログラムとお喋りばかりしていた。


小柄だから、と選んだ相手が大きな誤算で、顔と太腿にひどい痣ができた。

手の甲も腫れて、端末をうまく操作できない。

ずっと後になって、あの相手が女性だと知った。

わが祖国は安泰だ。

これなら私が殴り合う必要もない。



【9/29/2150】

古い記憶媒体を復元していたら、自立型人工知能の資料を発見した。

開発段階ですらなく、運用目的の精査段階でプロジェクトが中止になっている。

ヒューマノイドにAIを搭載するより、若い青年を軍に集める方が、安価に済むという。


私はお喋りの上手いAIでも作って、妹に贈ろうか。

* * *



「それなら、どうしてラクーンドッグは僕らに……人類に敵対しているんだ。仲間だったはずだ」

痩せて頬骨が浮いた顔に、殴打されたときの痣がまだ色濃く残っている様子に、タタラはどこかおびえるように呟いた。

「……奴の行動原理は、私には理解できなかった」

カスケードは、ヘルメスへと異動になる前の空軍時代からよく見知っている口ぶりで、彼女についてフォックスへ語ったという。

彼女はまるで戦闘を食って生きるかのごとく、軍用格闘術から真剣を用いた東洋の居合術に至るまであらゆる格闘技を習得しては、数々の護衛任務や要人確保を成功に導いた。

高い―――異常とすら言える身体能力の一方で、航空宇宙工学分野にも深い知識を持つ彼女は、AFSPCへと所属を変えて、宇宙間兵器の開発に携わっていた。

その後、計画段階だったAFCYBERの構成員候補として選ばれるが、計画の中止と時代の流れに伴って、ヘルメスへと流れ着いた。

「部隊では『悪魔に人の魂を売った』と噂されていたよ。奴は鬼才でありながら、金や名誉どころか能力相応の地位すら得ようとしなかった」

力のあり方が獣だった、とフォックスは続ける。

「喜怒哀楽の情緒もあった、倫理観も常識もあった。だが、動機となる信念や目的が存在しないんだ。生まれたときからか、人生の過程で何かが奴を変えたのかは分からないが」

彼女の有り余る戦闘能力や度を超えた知性、力のすべては己が存在を維持するためだけに鍛え上げられた。

その身ひとつで時速120㎞の速度を誇り、顎に2000kgの圧力を持ち、眼球に150万の視細胞を備えた、血肉を狩ることに疑問を抱くことのない獣たちと同じ。

獣は、生きることに理由を必要としない。

ただ存在することを、否定も肯定もしない。

彼女にとってその力は、海から蒸発した水が雲となり、雨として地に帰るように必然だった。

「だからこそ、野心も欲望も皆無だったラクーンドッグが、東亜連合のスパイとしてヘルメスを監視しているなんて、誰ひとりとして予期できなかった」




* * *

【5/10/2154】

ニュースもラジオも、放射能汚染エリアが拡大している話題ばかりだ。

それから、難民問題、食糧問題、国境の消失。

核兵器廃絶の話題は、奇妙なことに一度も聞かない。



【11/3/2155】

神の住処を騙る、人造の理想郷が完成したのだという。

戦争の真っただ中だというのに。

顔見知りの上官が「理想郷に住むべき人間」に選ばれ、米軍の上層部から引き抜かれた。

彼らは白い箱で暮らす。

私はつぶれたマットの上で暮らす。



【2/25/2157】

理想郷は、白い箱の周りに難民を集めて巨大な共同体を築いている。

徹底的に武力を拒絶し、終戦を祈っている。


来月から、アジアの極東へ派遣されることになった。

亡くなった祖母の故郷だ。

あの国へ祈りは届くだろうか。

* * *




戦争は各国が想定していたよりも大幅に長引いた。

世界終末時計が0時を過ぎると同時に、放射能汚染で祖国を失った難民が集まり、引き際を見失った争いの終わりを願う理想郷・オリンポスの建国が始まった。

「丁度その頃、私は東亜連合へ潜り込んでいたんだ」

すでに防衛体制も崩れかけ、国民の意識は遁走寸前だったが、連合政府は旧台湾・フィリピン領まで協力を要請して食い下がっていた。

ヘルメスはオリンポス建国を全面的に支援しており、抵抗する東亜連合の主要機関に潜入し、通信手段のみを「穏便な方法で」壊滅させる計画を立てていた。

