【修正中】CHAPTER/12




夜が来て 大地が闇に包まれ


月の光しか見えなくなっても


怯えることはない


君が隣にいてくれるなら

















この世界はいつも、雨が降る風景から始まる。

RPGのフィールドに設定された天候のように、毎度毎度決まりきった灰色の雨だ。

リビングのソファーに深く座っても、よく見える位置に小窓があり、その表面を水滴が流れている。

それから、うろ覚えの古い歌。

耳はイヤフォンの固い質感に塞がれ、コードの先は古い型の青い音楽プレーヤーに繋がっている。

旧世界では、先進国の若者なら大抵が所持していたが、今は入手困難と言われる骨董品。

お気に入りの音楽プレーヤーのはずが、流れている曲のタイトルがわからない。

使われている楽器だとか、分類されるジャンルだとか、詳しいことも知らない。

ただ一歩一歩、足の裏で大地を踏みしめて前に進むようなリズム。

乾いた風の匂いがする。

雨には不釣り合いな歌だ。


雨に揺れる小窓を眺めて、ふと思い立つ。

あいつに訊けば、何か教えてくれるかもしれない。

俺は顔に掛かっていた藍色の前髪を払いのけ、立ち上がろうと上半身を起こした。

ソファーへ無造作に着いた片手で、コードを押さえつけてしまう。

イヤフォンが引っ張られて外れ、音が途切れた。

そして思い出す。

住み慣れた本部の建物は、時が凍り付いたかのような静寂に満ちている。


ここには、俺以外、誰もいない。

静かな世界。









南部スラムの対ファントムグレー戦線に3人、第2の要塞都市マリネリスへの輸送護衛任務に2人が駆り出され、エニグラドール本部にはいつもの賑やかさが欠けていた。

外はしとしとと霧雨が降り、ミケは有り余る時間と退屈を持て余していた。

フォックスは賑やかのカウントには入らないし、やっと復活した腕の再生で体力を消耗し、さっきからソファーでうたた寝しているギガは、まるで家具の一部のように動かない。

その隣に座るミケは、小型端末を拙い手つきで操作しながら、床から浮いた足をぱたぱたと振っていた。

「あのまろかりす…………えらすもてりうむ…………しそちょう……」

子供向けに構成された絶滅動物の資料を眺めていると、突然ディスプレイの内容ががらりと入れ替わった。

任務先の双子から、映像つきのテレビ電話の着信だ。

『―――――――おまえ、だれにかけたんだよ』

『アレ、変ダナ。多分ギガノ端末』

電波が芳しくないのか、ディスプレイには時折ノイズが走るものの、どうにか接続は完了したようだ。

「こちら、ミケなのですよ」

彼女は端末に向かって小さな掌を振る。

『よ!』

『コッチハ本日モ晴天』

ディスプレイいっぱいに双子の顔が映り、直後に一周振り回されたカメラは、快晴の青空を映し出した。

BGMにトレーラーのエンジン音が唸り、はるか虚空を鳥が漂っている。

「いいなあ……今はギガも寝てるし、お外は雨だし、たいくつなのです」

『そっちにもどったらあそぼうな』

『まりねりすデ、オ土産買ッテ帰ルカラ』

気の短い双子も平和な長旅に退屈していたらしく、ミケは隣のギガを気遣って声を抑え気味に、あれやこれやと他愛も無い話題に言葉を交わす。

輸送部隊の隊長のこと、汚染区域の合間に生きるコヨーテのこと、シカゴ周辺を回遊する陽気な旅人のこと。

そんな話に花を咲かせているとき、本部の外に雨とは異なる音源が近づいてきていることに気付き、ミケはソファーから飛び降りた。

「誰か帰ってきたなのです!」

彼女が降りた振動で目を覚ましたギガが、怪訝そうに声をかける。

「ん………なんだミケ、どうした」

来客を告げるブザーの音が、談話室にも届く。

「え、ちょっと待て、待てって」

本部の出入り口に駆けて行ったミケの背中を、慌てて立ち上がったギガが追う。

彼はドアに飛び付く寸前でミケを捕まえ、彼女の華奢な身体を軽々と抱えて下がった。

重厚な金属製のドアからは妙な気配が満ち、窓のない廊下はやけに暗く空気が淀んでいる。

「ギガ、開けちゃダメなのです?」

ミケはきょとんとしているが、ギガは元々鋭い目を細めて険しい表情を浮かべている。

「お願いがある。あのドアの向こうを『聴いて』くれ」

「あっ……了解なのです」

ギガの言わんとすることを察したミケは、はっとして頷き、猫耳型の指向性マイクをドアに向けた。

「外に何人いる」

「普通の人……このくらいの人と、もう1人……うんと大きな人がいるです」

ミケは自身の頭の上に掌をかざし、身長160から170cmの人物を示したが、後者の「うんと大きな人」については首を傾げている。

そこへブザーを聞きつけたフォックスが、作業場からリビング前の廊下に現れた。

「誰だ。シアンたちが戻って来るには早すぎるだろう」

フォックスの問いに、ギガは得体の知れない客人へ警戒をにじませながら唸った。

「何者かは分からねえが……ミケ、そいつの大きさはどのくらいなんだ」

「えっと、えっと………このくらい、なのです……?」

彼女はそう言って、腕を前方斜め上に伸ばした。

三角法で大雑把に身長を導出すると、その高さは約7m。

計測した彼女本人でさえ、相手の情報に納得が行かないらしく、自分の後ろにしゃがんでいるギガの顔を不安げに振り返った。

「監視カメラも……何かで覆われているようだ。確認できない」

フォックスが小型端末を取り出して囁く。

あえて人気のない立地を選び、隠れるように建つ本部の位置を把握している時点で、穏やかな相手ではないことは明らかだった。

ギガは自分の背後にミケをそっと押しやり、あとをフォックスに任せると、日常生活用の出力リミッターを解除した。

相変わらず出入り口のドアは静まり返り、相手とこちらはドアを挟んで睨み合う形となる。

だがその状況も長くは続かず、静寂はすぐに破られた。

防弾加工を施した鋼鉄製の扉が、内側に向かって「吹き飛んだ」からだ。

凶器と化した扉は、廊下の壁を抉って跳ね返りながら、3人に向かって飛んでくる。

ギガが反射的に駆け出し、鋼鉄の板に向かって右ストレートを叩き込んだ。

一瞬空中に停止した扉は、拳を受けた部分が大きく歪み、そのまま床に落ちる。

ドア周りの壁も粉々に砕かれ、咄嗟にミケを庇ったフォックスは飛散した破片に当たり、頬が切れて一筋の血が流れている。

破片によってできたかすり傷から、再生に伴う蒸気を噴き出しつつ、ギガはごきごきと首の関節を鳴らした。

威嚇する視線の先には、壁にぽっかりと空いた大穴があり、強さを増し始めた雨と風が吹き込んでいる。

雨天の薄暗い日光に照らされて現れたのは、鮮血を纏ったような深紅のマント。

それは紛れもなく、人類の脅威――――赤い暴君、ラクーンドッグの姿だった。

幾何学模様が施され、耳近くまで牙を剥きだした獣の面には表情など存在せず、僅かに首を傾けたその立ち姿も隙がない。

暴君は腰に提げた鍔の無い日本刀を抜いた。

しゃりん、と澄んだ音が空間に反響する。

「…………また遭ったな、フォックス」

聞き取りづらい程のハスキーな声が囁いた。

ラクーンドッグを睨み付けたまま、フォックスは獲物を狙う獣のように、淀みない仕草で立ち上がった。

そして、自らを庇うように廊下の中央に構えるギガを押しのけて、彼の前に出た。