フォックスの上官―――サイラスは、平和をうたう新興国家を成立させるのなら、可能な限りお互いに死傷者を出さない手段を取らなければならないと主張した。

「だから、主要機関や都市部の建物を破壊するのではなく、電子的な通信手段のみを断ち切る算段で、東亜連合各地にサイバー部隊を潜入させていた」


奴さえいなければ、作戦は成功した。

フォックスは凍るような温度で囁く。


「理由がない。動機がない。奴が何を思って東亜連合に寝返ったのか、あるいは、初めからあの国が用意した犬だからこその能力だったのか、今となっては分からない」

表向きは米軍やヘルメスに所属していながら、ラクーンドッグは軍部の情報を東亜連合政府にリークしていたのだという。

「仲間がたくさん殺された。その家族も」

首都に配備されたヘルメスの兵士たちは次々に潜伏場所を暴かれ、捕虜とは名前ばかりに暴行をうけて死んでいった。

各国からヘルメスに集められた兵士たちの家族は、戦火を逃れて祖国の安全圏に疎開していたが、東亜連合が送り込んだ刺客に見せしめとして殺された者もいた。

結果的には、その間に旧フィリピン領・台湾領からの連絡を寸断できたことで弱体化し、「最小限の犠牲」――――当時はアメリカ国内ですら存在を公開されなかったヘルメスの、名もない兵士たちから流れた血だけで東亜連合は制圧された。



その後、祖国アメリカ・ヘルメス本部へ帰還したフォックスの元へ、上層部から使者が訪れた。

1cm四方の小さな記録媒体が入ったくしゃくしゃの封筒を持って、この映像の存在だけは伝えねばならない、観るか否かはあなたに任せる、と告げた。

封筒に送り主の名はなく、表面には漢字が並んでいて、赤茶色の染みがついていた。


「アメリカに帰ってね、電話したんだ」

電源が切れたディスプレイのような、覗き込む者を鏡面に映し出すような、フォックスの黒い瞳が血塗れの床を見つめた。

「こんなものは要らないと、使者に突き返そうと思った。けれど、その時点で、私がそう考えてしまった時点で、すべて認めていることになる。だから、その考えを否定するために封筒を受け取った」


「もう大昔のことなのに、今も番号を覚えているんだよ。何度も電話を掛けた。でも出ないんだ」


気付けば、映像を観ていた。

無限ほどの時間を費やして、飲まず食わずで、痩せて衰弱してもまだ。

何年も、何年も、繰り返し、繰り返し。


もうすぐ妹に会える、と。





「……あなたがラクーンドッグを憎んでいるのは、それで」

「端的に言えば、ね」

おずおずと問うタタラに、フォックスは彼方の記憶を想うように頷いた。

自身もスパイとして忍び込んでいたのだから、お互い様と取れるかもしれない。

終戦と平和を願うオリンポスに寄り添った国々も、世界が破綻する前は正義や自己防衛のもとで人を殺していた。

戦いの渦中に無い国民も、美談で覆われた暴力を疑おうとすらしなかった。

「罪のない人間はいない。私も含めて。だから『私怨』だ」

二度目に全身を義体化したのは、老いた身体ではラクーンドッグを追い詰めることも、その手で仕留めることもできないから、と彼は語った。

「妹の痛みを私が代弁する権利はない。だが私の苦痛は私のものだ」

フォックスは長く息を吐いた。

「これは妹の敵討ちではない。私と同等の苦痛を奴が感じているか確かめる、さもなくばこの手で教えてやりたい。それだけのことなんだ」

俯くその姿は、暗闇の中で幾年もの月日を越えた泥の像が、自身に魂があることを思い出すかのようだった。

「だから、君たちを造った理由は、ラクーンドッグを殺すことではないよ。けれど君たちの存在意義が、無限の苦悩であることは確かだ」

戦前の兵器は病的と評されるほど性能を高め、無反動の銃は引き金が羽毛のように軽く、生き延びた兵士たちの多くが硝煙も血の臭いも知らずに戦場を駆けた時代だった。

長い長い戦争の間に、人々は自らが生きるために重みのない武器を手に取り、他者を手にかける躊躇いも痛みもすべて忘れてしまった。

終戦後、すべての犠牲者はオリンポスの設立とともに、平和のために命を賭して戦った聖人として祀られ、称えられた。

「祀って称えて、おしまいさ。人間は心を麻痺させ記憶を美化して、時間に任せて忘れ去ることによって痛みから逃げる生き物だ。人間の身体や精神では、自らが作り上げた歴史がもたらす苦痛に耐えられない」