「…………君の方から来てくれるとはね、ラクーンドッグ」

2人の間は約10m。

過去に彼女の居合斬りを喰らったことのあるギガは、その間合いがフォックスの死を意味することを知っていた。


奴が一歩でも踏み込んだら、彼は確実に斬られる。

俺が間に割り込む余裕もない。


時間だけでも稼ごうと、ギガが口を開いた瞬間、ラクーンドッグは彼に刀の切っ先を向けた。

「無駄だ。黙っていろ」

不気味な獣面は彼を牽制しながら、フォックスからは一切顔を逸らそうとしない。

たじろいで言葉を飲み込んだギガには興味が無いのか、彼女はまるで目もくれなかった。

硬直状態の中、ギガはどうにか活路を切り開くために、視覚から敵の情報をできる限り収集しようと試みた。

赤いマントの後ろ、壁に開いた大穴の向こうには、褐色の肌を持つ「何か」が立っている。

薄汚れた白の布で身体を隠しているため、その姿を確認することはできない。

しかし、布の合間から伸びる巨大な拳を見るだけで。あれがミケの言う「大きな人」――――否、インフレイムであることは一目瞭然だった。


徐に、暴君は背後の異形の名を呼んだ。

「……行け、ガンブラー」

ラクーンドッグの背後に控えていたインフレイムは、逆関節状になった脚で地面を揺るがし、地響きを鳴らしながら立ち上がった。

迷彩柄のぼろ布をなびかせて背を向けるガンブラーをよそに、ラクーンドッグは挑発的な態度で刀の先を振った。

「奴はオリンポスの壁を突破できる


それはギガにとって究極の選択だった。


ガンブラーとやらの後を追って止めなければ、10年前にオリンポス紛争が始まった日を繰り返すことになる。

今まで戦って来た理由の全てを、無駄にすることになる。

しかし、相手のブラフとも取れる言葉を真に受けて、俺がこの場を離れてしまえば、フォックスとミケは奴に殺されるかもしれない。

俺が奴に勝てるとは思っていない、けれど2人を逃がす間くらいなら、どうにか。


その思考を断ち切るかのごとく、フォックスは彼を振り返らずに背中で告げた。

「行け、ギガ。行ってくれ」

「でも、あんたは、ミケは!」

「この子は必ず逃がす。私には構うな。君は、君が造られた意味を全うしろ」

彼の言葉に迷いはなく、ギガに躊躇っている時間はなかった。

「……承知」

ギガはすぐさま踵を返し、廊下の奥にある階段から本部の2階へと姿を消した。

フォックスは背後のミケに向かってはっきりと指示した。

「ミケ、下がって。私が奴の相手をする。その間に逃げなさい」

ミケは唇を噛んで瞳いっぱいに涙を浮かべながら、何度も首を横に振っていたが、やがて足を引きずって廊下の奥へ消えた。


天候は次第に暴風雨と化し、吹き荒ぶ風と水飛沫の中、フォックスとラクーンドッグはついに1対1で向き合った。

「あの赤毛………お前はまだ過去に縛られているのか」

「そうだ。私の時間は止まったままだ」

フォックスはどこか自虐的に、人間らしからぬ抑揚のない口調で答えた。

「お前は彼女に―――いや、あの要塞都市に呪われている」

「まだそんなことを言えるのか。相変わらず身勝手で傲慢だね、君は」

脚を踏み出しかけたラクーンドッグの進路を塞いで、フォックスが真正面に立ちはだかる。

彼は俯いたまま笑っていた。

「私が死ぬか、君が死ぬまで、あの日々は終わらないよ」




本部の階段を一気に駆け上がって自室に飛び込んだギガは、机に放ってあった無線を鷲掴みにすると、得物である規格外サイズの鋸を担いだ。

廊下へ戻ってさらに階段を駆け上がり、タックルするほどの勢いで屋上への扉を開ける。

彼は篠突く雨の中に躍り出ると、すぐさま屋上の床を蹴って跳んだ。

工場地帯の廃屋の屋根から屋根へと跳び移りメインストリートに出ると、100mほど先を4足歩行で駆けて行く巨体を捉えた。

規格外の体型の代償か、幸いガンブラーの移動速度はそれほど速くない。

ギガは広いストリートの中央に着地すると、全力で敵を追い始めた。

紫外線量の少ない雨天の昼、スラムの大通りは人が多く、露天街に持ち込まれてしまえばギガは自由に戦うことができない。

彼は廃工場エリアの内部で、敵を足止めすることを考えた。

走りながら折り畳み式の鋸を振り開くと、重い金属音とともに、鋸のパーツが固定される感覚が掌に伝わる。

ガンブラーの背後に追いついたギガは、大鋸を振り被って飛び掛かった。

空中で1回転し、全体重をかけた打撃が敵の肩に直撃。

彼の狙いではそのまま腕の付け根を輪切りにするはずだったが、鋸は恐ろしく頑丈な物体に弾き返された。

反動で後ろに吹っ飛んだギガは泥水を跳ね上げて受け身を取り、どうにか跳ね起きる。

オリンポスへ向かって猛進していたガンブラーは、蹄のある足で大地を削りながら振り返った。

ガンブラーは上半身を起こし、全身を覆っていた迷彩柄の布を掴むと、一気に剥ぎ取った。

滴を弾き飛ばしながら布が大気を流れていく様は、コマ撮りのスロー映像さながらにギガの視覚へと焼きついた。

ミケの情報通り、その大きさにして約7m。

鋼の束を編み込んだかのように強靭な肉体、その上を装甲車に似た鎧が覆っている。

逆関節の脚部を牛に近い蹄が支えていて、極めつけはその頭部だった。

それは人間の頭蓋骨とは異なる、サイか何かに近い獣の形をしていて、額には威圧的な大角がそびえている。

その双眸は彩度の高い青で、ある種の知性を湛えており、獣には似つかわしくない聡明さが不気味だった。

目の前の敵はカスケードと同じインフレイムの幹部であること、1人で勝てる戦いではないことをギガは察した。

「………喧嘩売りにくるんなら、特攻服くらいゆっくり着させろよ」

「……………」

任務の時に着るダークスーツではなく、作業用に着る私服のカーゴパンツをわざとらしく払い、彼は時間稼ぎに軽口を叩く。

今は逃げと陽動に徹し、南部スラム組の主戦力が戻ってくるまで持たせる以外に選択肢はない。

ギガは大鋸を構え、ガンブラーと対峙する。






張りつめた空気を破ったのは、ラクーンドッグだった。

分厚いグローブに覆われた手が刀の柄を握ると、鈍く揺れる刀身が赤く光り始めた。

過去にギガを斬り、傷口の細胞を焼き殺すことで自己再生を不可能にした電熱刀だ。

刃の周りでは背景が歪み、吹き荒ぶ雨の水滴が刃に当たると同時に、蒸発して大気に消えていく。

「お前はやはり…………私の手で一度殺さねばならん」

ラクーンドッグは風に踊る赤いマントを掴み、前方に打ち捨てると同時に、布地の死角から弾丸のような速さで刺突を繰り出した。

フォックスの脇腹を切っ先が掠り、黒い衣服の上から血が噴き出す。

脇から腕を断ち切ろうと刀身を振り上げるが、フォックスから頭頂部に肘鉄を喰らう寸前で刀を抜いて飛び退く。

電熱刀の刃が触れるたびに、彼の華奢な身体からは血液と蒸気が飛び、壁に赤黒い模様を描いてゆく。

武器を持たないフォックスは斬撃を避けることしかできず、本来受け止めなければ避けられない刃が彼の体を切り刻む。

狭い廊下では暴君の背後に回り込むことも困難であり、フォックスは徐々に押されていたが、数歩下がったラクーンドッグが壁を蹴って凶器を振り下ろす瞬間、彼はリビングの入り口に転がり込んだ。