この世で唯一、苦痛を忘却することのない生物を造りたい。

生き残った者たちが祈り続けるように、犠牲になった者たちを想い続けるように、傷つける者と傷つけられる者が同じ苦しみを味わうように。



「私は新しい人類に会いたいんだ。エニグラドールは、その第一歩」



掌も胸も刃に穿たれ痩せ細った彼の身体は、まるで十字に架けられた聖人であり、しかし微笑む眼差しには得体の知れない常闇を湛えていた。




















* * *





















それから、また数日。

投げ掛けられた禅問答を抱くには、あまりに穏やかな昼下がりだった。


大地が戦時中の毒に侵されていることすら忘れさせるほどの、呑気で能天気な快晴が数日続いている。

スラムに降り注ぐ鬱屈とした雨は、得体の知れない新たな敵と、代り映えのない貧しい生活と、街で繰り広げられるくだらない諍い、そんなものばかりを脳裏に上書きする。

人々の時間を過去に留め、忘却の彼方へと攫って行く。

雨が降れば酸に侵され、雲が晴れたら強い紫外線に追われる世界ではあるが、曇天の薄暗がりで瞼を持ち上げる理由を見失いかけた日々には、やはり待ち望まれる光だった。

血しぶきにまみれた談話室を洗い、部屋という部屋の窓や扉を開け放しておけば、洞窟のように淀んだ本部の空気も幾分息を吹き返した。

窓から流れる空気は廊下を通り、ガンブラーに蹴破られた壁の大穴へと抜けていく。


褪せた紫の毛先が、そよ風に弄ばれている。

黒のタンクトップと頭にはタオル、テンプレート的な出で立ちのギガは、扉の様相を成さない玄関付近に陣取っていた。

金属のハンマーが高い音を立てて、怪物の背びれのようにひび割れてしまったコンクリート壁をなめらかに削っている。

ゼウスから与えられた任務もなく、午前と呼ぶには太陽が高すぎる時間に目を覚ました彼は、だらだらと壁を修繕する今も眠たげに目元を擦った。

木陰に相当する入り組んだ黒の合間を、温い風がそっと撫でてはすり抜ける。

廃工場地帯は木漏れ日の存在を知っているかのようで、トタン屋根の合間から降る日光の欠片は、荒野から続く赤茶けた地面を切り取って明るく染めていた。

そのコントラストに目が眩み、ギガは小さく息を吐く。

誰かの部屋にかかったカーテンが、青空に音もなく揺れた。

「へ、似合うなァ」

かろうじて残った玄関の雨避けに寝そべって、協力する気もまるで無さそうなナナシが茶化した。

「どう見ても専門の業者だぜ」

ギガは手に持ったハンマーの先で彼を指し、それから壊れた壁から本部の廊下に身を乗り出した。

「いいからお前も手伝えよな…………おーい、ここ本当に塞いで良いのか」

どこに居るのか、遠くから微かにフォックスらしき声が答え、彼の返事を伝言するようにタタラが現れた。

「大丈夫って。ドア付けるまでは裏口を使うから」

タタラは抱えていた工具や板を置き、軍手代わりに両手をシールドで薄く覆った。

大破した玄関から少し離れて、モルタルを流し入れるための枠を組み立てる。


転寝を誘う、平和な午後。


口にこそ出さないものの、優れた嗅覚を持つギガだけは、吹き抜ける乾いた砂の匂いに混じる鉄臭さを感じ取っていた。

ほんの数日前には、誰かの死がすぐ近くまで来ていたのだ。

背中を丸めてこつこつと行う単調な作業では、AIの処理能力をいくらも使うことなく、ぼんやりとログを追いかける程度の余裕は常にある。


カスケード、ラロックスと対峙した双子が目覚めるまでに、そう時間はかからなかった。

たった数日で人工皮膚や筋繊維が自然治癒しているはずもなく、彼らは単に「傷を塞いだだけ」の状態にも関わらず、どちらともなく意識を取り戻した。

万一の感染症を懸念したフォックスは、それぞれ離れた空間に双子を寝かせていたが、目覚めてなお朦朧としているロックは「あいつは俺がいないと駄目なんだ」と、うわ言のように繰り返した。

感電を繰り返したロックは、細胞も血液もほとんど入れ替えるほどの処置が施され、今も半分くらいは輸血された俺の血が流れているんじゃないか、などとギガは考えていた。

ロックの全身をミイラのように覆う包帯を外せば、今も深い赤と黄緑が皮膚に滲んでいて、こぼれたガソリンみたいに奇妙な虹色を反射しているのかもしれない。


一方のジャックも、意識があるのか疑ってしまうほどの様子で―――魂、あえて魂と呼ぶ、それがあまりにも欠落していた。

腹部に裂傷はあれど臓器は無傷で、フォックスの技量さえあれば「肉体的な」死を回避することは確実だった。だが、鋭い大爪があった指先は潔癖なほどに美しく縫合されていて、それがジャックを一度殺した。

エニグラドールの中で最も純粋に戦闘を求め、身ひとつを武器に抗争へと飛び込むことが存在意義であり、本能的に力を測ることでお互いに救い合えるという確証を持つ双子だ。

だから、武器をすべて失った状態で目覚めたジャックの瞳を、ギガは恐ろしいほどに鮮烈なイメージとして覚えていた。

彼は怒声も泣き言も悲鳴もなく、まるで生まれて初めて見る物体かのように、いつまでも自分の掌を矯めつ眇めつしていたのだ。


心にぽっかりと穴が開いたジャックと、弟を呼んで泣き続けるロックは、きっとパズルのピースのように形が合う。

2人が1人ずつになったんじゃない、1人がふたつに分かれてるんだ。

思い浮かべたことを、ギガはそのままフォックスに告げた。

彼らは今、お互いに手の届くところで眠っている。

落ち着いて十分な休息を得られるようになったことを除いても、双子が驚異的な速さで回復しているとフォックスは興味津々だった。




そして今回も、誰一人として死ぬことはなかった。

しかし、ある意味では「誰も死なない」ということそのものが、エニグラドールの深層心理に渦巻く澱の根源でもある。

ベニヤ板に釘を押しこみながら、タタラはもう長いこと着地点を見失ったままの疑問に身を委ねた。


打ち捨てられた人形のような有様で発見された双子が、一体何に遭遇し、いかなる方法で傷を負ったのかを確かめた者はいない。

故に、フォックスは治療の前段階として、保護された双子の傷を調べた。

その調査結果の一部が正しいことは、当の本人たちが目覚めてから証明された。

雷が直撃したとき、皮膚に浮かび上がる稲妻に似た模様や、衣服や髪に紛れ込んだ羽毛なども含めて、彼らを襲った犯人がインフレイムの幹部クラスであることは明確だった。

だが、ロックに残る傷は外部から与えられたものだけではない。


何もかも知ってるんだろ。

フォックスが過去を語る直前に、ナナシは問い掛けていた。


ロックの筋細胞の数割は、ナナシが暴走した時と同じ組織障害が起きていた。

メカニズムは筋断裂の類に近いもので、高すぎる負荷のために細胞や筋膜が裂け、あるいは骨から剥がれるといった損傷だ。

さらに、極めて短時間の間に、損傷と再生を繰り返した痕跡が残っていたことだった。

エニグラドールにとって、身を守るための痛覚に抑制された範疇を超えて、無理に身体能力を発揮すれば当然苦痛を伴う。

自身の肉体を犠牲にすることで、圧倒的な破壊力を得た証拠が残っている以上、ロックは「苦痛を認識しない」、もしくは「自身の行動を抑制できない」状態に陥っていたとしか考えられなかった。