広い部屋の中央にあるソファーを挟んで、2人は睨み合う。

「素手と刀じゃ、アンフェアだろう」

フォックスがにこりともせずに言うと、彼女はそれを鼻で笑った。

「生憎、情けや容赦などは持ち合わせていない。私はこの世界では『悪役』だ」

やはり硬直状態を破るのはラクーンドッグ、腰に提げた鞘を外して逆手に構え、ソファーを蹴って跳びかかった。

リーチの面では背の高いフォックスの方がラクーンドッグよりも勝るが、武器を持っている以上、彼女は一方的に攻めることができる。

刀を牽制に使ってインファイトに持ち込まれたフォックスは、ついに暴君の左ストレートを頬に喰らって後ろに吹っ飛んだ。

背中から壁に叩き付けられたフォックスは、鼻と口からぼたぼたと血を滴らせながらよろけて膝を付く。

苦しげに肩を震わせるフォックスに歩み寄り、ラクーンドッグは彼の腹にアッパーを喰らわせ、襟首を鷲掴みにした。

頭を垂れて咳と共に血を吐くフォックスは、強引に首元から吊るされる形で立ち上がった。

血液にまみれた胸はがら空き、ラクーンドッグは電熱刀の切っ先を心臓めがけて突き立てた………はずだった。

見れば、胸を庇うように出した腕に、刀の先端が貫通して止まっている。

彼は刀を握るラクーンドッグの手首を鷲掴みにすると、腕に刺さった刀を力任せに胸から逸らす。

「……………つかまえた」

血に濡れて赤く染まった白髪の奥から、絶対零度の黒い眼光がラクーンドッグの仮面の奥を見据えた。

「馬鹿な……!」

刀の熱によって、服の袖は肘から下が灰と化し、彼の青白い肌は爛れるどころか黒く焦げ始めている。

だが、ギガの金属製の肋骨を叩き斬ったはずの刃は、彼の腕の骨を貫通したまま一向にびくともしない。

フォックスは口角を釣り上げて歯を剥き出し、刀を握りしめた手を僅かに痙攣させながら、目の前のラクーンドッグに喰らい付きそうな狂気で満ちた笑顔を見せる。

「電熱刀対策くらい済んでいるよ。ギガを斬って、証拠を残してしまったね」

彼が話す間にも腕の皮膚は融け、焼けて異臭を放つ血液が床に落ちて行く。

手の甲から指先までの組織が焼失した後に残ったのは、エニグラドールやインフレイム、その他の人型メカノイドにも組み込まれている金属骨格だった。

掴まれた手首を振りほどき、背後に飛び退こうとする暴君の顔面を、刀が刺さったままの腕が執拗に殴りつける。

連続で殴打するうちに狙いが外れ、肩に打撃を喰らったラクーンドッグが空中を舞い、ソファーの間にあるガラステーブルを割って床に転がった。

間を置かずに脚を振って立ち上がると、割れた面が彼女の顔から落ちた。

あらわになったその顔は怒りに満ちて尚凛々しく、殴られて潰れた片目からは半透明の液体が溢れているにも関わらず、フォックスと同じ漆黒の眼光は彼を鋭く射抜いていた。

ラクーンドッグは折れた歯と血反吐を吐き捨て、太腿に固定してあったホルダーからサバイバルナイフを抜き、両手に構えた。

腕の骨格と融けて一体化してしまった刃を途中で折り、フォックスは自身の得物であるバールを扱うように数度振り回す。

「昔を思い出すよ…………私はエンジニアで、実戦訓練なんて入隊1年しかやっていなかったのに」

フォックスは数歩踏み込んで部屋を横切り、横殴りに暴君へと斬りかかる。

折れて電熱効果を失った刀は、ラクーンドッグのナイフと互いを削り合い、飛び散る火花が薄暗い部屋を走った。

「あの頃は、毎日のように、格闘訓練ばかりで、全く、参ったよ」

斬撃と刺突を次々に繰り出しながら、動作ごとに言葉を区切って懐かしむように呟く。

次第に押され始めたラクーンドッグは、折れた刀に二の腕や脚を抉られる度に後ずさりする。

切れた頭の皮膚から流れ出る血が視界を赤に塗りつぶし、その隙を狙って、残った眼を潰さんばかりに刀が顔すれすれを横切った。

切っ先を避けるために仰け反った瞬間、切り返した刀がラクーンドッグの腹に深々と突き刺さる。

彼女は顔を歪めて大量に血を吐きながらも、ナイフでフォックスの首を掻き斬った。

刀を握りしめて腹から引き抜き、そのままフォックスの心臓辺りに突き刺して壁に押し付ける。

金属骨格が露出した腕がさらに顔面を襲うが、ラクーンドッグはその腕に融けて合体した刃の切っ先を壁に刺し、逆の腕もサバイバルナイフで壁に固定した。

最後に彼の両肩を狙って蹴り肩の関節を外し、彼をコンクリート壁に磔にする。

「詰めが甘い。お前は昔からそうだ」

ラクーンドッグが胸に突き刺さった刀に触れると、フォックスの薄い胸板が僅かに跳ねた。

逃げ場を求めるように足先が床を擦ったが、ラクーンドッグは容赦なく刀を捻り、壁に刺さっていた刃を折った。

「ッ…………あ゛あっ!! あ……う゛ぅ……!」

幅のある刃に傷口をこじ開けられ、フォックスは朦朧とした視線を泳がせながら身を捩ったが、ラクーンドッグは折れた刀をさらに奥まで押し込んだ。

彼は絞り出すような浅い呼吸の合間に血を吐き、刀を握るラクーンドッグの肩に頭を預けるように項垂れた。

「………格闘訓練、君に勝った記憶が……ないね」

暴君は形の良い吊目を細め、刀から手を離すと、フォックスの首を掴んで押し遣った。

「だが私には、他に何もなかった」

その言葉を最後に、ラクーンドッグは彼に背を向け、血で一面が汚れたリビングを出ようと立ち上がった。


彼女の背中に向けて、フォックスが一言だけ囁いた。




「私の心臓なら、エニグラドールが持っているよ」




凍り付いたように立ち竦むラクーンドッグの視線の先、談話室のドアに寄り掛かる形で、とうに逃げたはずのミケが立っていた。

きつく握りしめた彼女の拳には、人造の血が滲んでいる。

「…………………フォックス?」

蚊の鳴くような声で呼ぶも、ただ沈黙する彼は答えない。

彼女は瞬きひとつせず、血飛沫を浴びたラクーンドッグの顔を見つめる。

ラクーンドッグは本能的に危険を察知し、拳を振りかぶったが―――――――目の前の少女に対して、刹那の迷いが生じた。


ノウ。

違う、あれは彼女じゃない。

私に迷いなど。


刹那、ミケの絶叫が空間を切り裂く。











世界と俺とのインタフェースが壊れた時、気を失うまでの一瞬、俺は正気に戻っていた。

全身の細胞が限界を訴えていて、粉々に砕けずに形を保っているのが不思議なくらいだった。

痛みはある一線を超えると、単に感覚神経を遮断するスイッチに変わる。

はさみで切られたみたいに世界とのつながりが途絶えて、俺はその時点で俺自身が死んだと思っていた。

けれど、結局は俺の意識が無に還ることはなかったし、現実にバグを仕込んだような、仲間だけ消えた中途半端な世界―――夢が、こうしている今も俺の周りを取り囲んでいる。

フォックスのことだから、簡単には殺さなかったんだろうとは思う。

でも、死んでいようと生かされていようと、俺の精神が隔離されているのならどちらでも同じことだった。

肉体が蘇生されたところで、それは眼を覚ます理由にはならない。


スラムや廃工場地帯は、どこに行っても血の臭いに満ちている。

今まで、その臭いで思い出していたのは、小太りで薄汚れた人間の汗ばんだ首筋から溢れる鉄の味のはずだった。

罪人の脂ぎった皮膚と、怪物のうろこみたいな醜いいぼがAIの端を過って、俺はそのたび薄暗い路地裏に逃げ込んで、情けなく泣きながら啜った血を吐いているはずだった。

そうあるべきだったのに、いちばん最後に舌に触れた味を、俺は心地良いと感じてしまった。

浅黒い肌には凹凸のひとつもなく、あのときに見境なく食い破ったことを惜しく感じた。

表面に牙を寄せた瞬間をおぼろげに思い出せば、ほんのかすかにオキシドールの匂いが漂う。

舌に絡みつく、熱く甘い人工血液は、脅迫的な渇きをこれまでの何よりも忘れさせた。

きっと、今の俺が現実に戻って血に触れたら、よみがえるのはあの味だ。

だから俺には、眼を覚ます権利がない。

許される価値がない。

だから、このまま植物状態で沈黙を続けて、いずれ俺が廃棄されることを、二度と現実の苦痛に戻ることなく、夢うつつの合間に死ぬことを願っていた。


見慣れた談話室。

俺は少し硬いソファーに身を埋め、忌々しい牙が隠れるようにマフラーを口元まで上げた。

テーブルの上に置き去りになったイヤフォンと、床に落ちた音楽プレーヤーを眺める。

俺は、皆が生きる現実の世界で、何かが起きていることを分かっていた。

それは本部の中で発生している異常事態であって、この10年来経験したことのない危機的状況で、おそらくエニグラドールの存亡を賭けた事態であることも、俺は漠然と理解していた。

始めは、霧がかった談話室の窓や扉を、誰かが弱々しく叩いていた。

まるで隙間風みたいに小さな声が、俺の名前を呼んでいた。


なぜ俺を。

人間を殺してギガを襲い―――俺はあいつも殺してしまったかもしれない―――その後に誰を殴ったのかすら分からない俺を。

両手を耳に強く押し当てて、ソファーにうずくまった。

もう何も聞きたくない、何も知りたくない。

窓の外から呼んでいるのは、俺に助けを求める声か?

もはや動ける仲間すら残っていないのか?

目覚めたところで、俺に何ができる。

すべてぶち壊すだけだ。


やがて声は失望したように、窓から遠ざかって消えた。

殻の中の雛みたいに丸く小さくなって、きつく閉じていた瞼の力を抜く。

途端に涙がぼろぼろとこぼれて、ソファーの布地が色を変えた。

なにもかも失ったんだろうか。

きっともう誰も来ない。









「―――――――――――こわす」



泣いていた俺は、ソファーの上で跳ね起きた。

今のは、誰の台詞だ。



「ころしてやる」



これは誰の感情だ?



「……あ、ああ が、ぁあああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」


談話室を雷鳴のような絶叫が走った。

窓の外の囁きとは非にならない声が鼓膜を突き抜け、全神経が痺れ、弾かれたように飛び起きる。

それは比喩以上の威力を持って、俺の心臓を抉った。

今の「彼女」は助けを求めてはいなかった。

破壊は彼女が生きる世界じゃない。

俺に許される価値がなくても、彼女の世界を守る理由はあった。












治癒促進用の溶液で真っ赤に満ちた水槽が、底のあたりから沸騰するように激しく泡立つ。

アクリルの壁にひびが入り、液体が外へと流れ出した瞬間、水槽はまるで内部からの圧力に耐えかねたように割れた。

辺りに透明の破片が飛び散り、緊急治療室の白い床を赤に塗り潰す。

水槽の中で眠っていたナナシは、長い髪の先から赤い雫を滴らせ、眼を閉じていた。

残った水槽の底面に両膝をつき、誰かへ祈るような姿で佇む彼は、音もなく顔を上げ、やがて瞼を開いた。

両手に嵌められていた拘束具は、掌を軽く開いただけで床に落ち、再起不能にまで傷付いていた身体も、支障なく動くことを確かめる必要すらなかった。

肉体の崩壊を抑えるために纏っていた保護スーツには、全身のいたる所に生命維持の措置が施されていたが、それらの管が次々に抜けていくことにも構わず、彼は確かな足取りで立ち上がった。