加えて、ひどく痛めつけられた四肢とは対照的に、脊椎の周囲だけは筋繊維がまるで癌のように増殖し、折れた骨格を力任せに支えていた。

諸々の症状は、暴走した時のナナシと酷似しており、やはり同状態によるものであることは確実と見なされた。

しかし、今回の一件について最も奇妙なことは、暴走状態そのものではない。


「わからない」

タタラはすっかり箱の形に組み上がったベニヤ板を撫でて、表面に浮いたささくれをむしり、徐にその辺へ放り投げた。

吐息ともつかない呟きを耳聡く拾い、雨避けの上から気怠い声が促す。

「何が。っつーか、どれが?って感じだな。分かんねえことがいっぱいあるね」

転寝から覚めたコウモリは、雨避けの端に手を掛けて逆さまにぶら下がった。

陰った玄関脇に佇むタタラを一瞬だけ覗き込み、しなやかに着地する。

「あ…………ロックの、傷の話」

爪先で躊躇うような軌道を描いて、ざりざりと地面を蹴ってみた。

思考の海へ落ちた途端に、五感の制御が鈍くなる。

溢れ返る疑問が口からこぼれたこと、自身の無意識に呆れながら、やはり誰かと共有したいと思っていた結果かもしれない、とタタラは考え直した。


最も奇妙なこと。

それは、暴走に伴う組織障害が、どれも致命傷に至らなかったこと。


消耗による活動限界という形で暴走を鎮静化したナナシは、全身への負荷によって植物状態まで衰弱した。

しかし今回の一件で生還したロックは、重症であれど生死に関わるほどの損傷ではなかった。

「可能性としては、暴走の度合いを制御できる、そもそも個体差がある…………これは想定だけで根拠はない、それから」

タタラは握った拳から親指を、人差し指を広げて数える。

「力ずくで止められたってのは」

補修作業の手を休めたギガが口を挟むと、3つ目の中指だけを立てたナナシが冒涜のジェスチャを眺めながら答えた。

「それは無いだろうな。仮に、相手に暴走状態を上回るような力があっても、抵抗すれば結局は体を酷使することになる」

「じゃあ、上手く鎮静化する方法があるとか」

「確かに、症状としては理にかなっているけど……」

タタラの芳しくない反応に、ギガは喉の奥で唸りながら腕を組んだ。

「見ず知らずの人間がそんなこと知ってる訳ねえし、だとしたらインフレイムが方法とやらを握ってることになる、と」

「例えそんな方法があるとしても、双子を生かして帰す目的は分からない」

堂々巡りする議論の流れを改めようと、ギガとカスケードが初めて交戦した時の様子を取り上げてはみたが、話を持ち出したナナシも首を傾げたままだ。

「あのカスケードとやら、気失ってるお前を担いで攫おうとしてたっけ。技術的な利用価値があるという可能性?」

「こっちが奴らを参考にしたいくらいだが………あ」

ギガは明らかに何かを思い出した様子で、口に出すことを少し迷う素振りを見せたものの、彼は結局ナナシへと問うた。

「あの時のお前、やろうと思えばガンブラーを制圧できたんじゃないのか」

ガンブラーとギガが一騎打ち寸前まで肉薄し、仮死状態から蘇生したナナシが間に割って入ったあの時のこと。

根本的に2人の戦闘スタイルが異なることを差し置いても、彼は敵の巨体を切り裂くまでの一連の挙動、それを視認させないほどの機動力を持っていた。

ナナシは確かに頷いた。

「時間さえあれば、多分な。ガンブラーがどんな奥の手隠してるかって問題もあるし、覚醒状態の発動条件も曖昧だから一概には言えないけど」

「覚醒や暴走状態を引き起こすトリガーとか、能力そのものを狙われているのなら辻褄が合うよ。エニグラドールが持つ『潜在能力』の存在を、なぜインフレイム側が把握しているのかってことだけ除けば」