治療室を出て、裸足のままひたひたと歩く。

薄暗く冷たいだけの廊下を歩いていても、得られる情報の奔流が凄まじい速さで通り抜け、物体の表面を情報の羅列が走っているかのように見えた。

皮膚から伝わる冷気と、コンクリートのざらりとした質感。

どこまでも反響して続く足音。

大気に練り込まれたかのように濃く漂う、人工血液の匂い。

視界に入る全ての物体のコントラストと彩度が高く、輪郭すらもくっきりと鮮明に映った。

気を失う直前までは、神経は血の臭いのみに対して過剰に応じていたはずだ。

だが今は、あの頃よりもはるかに多い情報を取り込みながら、すべてを処理している。

指先に通う神経の一本すら残さず、全身がAIの支配下に置かれていた。

心臓は驚くほど一定のリズムを刻み続け、彼はそのパルスに安堵すら覚えた。


血飛沫に塗れた廊下から、凄惨な状態の談話室に踏み入ると、死んでいるのかと見間違えるほど全身に血液を浴び、壁に磔にされたままのフォックスを発見した。

胸には明らかに致命傷となるべき刀傷を負っているにもかかわらず、フォックスは僅かに頭を上げてナナシを見た。

「あんたは、『どっち』だ」

「…………『人間』さ。サイボーグだよ」

皮膚が焼けてこびりつき、焦げた金属骨格が覗くフォックスの腕を一瞥し、ナナシは鼻を鳴らして軽く頷いた。

「ふん…………一応聞くけど、大丈夫かよ」

「すぐに死にはしない。久々だよ……痛覚に、こんなに強い刺激が……」

眉間に深い皺を刻んだフォックスは、傷口の内部と刃物が触れる苦痛に口元を歪めた。

「……それで、覚醒した気分は」

「最高と言いたいけど、混沌を失くした。もう心を隠せない」

フォックスを真っ直ぐに見据えるナナシの瞳孔は、穏やかな表情とは裏腹にぎらぎらとした憤怒を湛えている。

そして何より、その色は暴走状態に陥ったときの彼に酷似していた。

「………今の君は、精神の純度が高すぎる。肉体と共に………安定はしているが、ある意味では、あのときよりも危険な諸刃の剣だ」

「分かってるよ。紙一重で正気を保ってる」

フォックスの腕に刺さったナイフを壁から抜き、両肩の関節を素早く直しながら、隣に跪いたナナシは軽く笑った。

「やっぱりあんたには、色々と隠し事がありそうだ」

「露店を開けるくらいには、ね」

フォックスは金属骨格が露出した手の甲で顔に飛び散った血を拭い、心臓部分を貫通したままの刀を思い出したかのように引き抜いて投げやりに放った。

「ギガはインフレイムの幹部クラスと戦っているし、ミケは……ラクーンドッグを追ってしまった。私は、奴とやり合って……この様だ、君が行ってくれるか」

「そのために起きたんだ。あの子の居場所を戦場にしたくない」

ナナシは長い前髪の間で目を伏せ、唇をわずかに噛んだ。

「それに……謝りたい奴もいるから


ナナシは血液で重く湿った上着を脱がせ、フォックスの痩せた胸にきつく巻き付けて刀傷を押さえた。

踵を返して立ち去ろうとするナナシの背中を、フォックスが呼びとめる。

「…………待て。そのままじゃ、君らしくない」

溶けていない方の手首を振り、そこに通してあった髪留め用の輪ゴムを示した。

ナナシは彼の手首から輪ゴムを受け取り、少し驚いた風に見つめた。

「あんた、ずっと持ってたのか。これ」

「何………偶然さ。全くの偶然」

片方の口角を吊り上げ、フォックスが悪友のように笑う。

「もう飲み込まれるな」

「ああ」

ナナシはまだ湿っている長髪をポニーテールにまとめ、ガンブラーによって破壊された出入り口から駆け出した。




豪雨が地上の全ての物体に叩きつけられ、砂を含んでは砕け散る。

スラムの廃墟はガンブラーを中心に端から粉砕され、もはや周囲は単なる更地と化していた。

獣の姿をかたどられた巨大な敵は、声はおろかただの一度も呼吸の音すら発することなく、落ち着き払った動作でギガの居場所を探っている。

ギガはかろうじて残った廃墟の影に身を潜め、上がった息を必死で押し殺していた。

隙を見てはもう幾度となくその全身へ鋸を叩きつけたが、ガンブラーは痛みを感じていないかのように、怯む様子も見せない。

皮膚のメンテナンスを怠っていたのか、ひどく年老いている獣の顔も表情ひとつ変わらなかった。

量産型の大型インフレイムとは装甲の質が違うことに加えて、ガンブラーの反応速度は巨体に似合わぬ速さを誇り、必ず装甲部分で受け身を取られてしまうことも厄介だった。

だが、ガンブラーの気を引いて時間稼ぎになればそれで十分だ。

俺が駄目でも、他のメンバーの速度なら追い付ける。

遠征に出ている双子と南部スラム組が戻り、全員でかかれば少なくとも敵を退去させるくらいの見込みは出ると彼は踏んでいた。

ギガは廃墟からわずかに顔を覗かせ、記念碑か銅像のように直立する敵の挙動を探る。

ガンブラーが腕にまとった鎧はやや浮き上がり、その隙間に沿って鮮やかな青い光が漏れている。

腕に何らかの破壊に特化した機構を搭載しているらしく、敵が建物を殴った時のコンクリートの崩れ方には妙な特徴があった。

普通、ギガがコンクリート壁や未舗装の道路に正拳突きを当てた場合、人間の背丈ほどある巨大な破片となって崩れるか、強度によっては一部分に穴が開くものだ。

しかし、ガンブラーの拳が当たった場合は、その瞬間にすべてが「粉砕する」。

殴り付けた点から半径5mほどの円を描くように、コンクリートや地面の破片は砂粒となって爆散する。

それは、大戦直前から現在まで運用されている、掘削用アニマロイドと同じ特徴だった。

打撃が当たった瞬間に対象の共振周波数を感知し、共振を起こして粉砕するメカニズムであり、採掘対象の鉱石の周波数と意図的にずらすことで効率よく宝探しができる寸法だ。

無論、その機能は血肉を持つ人間サイズの相手に使って良い代物ではない。


長くとがった耳を揺らして音を拾い、振り返ったガンブラーが彼の存在に気付いた。

前触れもなく地面から垂直に跳んだかと思うと、その拳をギガのすぐそばの大地に叩き付けた。

長い年月をかけて固められた地表が、重く低い爆発音と共に砂状に変化し、前転でどうにか飛びのいたギガの足元が蟻地獄のようになだれ落ちる。

生身で喰らったら終わりだ、まさに一撃必殺。

だが、恐ろしい兵器を造り上げたものだと感心する暇も無かった。

ガンブラーは意図的に建物を破壊しているらしく、すでに周囲の廃墟はほとんど倒壊し、ギガが隠れられる場所はもう残っていない。

ガンブラーは頑なに無言を貫き、必死で逃げ回るギガを追って拳を地面に叩き付ける。

背中を掠るギリギリの所を拳が通り抜け、足場が柔らかい砂に変わった。

地表があった位置から片脚が沈み込み、体勢を立て直したガンブラーの追撃が目前に迫る。

まずい。


危機を確信した瞬間、飛来した隕石を思わせる褐色の拳が、その奥の背景もろとも水平方向に歪んだ。

腹のあたりに敵の拳とは別の柔らかい衝撃を受けて真横に吹っ飛び、ギガは水浸しの地面に背中から突っ込んだ。

彼は素早く状況を確認し――――立ち上がろうと空中を掻いた腕の下、濃い青の髪が揺れる。

精神の底に根を張る本能的な恐怖を、淀んだ血液を湛える視線が髪の合間から煽った。

ギガの上に覆い被さる形で、彼の血を貪り肉を喰らったときによく似た、言語的・精神的な意志疎通を拒絶する瞳が佇んでいる。

表情も言葉もなく、ただ、鋭い針で皮膚を突き刺すような、メスで筋を暴くような、美しいほどに研ぎ澄まされた怒りが満ちていた。

――――――今のお前は獣か、理性か、それとも他の何か。

永遠にすら感じられる、ほんの刹那だった。


「…………少し、寝坊した」


怒りの色がふっと和らぎ、どことなく困ったように眉を上げて、「ナナシ」が薄く笑っていた。

「お………………お前………………?」

呆然とするギガを背に庇う形で立ち上がり、彼はタールさながらの黒い血液が滴る掌を振るった。

血振りの遠心力を可視化するかのごとく、彼自身の身長の倍近くある翼が翻る。

ナナシの肩越しに、敵の腕を覆う重装甲のわずかな隙間から、黒い血液が溢れている様子を見てとれる。

ギガを襲わんと振りかぶったはずの拳は、いつの間にか表面を切り刻まれて、腐りかけの果実のように肉が抉れていた。

ガンブラーは警戒の素振りを滲ませたが、後退する様子はなかった。

地面に刻んだ蹄の跡に、雨とともに滴り落ちる黒い液体が血溜まりを作る。

その場で緊張なく跳ねたナナシは、長距離走の駆け出しのように軽く数歩踏み出すと、突如消えた。

彼が消えた場所には微かな水煙が舞い上がり、ガンブラーがその巨体を揺らしたシーンまでを追って、ギガはやっと状況を理解した。

ガンブラーの全身を隅々まで覆う装甲の唯一の弱点、各関節の可動域を維持するためのわずかな隙間を縫って、脇から肩までが切り裂かれている。

続けて上唇と目を繋ぐように一閃、獣に不釣り合いな双眸は片方が失われ、黒い血の涙が老いた頬を伝う。

ナナシの残像を追って敵の拳が空を切り、無防備に伸びた腕を青い塊が駆け登る。

どうにか彼を捕まえようと腕が闇雲に後を追うが、重力を忘れたナナシは軽業師のように宙へ舞い上がり、そしてガンブラーの角にぶら下がってようやく動きを止めた。

奇妙に長く、薄い皮膜の張った爪の先は、ガンブラーの残る眼球にぴたりと狙いを定めている。

だが、呼吸ひとつ漏らさずにナナシを睨んでいたガンブラーは、ふと何かに気付いた様子で耳を微かに震わせた。

「……ラクーンドッグからだな。あの様子じゃ死ぬぜ。俺様の相手をしてる場合じゃないよ」

無線の内容に見当がついていたナナシが囁くと、ガンブラーは鮮やかな青色の視線を逸らして俯き、数歩退いた。

意思を察したナナシが大角から手を離して音もなく着地すると、明らかに敵意を失った巨体はそのまま引き下がり、やがてオリンポスとは逆の方向へと地響きを連れて消えた。

ガンブラーを翻弄するナナシの戦闘には割り込むこともできず、呆然と彼の残像を追っていたギガは、はっとしてその背中に駆け寄った。


そうだ。

今の彼は彼だった。

確かに。


大鋸を適当な地面に突き立て、ナナシの両肩に大きな掌をかける。

「ナナシ!!」

「ああ、悪い。今はアレの相手をしてる時間が」

異形のコウモリを象った翼を引っ込めつつ、土砂降りの雨に目を細めながら振り返った彼は、ギガの顔を仰いで思わず言葉を飲み込んでしまった。

「………………………え、お前、泣くなよ! なんて顔してやがるんだ」

「泣いてねえ! 雨だ!」

「黄緑色の雨があるかよ……」

「あったって良いだろ!」

ギガは震える声を押さえることもできず、ぼろぼろとこぼれる涙を掌で懸命に拭っているが、血と同じ色の涙は雨に流れて頬に黄緑の線を引いてゆく。

泣きながら地面に座り込みそうな彼を前に、ナナシはかけるべき言葉を選びあぐねた結果、前かがみに俯くギガの頬を両手で軽く叩いた。

「後で……後で話そう。言いたいことがたくさんある。でも、今やらなきゃならねえことがあるんだ」

フォックスがラクーンドッグに痛手を負わせたものの、逃げるラクーンドッグをミケが追って消えてしまったことを伝えると、ギガはわざとらしくぐしゃぐしゃと髪を掻き回した。