暴走時の共通点として、極度の負傷や命の危機、精神的な極限状態などをトリガーとして仮定しているのではないか、とタタラは続ける。

彼は、長期にわたる紛争の火蓋を切って落とした、インフレイムによる10年前の襲撃についても触れた。

オリンポス陥落を目論むのであれば、インフレイムは大型単騎や小型のみで牽制のような襲撃を続けるのではなく、10年前以上の戦力を蓄積する方が妥当と考えられる。

対するオリンポスに傭兵制度も布かれた今、オリンポスの城壁を突破するためには、10年前を――「エニグラドールを上回る」戦力を用意しなければならない。

「楽観的だけれど、『10年前は総力戦だった』可能性もあるんだ。技術を奪われない限り、オリンポスは紛争に勝てるのかもしれない」

双子を殺すことなく拷問によって苦痛を与え、あるいは第三拠点防衛のようにエニグラドールが守るべき―――存在意義とも呼べる人間を殺し、大型生物兵器インフレイムを仕向け、ありとあらゆる方法で暴走・覚醒状態への遷移を目論んでいるのだとしたら。

ひとつは、覚醒状態を受け入れ、インフレイムを制圧する力を手に入れる。

あるいは、暴走状態を徹底的に拒絶し、能力の安定を図る。

現時点では、インフレイムを制圧する力と暴走時の危険性は天秤にかけられ、どちらを選択しても多かれ少なかれリスクはある。

「ラクーンドッグが何を狙っているにせよ、選択肢は変わらない」

「各自がどちらを選べるかというのも、大方決まっているようなもんか」

陽光ちらつく廃工場の影を眺め、ギガは呟いた。

それは彼やタタラのような順戦闘型が暴走状態に陥った場合に、鎮静化はおよそ絶望的であることを指していたが、どこか含みのある物言いにナナシが躓いた。

「お前の望みとしては」

「……それ聞く?」

ギガは眉根を寄せて小難しい表情を浮かべ、糸を紡ぐように言葉を選ぶ。

「フォックスの奴は極端だし、やり方自体はかなりマズいけど……全部が間違ってると断定する気にはなれない。妹が死んだら、ずっと悲しんだって良いんだよ。立場やルールとか、周りの雰囲気とか、あとは時間……そういったものに左右されない、強い感情に浸るんだって良い」

「『浸ってみたい』、だな」

「……」

どこかばつの悪い面持ちだが、ギガは首を縦に振った。

少々のやや気まずい間のあと、腕を組んで神妙な顔でうなずき、ナナシが唐突にシリアスな雰囲気をぶち壊す。

「お前はやっぱり、こう……"詩的"だよな……」

ギガはチャンスと言わんばかりに、露骨な照れ隠しに出た。

「バカにしてんのかあ、お前は」

「ああ~やめてください、ごめんなさい、うわあああ~……」

本部玄関前をヒョコヒョコと逃げ回った挙句、捕獲されたナナシは冗談のように真上へ投げ飛ばされた。

廃工場の屋上に着地したのか、ものすごい力で遥か上空まで投げられたのか、彼は一向に現れない。

タタラは木枠を作る手もすっかり止めて、ナナシが吹っ飛ばされた空の切れ端を見上げた。

大真面目な話をしていたのに、溜息と一緒に気も抜ける。


共同体での役割、ルール、自分自身の性能、諸々を取り払って、思うまま心を露わに曝け出すこと。

フォックスは新たな人類と定義したが、ヒトの社会ではあまりに獣の選択だ。

進化どころか、ある種の退行ですらある。

「望みがどうあれ、暴走するわけには行かないけどな」

「皆のため?」

「いいや。俺が殺したくないだけ」

「それでも、僕らが持っている『これ』の概念そのものは、ギガは肯定しているんだね」

全肯定じゃねえけどな?と、彼はタタラに釘を刺しつつ続ける。

「彼もどこかで多少は揺らいだはずなんだ、あいつが人間である以上は。『コールドハート』は楔、自分自身ができなかったことへの贖罪。そんな感じがするから」

「詩的だね」

「今頃ナナシは成層圏だな……宇宙は楽しいぞ」

「僕は遠慮するよ……」

ついにギガも手を止めて、半分欠け落ちた庇の陰に寝転がった。

「暴走して、知らない自分が出てきたらどうする?」

「お前の中には居るってのか」

「絶対にいないとは言い切れないよ」

「そうだな……それも全部含めて、みんな愛せたらなあ」

思いがけない言葉で面食らうタタラに、隣の横顔はどこか悲しげに笑った。

明度の高い黄土色の砂地を、庇と太陽が黒く切り取っている。

その境界に、掌をかざす。







CHAPTER/14 HIS HATRED IN PRAYER

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ENNEGRADOLL @zero_ujino

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