狼に似た目元はまだ潤んだままだが、ギガは切り替えが済んだことを示すように何度か頷く。

「分かった。ミケの居場所は、検討ついてんのか」

「ああ。あの子は自分でGPSを持って出たらしい。端っからラクーンドッグを追う気だったんだ」

「そうか、それはまずいな」

殺すとまで叫んだミケの精神状態によっては、ラクーンドッグを追い詰めて戦いに持ち込む可能性もある。

手負いと言えど相手はあの暴君、非戦闘用ガイノイドであるミケにはとても敵う相手ではないはずだ。

ギガは背後に突き刺したまま放置されていた鋸を引き抜き、中央から折り畳んで肩に担いだ。

「手分けしたい所だけど、フォックスを放っといたらあいつも死ぬ。お前は本部に戻ってくれ」

返事も待たずに上空へと飛びあがったナナシは、廃墟の壁を蹴って屋上へと躍り出た。

ナナシの背中は見る間に小石ほどに小さくなり、目覚めてから妙に巨大化した翼を使って、彼が廃墟を飛び移って行く様がかろうじて見える。

呆然としている暇はないと頭を振り、ギガは自身の使命を果たすべく土煙と雨の滴をかき分けるように走り出した。











エニグラドールの本拠地である廃工場から遠く離れ、スラムの一角にある古びた小さな空き家で、ボロボロの毛布に身体を包んだラクーンドッグは身を潜めていた。

スラムに流れるありあわせをかき集めて住んでいたのだろう、ちぐはぐな意匠の家具は割れた窓から吹き込む砂埃で覆われている。

傾いたキャビネットの上は、数人の家族らしき写真が飾られたまま、すでに蜘蛛の住処と化している。

フォックスが執拗に彼女の顔面を殴り続けたため、彼女の片目は完全に潰れ、乾いた血がこびりついた赤黒い皮膚の上を白い液体が這っていた。

唯一生身の脳を維持する一連の器官だけはかろうじて避けたが、死闘を繰り広げた義体はいたる所が切り裂かれ、片腕の骨に至っては手首と肘の間で不気味な方向に曲がっている。

床に敷かれた花柄の塩化ビニールマットを人工血液で真っ赤に染め、キッチンのシンク台の下で力無く横たわっている不釣り合いな自らの姿を思い、彼女はおよそ人の声とは呼べないほどに乾いた笑い声を上げた。

傷ついた体内から溢れる血が口元から糸を引き、汚れていない床の面積を狭める。

フォックスと自身の血と雨を吸って重くなった野戦服が、低い体温をさらに奪っていく。

彼女は擦り切れた毛布の中で、自身の焼け爛れた頬を撫ぜた。

ラクーンドッグの頬から左半身にかけての皮膚組織は、火傷を負ったように爛れていた。

あの赤毛のガイノイド、ミケを殴る拳に一瞬のためらいが宿った瞬間、ラクーンドッグの半身は急激に熱されて重度の火傷を負った。

それはあたかも電子レンジの中で熱された物体のようで、ミケが絶叫した方向にあった物体は焦げ付き、あるいは融け落ちた。

それは電磁波を用いた指向性破壊兵器だろうと予測はしたものの、ラクーンドッグにとって重要な部分は、もはや武器の構造よりも別のところにあった。

一度はフォックスが逃がしたはずの、赤毛のガイノイドがあのタイミングで戻ってくることは予期せぬ事態だった。


フォックスは、彼女が確実に戻ってくると予測していたとでもいうのか。

彼女の『心臓』は失敗作だったはずだ。

彼女の呪いはまだ続いているとでもいうのか。


仰向けに倒れたままのラクーンドッグは、人工血液に濡れた拳で床を何度も殴りつけた。

塩化ビニールのマットがよじれて千切れ、床の木材にひびが入るまで殴り、やがて彼女は毛布の中で身を丸めた。

「50年だ……50年戦った……」

彼女は肩を揺らしながら、かすれた声で気が触れたかのように笑った。


まだ戦わねばならない。

神は神としての役割を見失ったままだ。


ラクーンドッグはうずくまったまま、耳元の小型ヘッドセットに手を遣り、力無く囁いた。

「…………全兵、帰投せよ。カスケードとラロックスは2人の処置を怠るな」













「…………見つけた」

翼を広げて廃墟から廃墟へと飛び移っていたナナシは、本部から数キロ離れたスラム街をよろよろと歩く赤毛の少女を発見し、地上へ降り立った。

元の声の名残はあるが、壊れたスピーカーのように機械的な声で、ミケは歩きながらわんわん泣いていた。

足音に気付いた彼女は転びそうになりつつ振り返り、甲高い声でナナシに向かって叫んだ。

垂直に落ちてきていた雨粒が衝撃波を受け、急激に進路を変えて弾け飛ぶ。

ミケの声――――声と共に発された電磁波を真正面から受け、ナナシは軽く胸を押されたかのようによろめいた。

彼の背後で、廃墟の壁だけが削れて辺りに破片を撒き散らす。

ミケは目の前に立っている姿をやっと認識したようで、一層大きな声で泣きながらナナシに駆け寄った。

彼は地面に膝を付き、蝙蝠に似た翼でミケを包む。

本来、彼女の攻撃機構は非常時に用いられるべきものであり、何度も電磁波を吐き出した口周りには痛々しい水ぶくれが現れている。

ナナシに抱きしめられながら、ミケはひどく咳き込み何度も血を吐いた。

「……わるいやつ、逃げちゃったなのです、ミケじゃだめだったなのです」

「ラクーンドッグを追ったのか、ミケちゃんが自分で?」

ミケは顔をくしゃくしゃにして、小さな拳をナナシの胸板にぶつける。

彼女の意思はもはや、ひたすら守られる側のものではなくなってきていた。


―――麻痺が始まってるんだよ。

記憶も霞むような遠い昔、誰かが呟くように、冗談めかして言っていたことを思い出した。


彼女に対してどんな言葉を向けてやったら良いのか、ナナシには分からなくなってしまった。

彼女が戦場で麻痺していく過程を肯定して、「よく頑張った」と言えば良いのか。

それとも、自らの意思を持ち必死で戦った彼女に、今更「君は戦わなくていい」とでも言うのか。

言葉を選びかねている原因は単純に自分のエゴだと、彼はAIの奥底で理解していた。


彼女には無垢でいてもらいたいと思っていた。

守られる側であってほしいと願っていた。

彼女が助けを求めている間、臆病に引き籠って寝呆けていた結果がこれだってのに。

彼女を抱き締めるこの仕草1つ取ったって、俺は狡い。


ナナシは複雑に絡み合った感情が解けないまま、ミケを包んでいた翼を離した。

ぎこちないふたりは、言葉を交わさないままだった。
















ミケとナナシが本部の廃工場に戻った後、どうにか自身の応急処置を済ませたフォックスが彼女の処置を行っている間、ギガとナナシは原型を留めないほどに破壊されつくした談話室に立ち入った。

ガラスの破片が飛散し、ソファーはあちこちから綿を吐き出して、床や壁一面が乾きはじめた血で赤黒く染まっている。

嵐が通り過ぎたかのような部屋の様子に、ナナシはどこから手を付けるべきか途方に暮れて、こめかみを掻いている。

彼に続いて談話室に顔を出したギガは、溜息をつくナナシの背中をぼんやりと追い、おもむろに名を呼んだ。

「ナナシ」

「ん」

身をかがめたギガが振り返ったナナシの脇に両腕を入れ、軽々と抱き上げる。

「よいしょ」

「おい、お前、なんだよ! なあ!」

床から1メートル近く浮いた足をバタつかせ、ナナシが抵抗を試みるもお構いなし、ギガは一向に腕を解こうとしない。

ぬいぐるみでも抱くかのように扱われたナナシは、ついに諦めてギガの首に腕を回した。

宙ぶらりんになった爪先を気紛れに揺らし、不服そうに問う。

「何考えてんだよ」

「分かんねえ。でも皆、これが足りてねえんだ」

強い弾力のある腕が肋骨の辺りを軽く締め、着重ねた服を通してナナシの肌へと熱が伝わる。

「…………」

「泣くなよ」

ギガは否定することもなく、ポニーテールにまとめたナナシの髪に鼻先を埋めた。

ナナシはわずかに揺れる肩と鼻をすする音に唇を噛みながら、浅黒い首筋に薄く残る縫合痕を見つめて呟く。

「ごめんな………痛かったよな」

ギガは小さく頷き、そして囁くような声で続ける。

「傷はな、いいんだよ。身体の方じゃねえんだ」

彼はまるでその苦しみを思い出すかのごとく、ナナシを抱えたまま、ぼろぼろに引き裂かれたソファーにどさりと座り込んだ。

「あのな……俺は、頼ってほしかった。泣きついてくれたってよかった。お前がどれだけ耐えてきたのか知らなかった。もっと信じてくれてると思ってたんだ。それが一番痛かった」

堰が切れたように捲し立てるギガに、ナナシは顔を窺おうとソファーの背を押した。

だが、ギガは表情を見られまいと―――加えて、少しの他意を込めて―――ナナシの胴を一層強く抱き締める。

「お、おい、ギガ!」

鋼のような腕に息が詰まり、ナナシはわずかに悲鳴をあげた。

「ミケだってAIの不備で捨てられかけたけど、今はちゃんとやって行けてる。時間はかかるかもしれないけど、お前が治る可能性だってある。甘ったるい考えだって笑うかもしれねえ。仮に治らなくたって、皆が一緒にいられんだったら俺は何だっていい、どんな方法だっていい。お前が少しでも正気を保てるんなら、俺の血なんかいくらでもくれてやるし、


「いやだ、そんな」

まどろみに逃避していたときに過った景色と血の味が、また目の前に甦ってしまう。

ギガの腕を無理矢理にほどき、ナナシは怯えたように飛び退いた。

「否定し続けんのか。それが今のお前だってのに


「肯定する権利なんかないだろ! なんでだよ、拒絶してくれよ、お願いだから……


肯定する権利も、抱き締められる権利もない。

もう一度生きるために目を覚ましたわけじゃない。

遠征に出たメンバーが戻ってきて、万が一また襲撃されても逃げおおせるほどの戦力が確保されたら、全部終わって、全部償ったら、どこかへ消えようと思っていた。

勢いに任せて廃工場地帯の外側に飛び出して、二度と戻れない所まで逃げて、そこでスクラップになってしまえば、自分が今回以上の被害を出すことはない。

ナナシは顔を背けながら、震える声で懇願するように叫んだ。

「第一、ここにはお前だけじゃねえんだ、お前だけ良くったって駄目だよ、なあ、


「それは、そうだろうな。みんな怖いと思ってる…………なにしろ、俺は怪我すると絵面が派手だからな、驚いただろうな。まだ驚きっぱなしの奴もいる


ギガは微かに頬を緩め、ややおどけた様子で肩をすくめた。

「けど今は、俺が知ってる……よりも弱そうなナナシだ、なんにも怖くねえ


まずはみんなに現状を話して誤解を解くことからだ、とギガは呟いた。

「お前が一番怖がってるんだ


「…………」

「端っから『肯定される権利』なんて概念はない。受け入れるのも、受け入れてもらうのも『当然』だろ


ナナシは今にも泣きだしそうな顔を押し隠そうと、かたく口を結んでそっぽを向いている。

ギガは下から見上げるように首を傾げた。

「やっと色んなことから逃げられるようになったんだ


「…………」

「次は頼れるようになれよ」

「……う」

ナナシは言葉として答えることはなかったが、眉間にしわを寄せた険しい表情のまま、ついにボロボロと涙をこぼした。

道端で転んで泣いた少年のように、手の甲で目元を何度も拭った。

その姿はいかにも泣き慣れていない様子で、初めての器具や端末を手に取ったときのような、どこか覚束ない雰囲気が滲んでいる。

長い眠りから目覚めた後のナナシはどこかの箍が外れてしまったようで、溢れた感情を抑えることもできず、震える喉からようやく一言だけ絞り出した。


「ありがと」



「………………おう」

ギガは獣にも似た歯を見せて笑い、やはり一言だけ囁くように答えた。




CHAPTER/12 JUST AS LONG AS YOU STAND BY ME

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